第10話「【赤の月】卯月二十九日」


「離れたくない」


その言葉に彼は目を見開き、ゆっくりと指から唇を離して目を反らした。


「すみません」


たった一言の重さに恥ずかしくなって視線を落とす。

視界が涙に歪んでしまったので、急いで袖で拭って笑顔を貼りつけた。


「ごめんなさい。私ってば何を……」


(どうして……)


顔を上げた先にいたのは、私よりもずっと苦しそうな顔をした彼。

拒絶しておきながらそんな顔をするのはずるいと、私は唇を固く結んで彼の襟元を引っ張った。



パチパチと鳴る焚き火の音が濡れた音を隠してくれた。

夜に浮かび上がる赤い瞳に呑まれて私は思い出す。


私たちの影を重ねる火の揺らめき。

想いを重ねながらも言葉にしなかったあの日を。


(縛るものがないと言うならどうか。月に見られたってかまわない)


湿り気の多い息を吐き、私は間もなく満ちそうな大きな月を目に焼きつけた。


***


そして卯月二十九日、約束の日より一日早いお別れ。


その日は曇りのち晴れ。


私は彼に連れられ、遠い血縁者となる夜司(よつかさ)家に引き取られることになった。


和洋折衷のお屋敷で、出迎えてくれた中年夫婦と娘が笑顔で歓迎してくれた。


人のよさそうな雰囲気だが、娘の凪子は特に喜んでくれているようで、目があうとニカッと歯を見せて笑った。


「こら、凪子! 淑女はそんな大口で笑いませんよ!」

「いってー。今さらムリだろ! 下町育ちが染み付いてんだから!」

「な、凪子、やめなさい。時羽さんが驚いてしまう」


お転婆というか、豪快というべきか。


髪を短く切りそろえ、矢絣柄の着物に袴と今どきの女学生に見えるが、よく見れば足は大きく開いており、顔も小麦色でそばかすが多い。


富裕層の人はキレイな手をして、色白で、身振り手振りも小さい。


この家族はどうも小奇麗にすることに慣れていないようで、苦労の影が見えた。


「時羽さん、すまないね。うちは元々下町に暮らしてて。緋月様のおかげで今、こうして生活が出来ているんだ」


夜司の主人が腰を低くしておだやかに微笑み語る。


「……そう、なのですか?」


隣に立つ彼に顔を向けるが、彼はにっこり笑うだけで答えなかった。


「せっかくですからお茶でもいかがですか? 長旅でお疲れでしょう?」

「いえ、俺はこれで……」

「あら、そうですか……。時々、お顔を見せに来てくださいね。時羽さんも喜びますから」

「……時羽様をよろしくお願いいたします」


夜司家に着く前から、彼はやけに口数が少なかった。


私が声をかけても上の空で、彼の早足に対し私の足取りは重くなるばかりだった。


心臓が握りつぶされるかと錯覚するほどに痛い。


彼が私の前に立つと、スッと手を伸ばしてくる。

直視出来なくなった私はつい、ビクッとしてしまい肩をすくめてしまった。


頬に触れそうだった彼の手はゆっくりと降ろされ、頭上で吐息に紛れた微笑みを感じた。


「お元気で。どうか平穏に、時羽様が自由に生きれることを願っております」

「ぁ……」


最後まで彼の声はやさしくて、私の心を束縛する。


蚊の鳴くような声しか出ず、去っていく彼の後ろ姿が涙で歪み、遠ざかっていく。


どうして、どうしてと、わかっていたのに急に見放された気分になってしまう。


この日が来るのを知って、いざ当日を迎えれば彼はあっさりといなくなってしまった。


追いかけたかった。

行かないでと彼の背に頬を寄せたかった。


だけど彼のうら悲しそうな赤い瞳が”追ってくるな”と拒絶を示し、私の足を地面に縫いつけた。


彼が見えなくなるまで私は泣き続け、一歩も動けなかった。


曇り空の下、坂道で彼が見えなくなった途端、私は膝をつき顔を覆ってさめざめと泣いた。


「おい……。大丈夫か?」


凪子が隣にしゃがみこみ、私の背を不器用に擦ってくれた。


肝心な時に私は怖がって何もしない。


あれだけ強い拒絶を示されれば、私は彼のためにもこうするのが正しい。

はじめから”一か月”の約束であり、それ以上は彼が一緒にいられないと言った。


私と彼を繋いだ一か月。

以前の私がほとんどいない、約束のひととき。


結局、私は彼が何者かわからないまま、声もあげられずに泣き暮れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る