第3話「第三王子、荒波に乗り出す」

 統一暦一二一五年一月五日。

 グライフトゥルム王国北部ネーベルタール半島、ネーベルタール城。第三王子ジークフリート


 “千里眼アルヴィスンハイトのマティアス”に会いに行くため、城を出る。

 ここに来てから近くの町カウフフェルトに行ったことはあるものの、遠出することは初めてだ。


 ネーベルタール城は昨年の秋頃からマルクトホーフェン侯爵派に監視されており、素直に出ていけば見つかってしまう。そのため、早朝に漁船に乗って真冬のシュトルムゴルフ湾に乗り出すことにした。


 まだ真っ暗な空の下、寒風が吹きすさぶ城の通用口の前に、リヒトロット皇家唯一の生存者、エルミラ殿下が見送りに来てくれた。


 エルミラ殿下は二年前の冬に、ここネーベルタール城に逃げ込んできた。

 当時はまだ十歳の少女に過ぎず、祖国の滅亡によって親しかった者たちを失ったことから憔悴しきっていたが、今では少しずつ明るさを取り戻し、私とも時々話をしている。


「この時期の海はとても荒れるから心配です。ご無事にお戻りになられることを祈っております」


 彼女も真冬のシュトルムゴルフ湾を横断して王国に逃げており、この時期の荒れた海の酷さを知っている。


「エルミラ殿下を救出した漁師が船を出してくれますから心配はいりません。殿下も風邪など引かれないようにしてくださいね」


 彼女はもうすぐ十三歳になる愛らしい少女で、私にとっては妹のような存在だ。


「マティアスとイリスによろしくお伝えください」


 ラザファムがそう言ってきた。その表情に明るさはない。

 彼はこの時期にグライフトゥルム市に向かうことには反対だったからだ。


『真冬のシュトルムゴルフ湾は危険です。それにマティアスに連絡すれば、安全に移動できるように手を打ってくれます。彼に連絡した上で、三月までお待ちいただけませんか』


『少しでも早くマティアス卿の力を借りたい。それに力を貸してほしいと頼みに行くのに、彼に力を借りなければ会うことすらできないなど情けない。独力で彼に会い、私の覚悟を見てもらう』


 そう言って私は自分の意見を貫いた。


『そうですか……分かりました。私も同行したかったのですが、監視の目があります。殿下のお力だけとなりますが、本当によろしいのですね』


『もちろんだ』


 彼は反マルクトホーフェン侯爵派であり、今でも警戒されている。侯爵派の監視の目があるため、城代である彼まで不在にするわけにはいかなかったのだ。


 もっとも監視しているのは真実の番人ヴァールヴェヒターの間者ではなく、マルクトホーフェン侯爵派の騎士で、時々城を訪れて様子を見に来るだけなので、私の存在にすら気づいていない。


 そんな話を思い出したが、気合いを入れなおす。


「それでは行ってくる。あとを頼む」


 それだけ言うと、通用口から城の下にある小さな船着き場に向かった。


 乗っていく漁船は非常に小さく、私に同行するのは護衛騎士のアレクサンダー・ハルフォーフと陰供シャッテンのヒルデガルト・シュヴァルツェナッハの二人だけだ。


 私は旧皇国貴族の若者が武者修行に出るという設定であるため、使い古された革鎧とバスタードソードを持ち、普段はメイド姿のヒルデガルトも女傭兵のような武骨な革鎧を身に着けている。そのため、遠目には王子の一行に見えることはないだろう。


 船着き場には全長五メートルほどの小舟が一艘、風と波に揺れていた。船の上には船員らしき男が二人いる。


「アレクだ。よろしく頼む」


 アレクサンダーが目つきの鋭い船頭に声を掛ける。船頭は早く乗れというように顎をしゃくった。


「トラウゴットだ。話は聞いている。ブラオン河の河口までは確実に連れていってやるから安心しろ」


 トラウゴットはこの辺りの海の漁師であり、大賢者マグダを運んでくる船乗りだ。その伝手を使い、依頼していた。

 言われるまま船に乗るが、乗った瞬間からその不快な揺れに悩まされる。


「外海に出たら、こんな揺れじゃねぇぞ。吐くんだったら、そこにある桶を使え」


 その言葉通り、船着き場から百メートルも行かないうちに船は前後左右に激しく揺れる。その揺れに五分もしないうちに船酔いになった。


「夜まで岸には近づかねぇ。俺たちは操船に手いっぱいだ。手間を掛けさせるなよ」


 それから時間の感覚がなくなった。アレクサンダーとヒルデガルトは全く船酔いしていないようで、私のことを心配してくれる。

 鍛え方が違うのだろうが、自分の不甲斐なさに情けなくなっていた。


 初日は小さな入江にある漁村に泊まる。上陸するが硬い地面であるはずなのにまだ揺れている気がし、揺れが収まっても宿泊場所の倉庫の中は漁網の魚臭さで吐き気が収まらなかった。

 結局、出された食事は碌に喉を通らず、空腹を抱えたまま、横になった。


 翌日は更に波が高く、激しい揺れが続いたが、身体が慣れたのか、前日よりマシだった。

 日が落ちる直前、揺れが小さくなる。


「あの桟橋につけるぞ」


 トラウゴットは前方にうっすら見える桟橋を指差した。


「泣き言を言ってくると思っていたが、初めてにしちゃ、よく頑張った方だ。まあ、この時化の波を全く気にしなかった、そっちの兄さんと姐さんにはびっくりだったがな」


 ぶっきらぼうな感じは残っているものの、少し見直してくれたようで、最初より口調が柔らかい。

 トラウゴットと別れ、ブラオン河の河口にある桟橋から上陸する。


 ブラオン河は王国の屋根、ヴォルケ山地を源流とする大河だ。

 中流域にあるグリュンタール市までは比較的流れが緩やかであるため、王国中部の物流を担っている。


「明日からは川船を利用しますが、明後日にはマルクトホーフェン侯爵領に入ることになりますので、場合によっては陸路に変更するかもしれません」


 ヒルデガルトが歩きながら真剣な表情で説明する。


「問題ないよ。駆け出しの魔獣狩人イエーガーを演じてみせる」


 目的地であるグライフトゥルム市に向かうには、危険な山地や森を避けようとすれば、必ずマルクトホーフェン侯爵領を通ることになる。


 山や森は魔獣ウンティーアが跋扈しており、アレクサンダーやヒルデガルトならともかく、私という足手まといがいる以上、侯爵の手の者に見つかるリスクを考えても、ブラオン河や街道を通った方が安全だ。


 もちろん、私もラザファムやアレクサンダーから剣を学んでおり、東方系武術である四元流の初伝を授けられている。しかし、実戦経験もなく、下級のゴブリン程度ならともかく、災害級と呼ばれるキメラシメーレなどが出てきたら、生き残れる可能性は低い。


「この宿に泊まりましょう。アレク、ジーク様を頼みます」


 ヒルデガルトはそう言うと、古びた宿に入っていった。

 私はジーク、アレクサンダーはアレクと呼ぶことに決めている。どちらも割と多い名であり、叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの情報分析室で作ってもらった偽の身分証明書もその名が記載されている。


「アレクはこういった旅をしていたのか?」


「ええ。武者修行時代は金がなかったので護衛をしたり、魔獣を狩ったりしながら旅をしていました」


 アレクサンダーは法国や帝国との戦いで武勲を上げ、勲章を得て近衛騎士になったほどで、四元流の皆伝であるラザファムが全く敵わないと言うほどの腕を持つ強者つわものだ。


「ここで大丈夫のようです。個室ではなく、大部屋ですから発言には気を付けてください」


 それだけ言うと、私たちを先導して中に入っていく。


 今回の設定は、私は皇国の元貴族の息子、アレクサンダーは元家臣の護衛で、ヒルデガルトは彼の妻というものだ。魔獣狩人イエーガーになるため、グリュンタールを目指している。


 皇国の没落貴族は少なくないし、武芸の心得がある者が出自を問われない狩人イエーガーを目指すことは珍しくないので、違和感は少ないと考えたのだ。


 もっとも、この設定はマルクトホーフェン侯爵領に近づいてからしか使うつもりはなく、目立たない狩人イエーガーの一行に見せるようにしている。


 宿に入ると、灯りの魔導具はほとんどなく薄暗い。大部屋に入るが、寝具などなく、饐えた臭いが充満していた。

 入った瞬間、中にいた五人ほどに視線を向けられるが、特に何ごとも起きることはなかった。


 翌日、夜明けとともに船着き場に向かう。

 肌を切るような寒風が吹いているが、シュトルムゴルフ湾に比べれば遥かにマシだ。


 遡上する船は全長二十メートルほどのスマートなもので、中央にマストがあり、両側に十本ずつオールが出ていた。ガレー船というらしく、我々乗客は甲板の下にある船室に入る。


 船室には既に三十人ほどの乗客が乗っており、そのほとんどが役人とその護衛のようだ。昨日聞いた話では、ガレー船の運賃は高いため、急ぎの用事がある役人が多く利用するらしい。


 出港するが、昨日までと打って変わって揺れは少ない。そのため、船酔いにはならなかったが、船室には窓もなく、乗客と話をするわけにもいかず、すぐに退屈になる。


 休憩を兼ねた昼食時に一度船を降りる。

 船着き場近くにある食堂に向かう途中、ヒルデガルトが小声で話しかけてきた。


「間者らしき者がおりました」


 その言葉に思わずギクリとして振り向くが、「ジーク様」とアレクサンダーに言われて、表情を戻す。


「我々が偽装していることに気づいたようです。ただ、正体までは分かっていないようですが」


 彼女の報告を聞き、振り返ることなく、質問する。


「どうすればいい?」


「とりあえず、このままでよいでしょう。ここで姿を消せば、相手は更に不審に思いますので」


 その言葉に頷くが、昼食で何を食べたのか覚えていないほど緊張し、船室に戻っても視線を彷徨わせないようにすることに注力しないといけないほどだった。


 初日の終着点に着くと、そのまま宿を探す。


「今日は予定を変えて、少し良い宿に泊まります。ジーク様が皇国貴族の生き残りで、姿を変えて逃げているという風に見せるためです」


 彼女の言った通り、昨日よりかなり上質な宿で三人部屋に泊まる。

 部屋に入ったところで思わず安堵の息を吐きだしてしまった。


「それにしてもどうして間者がいたんだろう?」


「恐らくですが、マルクトホーフェン侯爵が監視を強化しているのだと思います。マティアス様がシャッテンを使って情報操作を行うことは有名ですから、不審な者が侯爵領に入り込まないように見張っているのでしょう。ここまで厳しく警戒しているとは想定しておりませんでした。申し訳ございません」


 そう言って頭を下げる。


「いや、私が急いで出発を決めたから、非は私にある。それよりも今後の方針について確認したい」


「部下の報告を待つ必要がありますが、ここで陸路に切り換えれば、更に疑われます。計画通り、船でグリュンタールに向かう方がよいでしょう」


 アレクサンダーもその方針に賛成したため、私も承認した。

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