会いたくなかった
氷魚
第1話
夏がやってくるたびに俺はある人を思い出すのだ。夏の匂いが鼻をかすった。寂しさを堪えるように、俺は空を見上げた。
俺には忘れられない人がいる。
その人の事は今でも鮮明に覚えている。その人との出会いは俺が小学五年生の春だった。
春の陽気に包まれて、大きくあくびしながら、地元の小学生が集まる野球クラブに向かおうとしていた時だった。当時、皐月はそんなに野球が上手くなくて、野球をやめようかと悩んでいた時だった。
「お、そこの坊主!」
後ろから声がした。坊主というのは俺のことだろうか、と振り返る。
「お前も野球やってるのか?」
綺麗な顔をした少年がそこにいた。そう、この出会いが俺を変えたのだ。バットを掲げ、不敵に微笑む少年。妙に大人びている少年だと思った。
「お前、どこのクラブ?」
「里崎クラブ」
「まじか。オレもなんだよ!」
どうやら、皐月と同じクラブに所属していたらしい。こんな目立つ人がいたら、覚えていてもおかしくないはずなのに、皐月はその少年のことを知らなかった。少年は皐月の手を引っ張って、「一緒に行こうぜ」と桜の並木道を駆けていった。
少年は風のようだった。少年が駆けるたびに風が吹く。強い風ではなく、柔らかくて穏やかで温かい風だった。桜の花びらが舞い、まるで皐月たちの出会いを祝福しているようだった。
「遅いぞ!皐月!蒼!」
里崎クラブの監督である、里崎聡が怒る。
「さーせん!」
明るい声で謝罪する少年。
「あ、オレ蒼。お前は皐月って言うんだな」
目を細めて、「綺麗な名前だな」と笑いかけてきた。
名前を褒められるのは、なんだか照れ臭くて、皐月はグローブで顔を隠した。俺の顔はきっと、赤くなっているだろう。
「よし。メンバーも揃ったことだし、練習するぞ」
監督の言葉に大声で返事し、練習を始めた。皐月は蒼と一緒にアップすることになり、グラウンドで走っていた。目の前で走る蒼の背中は逞しくて、広かった。同い年だとは思えない風格がそこにはあった。
「ねぇ。蒼くんはいつから野球やってたの?俺、去年からなんだ」
「一年生から」
「長いね」
「野球が好きだからな」
「そっか。…俺、野球が好きなのか嫌いなのか、分からないんだ」
蒼は何も言わない。ただ、走り続ける。続けていいのか迷ったが、話を続けた。
「野球を始めて、一年経つけど、なかなか上手くならないんだ。楽しいけど、楽しくないんだ」
走り終え、息切れする。少しの休憩時間で、皐月は水筒をがぶ飲みした。
「最初はそんなもんだよ」
「え?」
「みんなは何かを始める、挑戦するとき、楽しくない、嫌だという気持ちの方が大きいだろう。オレもそうだった。けれどな、オレは思うんだ」
蒼の横顔を盗み見する。太陽の光に照らされ、蒼の緑のかかった黒目がキラキラと煌めく。
「そういう気持ちがあるってことは、少なくとも好きっていう気持ちがあるから。なんとも思わないってことは、好きじゃないのと同じことだとオレは思う。今は辛いだろうけど、続けてみて、あぁ、やって良かったって思える日が必ず来るはずだから」
くしゃりと大きく笑う蒼。
「ま、どうするかはお前次第だけどな」
蒼の言葉を、皐月はずっと頭の中で反芻させていた。蒼の言葉は不思議と、胸の中にストンと落ちた。
肩慣らしのためにキャッチボールが始まった。皐月は蒼と組み、投げ始める。蒼は皐月から見ても分かるくらい、野球が上手かった。皐月の構えたところにちゃんとボールが来る。一緒に組む皐月が恥ずかしい。
「蒼くんは、ピッチャーなの?」
「よくわかったな」
「構えたところに来るから」
「観察眼あるじゃん。それ、お前の武器になるよ」
初めて言われた。そんなこと。
蒼はいつだって、皐月が欲しい言葉をくれる。まるで、皐月の心が見えているみたいに。
「皐月はやりたいポジションとか、あるのか?」
「今のところは…」
「そうか」
次の練習は本格的に試合形式となった。このクラブは人数が多いので、チームを作って、試合をすることができるのだ。
「蒼と皐月はAチームな。そんで、二人でバッテリーを組め」
「え?」
「皐月。お前はキャッチャーとして、蒼の球を受けてみろ」
これがきっかけだったんだと思う。野球が好きになったのは。この時に蒼と組んだバッテリーが皐月の体に雷が落ちたような衝撃を感じた。
皐月は強肩だったらしく、盗塁をほぼ全部仕留め、点を取られることはなかった。
「ほらな」
蒼は皐月の肩を叩いた。
「どうだ?野球を好きになった瞬間」
「…世界が煌めいて見える。これが、好きってことなんだな」
「そうだな」と蒼は大きく笑った。
「お前はまだ体ができていないだけなんだ。けどな、お前のその強肩はいつか、チームを救えるはずだ」
「お前なら、できる」と蒼は皐月の顔を覗き込むようにして、笑った。この時に、皐月は気づいた。蒼は目を細めて笑うのだと。
その言葉を支えに頑張ってきた。蒼は皐月の憧れだった。彼の、その大きな背中を追いかけたくて。追いつきたくて。隣に立ちたくて。
けれど。
小学六年生の時、彼は消えた。何の一言もなく、彼は消えた。
会いたくなかった 氷魚 @Koorisakana
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