第3話 ヘラヘラしくさりやがって
高校二年生の秋。もうすぐ文化祭とはいえ、浮かれる時としっかりする時はキッチリ切り替えなければいけない。なにせもうすぐ受験なのだ。……というのは建前だ。
夜八時。私は塾帰りのへとへとな身体を引きずっていた。夏から通い始めた駅前の河合塾は未だに慣れない。周りと自分の気持ちのギャップを感じる。
自分の意思で通うと決めたことではない。親に「塾、申し込んどいたから」と決められて、あれよあれよという間に通うハメになったから、心が環境に追いついていないのかもしれない。やる気がないのに努力しなければいけないのは辛い。
────わ、私、まだ塾に行くって言ってない……。
────は? じゃあ塾行かずにどうするの? あんた成績悪いのに。もう高校二年生なのに。大学いけないよ、そんな低い意識じゃ。
────だ、大学……。
────あんたは要領が悪いんだから塾に行かないと。二年生の夏からなんて遅いくらいなのに。遊んでる暇はあるのにね。
「……疲れた……」
仕事帰りのサラリーマンたちの濁流に身を任せながら呟いた。駅に吸い込まれていく人々を見て、排水溝みたいだな、と思った。横を見ると駅と一体化している百貨店の高級商品が並ぶウィンドウが見えて、雑踏の音と車の走行音が耳から入り込んで、情報量で沸騰しそうだった。
どうせ誰も私の言葉を聞いてくれる人なんていない。勉強を頑張ったフリ、従っているフリ、言うことを聞いているフリ。でも、自分の思ったことを言う勇気も無い。
私が、自分の名前が嫌いなことも、誰にも言えない。
弱虫。私。
今日、塾があるから、とマリちゃんのお誘いを断ってしまったから、また何か言われるかも、と冷や冷やした。明日の学校が憂鬱だった。
「……はは、疲れてんなー、やっぱり……」
身体が疲れると心も疲れる。ダメな方向に思考が向かうのは疲れているからだ。考えても無駄なことを考えて嫌な気分になるのも疲れているから────
「……ん?」
通りすがりに見覚えのあるピンク髪が視界に入る。道路沿いにマイクを握って立っている。路上ライブだろうか、車道を荒ぶって走る自動車のヘッドライトに照らされながら歌っている。いや、ラップしている……?
あれは────出原さん?
「オーケー! じゃあ今からなんでもいいから単語言って! それ繋げてラップしまーす!」
出原さんは十数人のオーディエンスに囲まれている。彼らは「いいぞいいぞー!」「それ聖徳太子ラップやん」と彼女を煽っている。みんな楽しそうにランダムな単語を次々と伝えていく。
「いいね、じゃあビートは……せっかく名古屋だからTOKONAにしようかな。みんな『知らざあ』知ってる?」
出原さんがスピーカーに繋がったスマホを操作して音源を流すと、数人が「おおお!」と反応した。それに出原さんもニヤリと笑った。
「えーっと、トーキョー、休憩、華金、ひつまぶし、ラッタッタ、ね。なに、ラッタッタって。はは……じゃあ、行きまーす」
咳払いをした出原さんは、真剣な表情に切り替わって────マイクを唇に近づけた。
MC:出原ユウ
BEAT:知らざあ言って聞かせやSHOW/TOKONA-X
〈馬鹿野郎たわけ おみゃーら並べ
お前とお前とお前だ 気を付けして並べ
From大阪MC或です
お兄さんそのジャケット似合うね
名古屋の皆さんお見知りおきを
駅前キラキラまるでTOKYO
こんな小娘にみんな優しい
実は初めて名古屋来たし
正直ちょっと不安だった
でも安心したラッタッタ
マジでなに? ラッタッタって
意味不明 でも取らない休憩
このままずっとラップできるよね
朝まで半端ねー感謝ですみんな楽しんで
話し込んで
だって今日は楽しい華金DAY
えーっと、あと一個なんだっけ? ひつまぶし? ひつまぶし、ひつまぶし……
……あっ、it’s my pussy! あっ〉
「やばっ、これ下ネタじゃん! 今の無し! ごめん、忘れて! えっと、pussyじゃなくてbullshitで! くっそー、なんでこれが出てこなかったー!」
顔を赤くしながら悔しがる出原さんにオーディエンスが笑っている。ぷっしー? なんだそれ? 気になってスマホで検索したら、私は顔を真っ赤にしてその場に立ち尽くすハメになった。
「……すごいなぁ」
私は感嘆の吐息を吐いて、その場に立ち尽くした。出原さんをただ見つめた。あんなこと、私には無理だ────出原さんと目が合った。
「あれ? 留座さん?」
「ひぇっ」
人垣をかき分けた出原さんが「おーい」と手を振りながらこちらへ近づいてくる。いきなりのことで何をどうしたらいいか分からなくなる。パニックになる。
出原さんが私にたどり着くまで、あと二十歩────こっちも手を振り返す? でも私と出原さんは一回挨拶しただけの関係だし、そもそもマリちゃんが愛想よくなかったから傍にいた私も変な風に思われていたらどうしよう。
出原さんが私にたどり着くまで、あと十歩────ダメだ、今さら逃げられない。そしたら何を話せばいい? そもそも共通の話題なんか無いし、私は出原さんのことを何も知らない。とりあえず、こんばんは? どもったらどうしよう。変な奴だなって思われたらどうしよう。
出原さんが私にたどり着くまで、あと五歩────あああああああああ来た来た来たやばいやばいどうしようどうしようまだ何話すか決めてない! そうしないと私どもっちゃう! いやだ、恥ずかしい────
「やっぱり。ほんとに留座さんだ。奇遇すぎ」
「あっ、あっ、う、うん。んぎ、ぐぅっ。偶然だねっ」
めっっっっっちゃどもった! 噛んだ! 死にたい! どもったのは緊張で『きぐう』を『奇遇』と脳内で変換する速度が遅れたからだ。
「どしたん、こんなところで? 家ここらへん?」
「い、いや。塾の帰りで……出原さんは? えっと、い、いいの? お客さん……」
出原さんはお客さんたちを振り返り、「いいのいいの、もう終わったから」と手をひらひらと振った。
「あー、ごめんね。昼にお誘い断っちって」
そして彼女は頭を掻きながら苦笑する。
「アタシ、ずっとラップしてて。新しいとこに来てもやりたかったんだ。アタシの大事なものだからさ、時間取られたくなくて」
「そ、そっか。うん、すごくかっこよかったよ」
出原さんのマイクに私は目を落とす。人前で、しかも路上で、あんな楽しそうにマイクを握って、臆する様子など微塵も見せずに堂々と歌っていた。他の誰かにどう思われるか、とか笑われるかも、なんて考えないのだろうか。
私とは大違いだ。同じ人間とは思えない。いつも人目を気にして、顔色を窺って、自分がどう思われるかを気にして、誰かの影に隠れて、矢面に立つのを避けている────私とは。
同じ人間なのに、生きてきた時間は同じはずなのに、どこからこんなに違ってしまったんだろう。
そう自分を省みて、もっと自分が嫌いになった。
「興味ある? もしかして」
「へっ!?」
いきなり出原さんがマイクを渡してきたから、思わず後ろへ飛び上がった。
「む、無理! 無理無理! 私なんか、む、向いてないから! そういうの!」
「そんなことないと思うけど。ちなみに、やったことは?」
「ないよっ! 考えたこともない!」
自分がラップをするなんて考えたこともなさすぎて、気づいたら語気が強くなっていた。ハッと我に返って出原さんを伺う。
「ご、ごめん、私……」
「別に? まぁ普通は無いし」
出原さんはあっけらかんと返してくれた。
「でも、もったいないな。なんとなくだけど、留座さんは向いてる気ぃする。誰だってマイク握ればラッパーになれるし、よかったらワンバースだけでも────」
「おい! 退けぇ!」
突然、ドスの効いた輩の声が私たちの間に挟まってきた。
「誰に許可取ってここでやってんだよ」
視線を向けると、そこにはキャップにダボダボのパーカーとダボダボのズボンを履いてゴールドのネックレスを巻いた、いかにもな十名ほどの集団が肩で風を切っていた。出原さんを囲んでいたお客さんたちを無理矢理押しのけて私たちに近づいてきた。みんな強面で年上でオラオラしているから怖くて、私は喉に栓がされたみたいに言葉と息が出なくなった。
「許可ぁ?」
しかし出原さんは対称的に臆することなく一歩前に出た。まるで庇うように私の前に立った。
「ここ路上でしょ。許可って何言ってんの? 警察の人? んなわけないよね」
出原さんが鋭い言葉をぶつけても、彼らはヘラヘラ笑うだけだった。
「おいおい、何言ってんだ。ここは俺らのクルーが毎晩集まる場所なんだよ」
「まさか地元で俺らのことを知らねぇ奴がいるとはなァ」
とことん私たちを見下したような笑みを向けてくる。お前らなんて相手にもならねぇよ、とっとと退けよ邪魔だ、とでも言いたげだった。
「いや、誰?」
「……は?」
しかし出原さんはその上を行く、相手を見下しも見上げもしない無関心の視線を向けていた。
「ごめん、アタシ最近ここに引っ越してきたばっかりなんだ。有名な人だったら申し訳ないけど。でも、ここ公共の場所っしょ? 早い者勝ちってことで、今日は違う場所で集まってくんね?」
全くの正論をぶつけられた輩の集団は一瞬だけポカンとして、それから額に青筋を浮かべ始めた。
「なんだ、お前」
「お前、俺ら『BetTownCrowd』を舐めてんな?」
「あーっ!」
私は思わず叫んで、出原さんの腕を引っ張った。そのクルー名に聞き覚えがあったからだ。
「ま、まずいよ出原さん! あの人たち、その、有名な人なの!」
「え、マジ? 知ってんの?」
クルーとはヒップホップにおけるアーティスト集団のことで、一つのクルーにはラッパーやDJ、トラックメイカー、グラフィックデザイナーなど様々な人物が属する。彼ら『BetTownCrowd』は私たちの地元を拠点に活動するクルーで、地元でヒップホップが好きな人間はみんな知っている存在だ。
悪い意味で。
「いくつものMCバトルの大会を優勝してる人がリーダーのクルーなんだけど、その、負けた相手への仕打ちが酷くて……あの人たちのせいで何人ものラッパーが引退するくらい────」
「へー、そう。じゃあ頼み聞いてあげる理由もっと無くなったなー」
「や、やめてよ! 挑発しないで!」
「……お前よォ、黙って聞いてりゃ調子こいたこと言いやがってよォ」
輩たちの中でも眉毛が無いとりわけ人相の悪い男が一歩前に出て、出原さんに向かって凄んだ。彼は出原さんの握るマイクをちらりと見た。
「そういえばお前さっき、なんかラップの真似事してたよなァ。最近多いんだよな、ブームに乗っかって自分でも出来るって勘違いしちゃうキッズがよ!」
「ヒップホップのストリートカルチャーも理解してねぇガキが出しゃばんな!」
「ガールズバンドとちげぇんだよ!」
「お前が握るのはマイクじゃなくてチンポの方だぜ、お嬢ちゃん!」
「ぎゃははははッ!」
下品な顔に相応しい下劣極まる言葉を吐き、臭い唾を飛ばしながら彼らは爆笑する。
「さ、最低……っ」
私は怒りに任せて拳を握った。しかしその拳は小さかったし、何より震えていた。
私が出て行って何になるというんだ。一回りも二回りも身体の構造が違う男たちにコテンパンにされて連れ去られるのがオチだ。それを想像して、断崖の絶壁につま先を向けた時のように足が竦んだ。
私は、知り合いが罵倒されていて怒っていても行動に起こすことができない臆病者だった。それが何よりも悔しかった
「────留座さん」
拳に誰かの手のひらが重ねられた。細くて長くて白い手首と指────出原さんのものだった。
「出原、さん……」
「見てて」
彼女は私にウインクすると、更に前に進み出た。彼らに真っすぐ向かって行った。その背中に恐怖など微塵も見せず、むしろこれから成し遂げる『何か』にワクワクしているかのような高揚が滲み出ていた。
「お前らこそ、黙って聞いてりゃ大勢でごちゃごちゃヘラヘラしくさりやがって」
「……はぁ?」
輩たち『BetTownCrowd』はたった一人の少女の発するたった一言に口を噤んだ。
その声の冷たさに、私は身震いをした。
「ラッパーのくせにマイク持って戦う勇気も無いわけ? マジだせぇよ」
ここは外、車が往来する車道沿いのはずなのに、静かな部屋で聞こえる耳鳴りが鳴った気がした。それほど寒々しい沈黙が私たちを包み込んだ。
「……やってやるよ」
先ほどの眉毛の無い男が怒りを通り越した無表情でそう言い放った。
「上等だ……! 吐いた唾飲み込むんじゃねぇぞ! おい、マイク寄こせ!」
は、はい! と舎弟っぽい男がマイクを慌てて眉毛無しに渡した。
「い、出原さん……」
私は心配になって彼女に近づくも、彼女は振り向いてピースサインを向けてくる。
「大丈夫だよ。アタシ、慣れてるから」
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