思い出売却ノ城

DITinoue(上楽竜文)

第1話

 トンネルを抜けると、そこには雪の館があった。

 世界を分けるように連なった山々を貫く、レンガ造りのトンネルを進んでくると、そこは全くの別世界だった。川端康成の名文を思い起こさせるほどの。

 四方を山に囲まれた真っ暗な場所。三日月の微かな月明かりに照らされたぼたん雪がドサドサと降り注ぐ。


 そして、目の前には、周囲に美味くカモフラージュした雪の館が佇んでいる。


 私はしばし、息を呑んで館を見上げていた。

 吸血鬼が住んでいそうな洋風の建物は、中級貴族の館くらいの大きさがあり、木で出来た扉には蝋燭が左右一本ずつ灯る。


「止めといたほうがええよぉ。あっこから幸せそうに帰ってきた人、見たことないからねぇ」


 トンネルに入る前に聞いた老人の声が、唐突に脳裏に流れる。

 右足が、少し後ずさった。

 フクロウの声が、幽霊の声みたいにこだまする。

 ――逃げよう。

 刹那。


「何をしている。ぼおっと突っ立っていないで、早くこちらへ来なさい」


 前から、ハスキーな声が聞こえた。

「えっ」

 かと思うと、操り人形になったかのように、バタバタと脚が一気に動いて、気づけば私は扉の真正面に立っていた。

「えっ……」

 思わず、私は自分の長細い脚を二度見した。

 ブラブラと動かしても、脚は脚のままだ。


「あんたは、この館に用があって来たのかね?」


 と、またそばからハスキーボイスが聞こえる。

「えっ、あ、えっと……」

 扉の右隣に開いた窓から、白髪で前の方が禿げた老人が顔を出していた。

「用があってきたんじゃな?」

 一見、温和そうな顔をした老人が、矢のような睨みを飛ばす。

「はいっ」

 これを自分の声と理解するのに、数秒かかった。

「よしよし、そうじゃろうな。ここに用なしに、この日にトンネルを抜けてくる者など見たことのない」

 顎が取れたかのように、開いた口が塞がらない。

 老人――白松しらまつとマジックで書かれたガムテープを貼ったニットを着たこの男は、にんまりと笑みを浮かべ、紙とペンをバインダーに挟んで差し出した。

「申込用紙じゃ。これに書けば、この館に入って、金をがっぽり得ることが出来るぞ」

 ここまでの驚きで、だらんと垂れた腕が上がらない。


「ほれ、早う書け」


 老人は、しわしわな指で私の顎を上げ、フフフ、と声を出した。

 その時、糸で吊られているかのように腕が上がり、ペンを持って、容姿の項目がスラスラと埋まってゆく。

 息もつかぬうちにだ。

「ほうほう、庄條詩乃ほうじょうしの、二十八歳。離婚した相手に金を全部持っていかれ、また闇金に金を借りて、金が必要。両親は早逝」

 詐欺師のような顔で、申込用紙の内容を朗読する老人。

 ピュウウ、と音を立てて風が吹き、余った皮が縮み上がった。

「そうかそうか、そりゃあ辛かったな。なら、価値のある思い出を作るための金をやらねばならん。さあ、入れ」

 老人は、十枚ほどの一万円札を扇のように広げた。

 その直後に、両親や、友達、先生との、笑ったり泣いたりした記憶が、どこかから湧いてくる。

「っ」

 ふと、目につんとした刺激が走った。


 ――ダメだ。


 背後には果てしない穴が広がる崖に立った気分だった。 

「や、やっぱ……止めます」

 鼻水が鼻筋を伝う。呻き声のように、閉じた喉から言葉を絞り出した。

「遠慮しておき……」

「んんん?」

 刹那、残像を残しながら、老人の笑みが伸びてきた。

「まっ……」

 老人の顔が、すぐ一センチ先にあった。

 ヤニの臭いが鼻を刺激しても、歯を食いしばる他何も言えない。


「金が、欲しいんじゃろ?」


「っ」

 ドッと、スカスカの胃から物が逆流するのを必死に堪える。

 目を背けても、目の前に老人の下卑た笑みがあった。

「のう?」

「は、は、はいぃっ……」

「よし、なら、よいぞ。入れ」

 老人は、何かのボタンを押した。

 刹那。


 グググ、ギギイイイイイイイイイイイイイイイイ


 耳を捻じ曲げるような音を立てて、二枚の、私の身長の二倍ほどもある扉が開いた。

 その向こうには、雪で出来た三つの道がある。

 私には、地獄が口を開けて待っているようにしか見えなかった。

「なら、頑張るんじゃな」

 脚が、凍ったように動かない。

 それでも。

 脳裏で、三歳になったばかりの詩央しおの笑みが浮かんでは消えてゆく。

「んああああああっ!」

 目をギュッと瞑って、私はその迷宮の中へ駆けた。

 忘れるもんか。どんなことがあっても、あの笑顔だけは忘れてやるもんか。


 早速、三本に道が分かれていた。

 ――なにこれ、迷路? どれか一本しか正解がないわけ?

 一歩、踏み出すとカタン、と足先に感触があった。

 湿って朽ちかけている木の板だった。

 ――なにか書いてある。



『館へよくぞおいで下さいました。この館は、『思い出売却ノ城』と呼ばれるように、あなたの記憶と引き換えに、それに見合うお金を支払う場所です。

 ここから先は迷路になっておりますが、どの道を通っても必ず、館から脱出することが出来ます。但し、選んだルートによって、抹消される思い出と、支払われる金額が異なってきますので、よく考えてどうぞ。

 迷路の中では、様々なものが蠢いておりますが、直接、あなたに危害を加えることはございませんのでご安心を。

 そして、一つだけ条件がございます。これより先、あなたが引き返すことは、不可能です。それをよく覚えておいてください』



 ゾゾゾ、と、冷たいものが首筋を這った。

 刹那。


 ダン!


 突然鳴り響いた轟音に、肩と心臓が大きく跳ね上がる。

 後ろを振り返れば、入り口は、二枚の分厚い木の扉によって、がっちり閉ざされていた。

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