第三話 アイーダ、筋肉への愛
筋肉。筋肉しか勝たん。
この謎のフレーズは、長らくアイーダを苦しめていた。
なぜなら、この国では貴族に筋肉は不要だからだ。
(そうか、これは前世の記憶だったのね……)
女神が登場した夢を見て以降、アイーダの前世記憶は鮮明になった。
・前世では推しという者が存在した。
・特に筋肉ラブが極まっていた。
この二点が、前世のアイーダにとっては重要だったようだ。
(だから私も、無性に体を鍛えたくなるのかしら?)
儚さを秘めた、脆さがありながら気高い美しさ。
それを求められる貴族女性にとって、筋肉とは不要なものである。
特にこの国では筋肉は野蛮なものとされ、男性貴族にすら不要なものなのだ。
女性貴族にとっては、なおさら不要なものである。
だがアイーダは、小さなときからずっと、なぜか筋肉を鍛えたくてたまらなかった。
筋肉という言葉すら滅多に使わない貴族社会において、筋肉を鍛えたいと幼子が言うと何が起きるか?
食卓に鶏の胸肉が並ぶのである。
なぜかは知らない。
これではない、とアイーダが訴えた翌日には牛肉が夕食に出た。
これでもない、とアイーダが訴えると、その翌日には豚肉が出たのだ。
それほど、筋肉という言葉と貴族社会、そして幼女の間には乖離があるのである。
なぜかは知らない。
いくら言っても通じないことに業を煮やして、アイーダは自主トレを始めた。
とはいっても、そこは貴族社会。
大人に気付かれたら負けだ。
内緒にしなければ「危ないからいけません」とか「貴族令嬢が何をなさっているの、はしたない」とか言われるのだ。
アイーダにしてみれば、余計なお世話である。
仕方ないので、夜のおやすみなさいをして、ベッドにひとりとなったタイミングで腕立て伏せをしたり、腹筋を鍛えたりしていた。
何かおかしいと気付いた大人にさりげなく探りを入れられたときには、クマさんとふたりきりでは寂しくて眠れないの、などとぬいぐるみを抱えて訴えるという芝居をした。
そうやって弱さをアピールすることで、周りの大人は安心するのだ。
変だな貴族社会。
アイーダは幼女の頃からそう思っていたが、他の子どもたちはそうでもなさそうだ。
公爵令嬢という立場上、ツヨツヨすぎるアイーダが腹を割って話せる令嬢などいないので詳細は知らない。
甘えることで、何かしらの快感物質出てるかな? と感じることもあるから、アイーダも甘えるのは好きだ。
むしろ甘えん坊かもしれない。
しかし、甘えるのと筋トレは別である。
自室で夜の筋トレだけでは物足りなくなったため、アイーダは非常用の隠し通路を使ったトレーニングを開始した。
この時、アイーダは六歳。
屋敷内に隠し通路があることは薄々感づいていたが、正式に教えられたため活用することにした。
非常時のための訓練、と言えば、アイーダが隠し通路にいても咎める者はいない。
時折、行方不明になってはお世話係を心配させていたが、それは担当が変わったことで解消した。
酸いも甘いも嚙み分けるベテランのメイドから、年の若いメイドに代わり、最終的には若い執事見習いがアイーダのお守りをすることになったのだ。
若いって素晴らしい。持久力があるって素晴らしい。
アイーダは執事見習いを従えて、隠し通路をあちらへこちらへと、ダンジョン感覚で飛び回った。
その際、いくつか不備が見つかって改修工事が入ったため、公爵家の隠し通路は、準備万端整った綺麗な隠し通路となっていた。
蜘蛛の巣が張っていたり、ヘビが降って来たり、謎の生命体に横穴へ引きずり込まれたり、といったことは起きない。
とても安全で、快適な隠し通路になった。
やはり筋トレは、最強なのである。
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