第2話

 試しに、渾身の力で扉を押してみる。

 が、ただ壁と力比べをしているような虚しさと絶望だけが残った。

「ああっ」

 膝の骨が外されたように、私はしゃがみ込んでしまった。

 膝にシャリ、と音がしただけで、雪の温度は全く感じない。

 もう一度、注文の多い料理店を想起させるような木の板を読む。

 涙が滲んだような文字には、確かに『引き返すことは不可能』だとある。


 ――行くしかないんだ。


 もう一度立ち上がると、ふと、沼に沈んだようだった心がふわりと軽くなった。

 目の前には三つの道。

 一番右は、真っすぐ続いている。

 真ん中は、右側に曲がっている。

 一番左は、左側に大きく曲がっている。

 ――こういう時、同じ道を同じ方向に曲がり続けた方がいいっていうよね。

 ごくん、と唾を呑み込んで、髪を結び直す。

 左の道へ、一歩、踏み出す。

 刹那。


「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 パラパラと、天井と繋がっている迷路の壁が零れ落ちた。

 浮いた心は、湿ってズブズブになった。


 ピュウウウウウウ


 完全に閉ざされたはずの館に、冷たい風が吹き込んだ。


 ひやり


 首筋に氷柱が当たったかのような悪寒が走った。


「いやああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 

 その瞬間、弾き飛ばされたかのように、私は一目散に右端の道へ駆け込んだ。


 少し走ると、すぐに心臓を縛り付けられるような息苦しさに襲われ、そこで私は立ち止った。

 それでも、一面が雪で、真っ白な密室に閉じ込められたような胸の潮騒に、座り込むことは出来ない。

 ガクガク震える脚を叩いて、壁に手を付きながら歩く。

 ――一体、どんな思い出が、どれだけ消されるんだろう。

 脳の海に疑問の泡が浮かんだ。

 それを考えた瞬間、爪先から一気に冷たさが伝ってくる。



 ***



 クリスマスイブの日に、ポストに『思い出売却ノ城』の知らせが届いた。切手も貼られていない、紙切れ一枚の状態で。

 これが届く前、泥酔した元夫が家の中に入ってきて、金を求められた。出せるものは無いと言うと、元空手選手の蹴りを腹に食らった。

 僅かな金をも奪われ、久々の外食を楽しみにしながら、保育園から帰ってきた娘を泣かせた。

 その手紙を見た時には、一筋の光が差した気がした。

 私は自分の思い出を売ってでも金を取りに行くことを心に決め、その日の夜、娘を実家に預けて出てきたのだ。

 娘にはクリスマスプレゼントで、好きなお菓子しか置いてくることが出来なかった。


「んー、ママ、このお寿司、チョーおいしーから、ママも食べてー」


 出ていく時、布団の中の娘は、そう言って笑っていた。



 ***



「ガンバレ、出れるんだから、絶対。絶対出れるんだ」

 私は頬を叩いて、クイッ、と口角を上げた。


 すん


 その口角は、いともあっけなくストンと落ちた。

「えっ……」

 すぐに後ろを振り返る。

 背中で感じた気配は、そこには無い。

「何……」

 刹那。


 キーン……キィィィン!


「キャッ!」

 私は思わず耳を塞いで蹲った。

 鼓膜をつんざく、。ハウリングのような音が、真っ白い密室に。

「マイク……?」

 振り返ると、さっきまで私が向いていた方向に、人影が立っている。

「ひゃっ……?」

 そこにいたのは、サルの身体に、メガホンの頭を持った、得体の知れないものだった。

 木の板の文を思い出す。


『迷路の中では、様々なものが蠢いておりますが、直接、あなたに危害を加えることはございませんのでご安心を』


「ナニ、これ……」

 一歩、後ずさる。

 メガホン頭のサルは、こちらに一歩近づいてくる。


「キエル、オモイデ」


 メガホンから、空気の振動が伝わった。ロボットのような、カタコトした日本語。

 もう一歩後ずさろうとした足が、はたと止まってしまった。


《……ねえ、私の何が好き?》

《えー? そうだなぁ、まあ、ハンバーグはマジで絶品》

《いや、そうじゃなくって。なんで、私を選んでくれたのかなー? って》


 少しノイズがかった声が、聞こえた。

 私と、元夫の、声だった。


《えー? ムズッ。なんか、まあ、その一生懸命なところとか、んー、なんかね、見てて応援したくなるところ。俺に尽くしてくれるし。だから、つまり、全部ひっくるめて俺は詩乃が好き》

《……こんなに真面目に答えてくれると思ってなかった》

《え? なんだよ、じゃあこっちが恥ずかしいじゃねーかよ》

《最終的にはまあ、よかったー》

《じゃあ、逆に詩乃は? 俺だけってのはフェアじゃねーだろ》

《えー? ええー? えええー?》

《なんだよ、パッと出てこねーのかよ。おーいおいおーい》

《いや、具体的にってなると、逆にムズイっていうか……。まあ、ストイックで、一途なとこ、かな?》

《……ありがとう》

《なんで照れてんの? 可愛いー》

《うるせえよ》


 ジジジーッ、と、ゼンマイを巻くような音が聞こえた。

 私は、身体が、そのメガホンに溶け込んでいくのを感じていても、その快感を止められなかった。


《ギャーッ、ギャーッ!》

《おおっ! 産まれた! すげーぞ、すげーぞ詩乃! マジ天才すぎる! お疲れ様》

《フゥ、ありがと……フゥ、すごいね、命が、新しい命が生まれたんだね……》

《頑張ろうな》

《うん……》


 鼻に、つん、と刺激が走る。

 また、ゼンマイの音がした。


《ほら、まだ捕まってていいよ。お父さん、強いから》

《よっしゃ、行けるか?》

《んー、んあーっ!》

《離すぞ? ほれ。うおっ!》

《あ、あ……》

《歩いた! すげえ、すげえぞ詩央!》

《やったあっ!》


 脳裏に、公園の芝生に立って、よちよちと歩く赤ん坊の姿が鮮明に浮かんだ。


《ちょっと、なんでこんなティッシュぐちゃぐちゃにしてんのよー》

《いーい、いー》

《まあ、まあ。やっぱ、子供は創意工夫っていうじゃん?》

《片付け大変だよー》

《俺がやるから、いつもの旨いハンバーグ、頼むわ》

《いいの? ありがとー》


《これ、何?》

《ちょうちょー》

《じゃあ、これは?》

《おはなー》

《あれは?》

《ぶうぶー》

《じゃあ、この人は?》

《おとん!》

《なんでだよ! なんで関西風の親父みたいな!》

《ハハハ、当分、おとんでいなきゃだね》

《マジかよー。じゃあ、詩央、この人は?》

《ママ!》

《なぜじゃあー!》

《きゃははは! きゃははは! おとんおもろいー》


《ねえねー、ケッコン、ってなあに?》

《ん? 結婚はね、ずっと一緒にいたい! って思うほど大好きな人と、ずっといるっていう誓いをすることだよー》

《じゃあ、パパとママも?》

《そうだよー、ママは、パパのこと大好きだから》

《じゃあ、パパは?》

《パパも、ママのこと、大好きだから。多分ね》

《じゃあ、しおは?》

《もちろんパパもママも、今は詩央が一番大好きだよー》

《しおも! 大好きー》

《ありがとう。ギュー》

《きゃはははは!》


「ダメだっ……」

 真っ白い雪に雫が落ちて、じわり、とけてゆく。

「詩央……。尚央なおくん……っ」

 コートの裾を目に当てても、コップから溢れたオレンジジュースみたいに、涙が止まらない。

 サルは、ぐるりと首を傾げ、一言、言った。


「コノサキニ、ススミマス」

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