第3話「名前を呼んで」
***
それから里から少し離れた場所に建つ、平屋に立ち寄った。
中には老夫婦がおり、彼が老夫婦にいくつかお願いごとをするのを眺める。
老夫婦に招かれて中に入り、囲炉裏の前にちょこんと正座する。
彼は気難しい顔をしてうっとおしそうに髪をかき上げた。
その姿が艶めいて見えたので、彼を見る目がそもそも色気づいていると恥じらいを覚えた。
心の中でアタフタしていると、私の心を体現したかのように老夫婦が右往左往している。
見ているだけで気にかかってしまい、ソワソワしているうちに私は立ち上がっていた。
お茶の準備をする老婆に歩み寄り、ドキドキする胸に手をあてて口を開いた。
「あの、何かお手伝いしますか!?」
「へっ?」
唐突な申し出に老婆の声がひっくり返る。
何でもいいから老夫婦の手助けになればという一心だった。
「……でしたらお茶を運んでいただけますか?」
老婆はおだやかに微笑んで、湯吞みののったお盆を渡してくる。
私は老婆の親切に笑みがこぼれだす。
「緋月さん。お茶を用意いただきました。あたたかいうちにどうぞ」
スッと差し出せば彼は口をポカンと開いて目を丸くしていた。
「ありがとうございます」
すぐに肩をおろし、フッと短く笑うとお茶を一口飲む。
それが嬉しくて、私も一口飲んで染み渡るあたたかさにホッと息をついた。
その後、あたたかい湯で身体の汚れを落とし、新しい着物に袖を通す。
薄紅色の着物に浮かれ、髪もキレイに櫛で梳いてもらい、愛らしい花飾りを添えてもらった。
「わぁ、かわいい。ありがとうございます」
藍色の髪飾りは特にあいらしく、浮かれていると、老婆がにっこりと微笑み彼に声をかけて奥に下がった。
彼は立ち上がり、動きをとめて私を凝視する。
私は頬の赤らみを感じながら足早に彼の前に歩みよった。
「着物、ありがとうございます」
「えっ……」
「緋月さんが全部用意していたと。だからありがとうございます」
「……はい」
しばらく呆けてからの気弱な返事。
お礼を言われるようなことでもないと思っていたのだろう。
つくづく疑問は湧いてくるが、彼の気づかいが何よりもうれしくて、感謝の気持ちを最優先にしたかった。
「お礼、どうしましょう……?」
「お礼?」
「今の私は姫ではないんでしょう? だったら緋月さんに助けてもらってばかりなのはおかしいなって……」
姫であったならば下仕えとして、助けるのは自然のことかもしれない。
だが今は対等なはずだと、いたたまれない想いであった。
「では、緋月と呼んでください」
「?」
「一度で構いません。どうか……」
それはとても切実な想いで。
彼が目を反らせば顔に影がかかり、ほんのり頬が赤く染まって見えた。
質問をすればするほど彼の反応が気になって、逸る気持ちが抑えられない。
「緋月。……前もそう呼んでいました?」
「――はい」
その返答は空っぽだった私の頭の中に一滴の色を落とした。
前も名前を呼ばれていた気がするが、どうも物足りなさがある。
モヤがかかって顔が見えないのに、やさしい響きだけは記憶として耳を刺激した。
なんだかくすぐったくなり、私はもじもじして彼から離れると向かい側で正座をした。
「あの……私のこと、時羽と呼んでましたよね?」
「えっ……?」
キョトンとする彼に私は顔が熱くなり、両手を前に出して首を激しく横に振った。
「そんな気がしただけです! ……ごめんなさい」
小恥ずかしさに手を引っ込めて、膝を上で丸く握る。
彼の顔を直視出来ないと、緊張に縮こまってしまった。
「それは……ほとんど呼ぶことがなく」
「どうして?」
「姫はよくお屋敷を抜け出していました。そこで姫と……」
そこまで口にして、彼は「いや」と口元に手をあて、切なげな眼差しを私に向けてきた。
青い瞳の引力に私はつい顔をあげて彼と目を合わせてしまった。
「あまり聞かないでください。過去のことに縛られる必要はありませんから」
「そっ……そんなこと言われても。自分のことなのにわからないなんて……不安で」
過去がわからない。
彼はそれを語る気がない。
私だけが何もわからなくて、彼と私がここで向き合っている関係性に名前をつけられなかった。
このさみしさはなんだろう。
どうして私は彼に切なさを覚え、何も知らないことに悲しくなるのか。
それを訴えても、きっと彼は答えないだろうと言葉を飲み込んだ。
「でしたら時羽と」
指先が震える。
右手で左の指先を握り、向き合い方に迷う私に明確な今の立ち位置がほしかった。
「姫と呼ばれるのは少しさみしいんです。あまり私と感じられなくて……」
「――時羽」
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