ノアの箱舟

峻一

ノアの箱舟


 大気は重く、目に見えない緊張が街全体を包み込んでいた。私は窓から外を眺めながら、静かな絶望を肌で感じていた。街は表面上、何事もないかのように動いているが、その裏には近づきつつある崩壊の気配が確かにあった。

 手首に埋め込まれたチップが、突如振動を始める。赤い光が点滅し、警告を告げた。このチップは、誕生と同時に埋め込まれる生体デバイスだった。日常をサポートしてくれる万能の執事のようなものだったが、今は、破滅を告げることしかできないようだった。

「核ミサイル発射が確認されました。繰り返します、核ミサイルが発射されました」

 私は、その言葉を反芻するように手首を凝視していた。その声は街の至る所から発せられ、まるで天から降り注ぐように、街中に響き渡った。

 人々は警告の声によって、かえってパニックに陥る。外では絶望に追い打ちをかけるように警報が鳴り始め、人々が泣き叫ぶ声が響いた。だが、私の中では奇妙なほどの静寂が広がっていた。私には、救いが訪れることがわかっていた。

 手首の振動が止まる。赤い光は柔らかな緑色へと変化し、優しい声が手首から発せられた。

「『ノアの箱舟』への意識転送を開始しますか?」

 私は再び窓の外に目を移した。街が柔らかな緑色に包まれ、救済の声が合唱のように重なり、空気を揺らし始めた。人々は、声に応じるように手首に手をかざし、次々と倒れていく。その意識は「ノアの箱舟」へと吸い込まれていくのだった。

 夕焼けで燃えるように染まった赤い空に、瞬く星のような光の筋が見える。それは破滅へのカウントダウンを刻む、核ミサイルの輝きだった。私は、それが遠い地平線に交わるのを見届けた。遠くで、かすかに核ミサイルの衝撃音が響く。だが、その音が届く頃には、私を含め、街中の人々の意識は、すでにその体から消え去っていた。




 画面に映し出されたテレビのスタジオはシンプルに装飾され、落ち着いた印象を視聴者に与えた。中央にあるソファに座った男性は、「ノアの箱船」の開発者として知られる男だった。向かいに座る青年のインタビュアーは、真剣な表情で問いかける。

「さて、先生、まずは『ノアの箱舟』について、技術的な背景から伺いたいと思います。私たちの意識がどのように仮想世界に移されるのか、その仕組みを教えていただけますか?」

 男は穏やかに頷き、話し始めた。

「人間の脳というのは実に驚異的なシステムで、千億のニューロンと百兆ものシナプスで構成されています。このシステムが私たちの意識を生み出すわけですが、脳全体の処理能力を数値で表すと、一秒あたりおよそ一エクサフロップス、つまり十の十八乗もの計算を処理していることになります」

「それは膨大な数字ですね」

「従来の技術でも、人の意識を仮想空間に移すのは可能でした。しかし、テニスコート二面分の部屋に、最新のコンピュータをズラリと並べて、やっと一人という有様です。実用的ではありませんね」

「しかし、量子コンピュータの発達により、状況が一変しました」若いインタビュアーは食い入るように言った。それに対し、開発者の男は言葉に力を込めた。

「その通りです。計算効率が飛躍的に向上した量子コンピュータにより、仮想世界に人々の意識を移すということが現実的になりました。これを実用化したものが『ノアの箱舟』です」

「まさに、英知の結晶と呼べる代物ですね」インタビュアーは心からの賞賛を送った。男は重々しく続けた。

「核シェルターの一種と考えていただければいいでしょう。現在、国と連携したプロジェクトが進行中です。『ノアの箱舟』は、核戦争という最悪のシナリオに対する、唯一の救済になり得るでしょう。世界がどれだけ破壊されようとも、『ノアの箱舟』の実体さえ無事であれば、その中で生き続けることができます」




 私はぼんやりとした意識の中で目を開けた。重い瞼をゆっくりと動かしながら、思い出したのは、最後に見た、核の炎が眼前に迫ってくる様子だった。目の前に広がる灼熱の閃光、恐怖と絶望が一瞬にして私を包み込んだ。だが、すべてはその瞬間に途切れた。それが現実だったのか、夢だったのか、意識がぼやけたままでは判断がつかない。

 周囲は静寂に包まれていた。耳を澄ますと、かすかな風の音が聞こえる。音が反響しているかのように、どこか遠くから聞こえてくる。その心地よさに、少しだけ安心感が生まれた。

 ゆっくりと体を起こしてみると、私の視界に広がったのは青い空と草原だった。太陽は柔らかく、空気は澄んでいる。見渡す限り、すべてが穏やかで、まるで夢の中にいるかのようだった。しかし、この光景はどこか現実離れしている。これが仮想世界だということに気付くのに、時間はかからなかった。

「ノアの箱舟……」

 その言葉が私の口から自然に漏れる。私は意識をデジタルの世界へと転送したのだ。核の炎に焼かれる寸前で、自分の作り上げたシステムに全てを委ねた。それが今、この仮想の楽園にいる理由だった。

 遠景に目を向けると、高層ビルが天高くそびえ、緻密に計算された都市の輪郭が見えた。それは、仮想世界に移る前、私が国の要人たちと共に進めた都市設計が完璧に再現されていた。

 大草原の中に、次々と人の輪郭をなすアバターが出現し、魂がそこに宿った。人々は友人や家族を見つけると、お互いの手を取り合い、笑い声をあげ、喜びを発散させた。核の恐怖から解放された彼らにとって、この新しい世界はまさに希望そのものだった。地上の戦火や争いのないこの楽園で、本当の安らぎを手に入れたのだ。

 私は手首に視線を落とした。この手首にチップは埋め込まれていない。ただ、そこには装飾のない腕時計がつけられていた。それは、何の変哲もない腕時計だったが、その秒針がひとつ、ひとつと動くたびに、私は目がくらむように感じた。

「『救世主』だ!」

 誰かが私を指さし、叫んだ。すぐに人々が私の周りに輪のように集まり、賞賛の声を口々に上げた。その声の重なりは、この無限に近い仮想空間の中で、どこまでも反響していくようだった。




 若きインタビュアーは、少し躊躇した様子で、次の質問を口にした。

「ですが、『ノアの箱舟』に移された意識は、生きていると本当に言えますか?心をコンピュータの中に移すということが、本当にできるのでしょうか?」

 開発者の男はわずかにほほ笑んだ。

「その疑問はごもっともです。しかし、考えてみてください。十年前のあなたと、今のあなたには、物質的に同じところはありません。体を構成する物質は、刻一刻と入れ替わっているからです。それでも、あなたは今の自分と十年前の自分を同じだと感じていますね」

 インタビュアーは少し眉をひそめ、彼の言葉にじっと耳を傾けた。

「それは、あなたに記憶があるためです。記憶が時間に流れを作り、自己同一性を形作ります。つまり、重要なのは意識の連続性であって、身体の連続性ではありません。『ノアの箱舟』は、身体を断ち切り、意識を繋げるマシンです。それはまさしく、あなたが経験してきた、年を重ねるということでしょう」

 その説明に、インタビュアーは腑に落ちないようだった。

「しかし、仮想世界の中に、意識があるとどうして言い切れますか」

「それは仮想世界でなくても同じです。意識は脳によって生み出されますが、『感覚そのもの』は厳密な意味で空間上にありません」

 インタビュアーは、男のまっすぐな視線に促され、再び深く考え込んだ。そして静かに、「つまり、私たちは、単に物質的な存在ではないと?」と問いかけた。

 男は一瞬の間を置き、穏やかに頷いた。「それは自明なことです」

 彼は視線をスタジオ全体に向け直し、力強く語りかけた。

「私は、皆さんに問いかけたい。人間は何を目的に生きるのか――今、この時代に、我々はもう一度、自らにその問いを投げかけるべきです」




 人々は「ノアの箱舟」の世界を謳歌していた。この場所には、現実にはあった苦しみや恐怖がない。それどころか、仮想世界の安らぎは、現実よりもはるかに甘美だった。人々は、一日中好きなことを好きなだけやっていればよかった。車が好きな者は、高級スポーツカーを乗り回し、食事が好きな者は、あらゆる美食を食した。中には、自ら会社を立ち上げ、利益の上がらない仕事に精を出す者もいた。そして、飽きたら別のことを始めた。誰もが、はち切れるばかりの享楽を享受していた。

 私は、どんな享楽も拒絶した。私の関心はひとつだけだった。

 この部屋には、私と彼女以外誰もいない。私たち以外の誰も、この空間に入ることはできない。温かい蝋燭の火が、年期の入った木製のテーブルと、その上に広げられた本を照らした。あたりは木と本の匂いで満ちていた。私たちは食事も睡眠も忘れて、ある物語を読んでいた。それは、私と彼女で作った物語だった。本は、ページの端が何度もめくられたせいで丸まり、紙質が柔らかくなっている。まるで時間とともに本そのものが記憶を刻んでいくように、擦り切れた痕跡が随所に見えた。

 ページをめくる腕に、いつも腕時計が時間の流れを私に示した。今も、時計の秒針は回り続け、そして、その瞬間が訪れた。

「そろそろ、行かないと」

 彼女は真珠のように大きな瞳を、本から私に移した。蝋燭の火が、その瞳の中で揺れていた。その瞳には、少しの不安の影と、私の瞳から同様のものを探る様子が見えた。私は、彼女のやわらかい手に優しく手を重ねた。

「怖いのかい」

「ええ、怖いわ。でも、この世界は、もっと怖い」

 私は彼女の手を握り直し、その優しい体温を感じた。

「使命を果たそう。僕たち二人で」




 番組は終盤を迎えていた。インタビュアーは、長時間の収録のため、少し疲労が見えた。そのためか、彼個人の心情を吐露するかのように、質問を投げかけた。

「どうして、人は争いを続けるのでしょうか」

 男は、僅かに目を伏せ、静かに答えた。

「物語を持たないからではないでしょうか」

「物語?」

「私たちは、あまりに合理的です。観測可能なモノ以外を、ないことにしてしまっている。本当に大事なモノは、観測などできないのに。非物質的なものに想いを寄せるために、物語が必要です」

「それは、どんな物語ですか」

「『絶対者』についての物語です」

「『絶対者』……?」インタビュアーは初めて聞く言葉に、疑問を口にした。「それはどういう意味ですか?」

 男は言葉を慎重に紡ぎ出した。

「『絶対者』とは、すべての根源にある存在、私たちの理解を超えた存在です。科学がどれほど進歩しても、私たちは答えを求め続けます。なぜ生きるのか、何のために存在するのか。物質的な説明だけでは、その問いに完全な答えは得られません。絶対的な存在が必要なのです。人間はその『絶対者』に想いを寄せ、そこに信念を持つことが、真の安らぎを得るための鍵だと私は考えています」

 インタビュアーが、男の語った内容について理解できていないのは、視聴者にも明白だった。彼は視線を落として腕時計を確認すると、番組の終了時間が近づいていることに気づき、最後の質問を口にした。

「最後にお聞かせください。『ノアの箱船』には、どんな意味が込められているのでしょうか?」

 男は微笑み、少し間を取ってから静かに答えた。

「『ノアの箱船』は、私たちが考えた『絶対者』に関わる物語のひとつです。ノアの箱船は、人類が滅びかけた時に、絶対者によって導かれ、生き延びるための手段として登場します。絶対者の愛と慈悲によって救われた者たちが新しい時代を築くために乗り込む、その船です。そして、これが象徴するのは、単に命を繋ぐための避難所ではなく、新たな希望と生の再出発を意味します」

 インタビュアーは興味深げに頷きながら、男の言葉に聞き入った。男は続けた。

「『ノアの箱船』は、単なる救済ではなく、人間が何を学び、何を次の世代に残すかが問われている。技術や物質的な豊かさだけではなく、人間としての本質を探求し続ける姿勢――それが必要なんです。今、私たちはその選択の時に立たされている。何を大切にして、どの道を歩むか。人類が次に進むべき方向は、『絶対者』の愛に根ざした新たな物語であるべきだと、私は信じています」




「光あれ」

 アダムは鮮明になっていく意識の中で、声をあげた。その声を合図に、身体冷却保存装置のハッチが重々しく開く。たれ込める冷気の中で、アダムとイブの二人がゆっくりと体を起こすと、世界が視界に飛び込んでくる。それは、もはや彼らの知っていた世界ではなかった。

 地球は再生していた。核爆発で焼き尽くされたはずの大地は自然豊かな緑に覆われ、放射線の影響は消え去り、生き物が繁栄を謳歌していた。まるで、神が再び創造したかのような、美しい光景だった。

 それは、一週間では到底起こりえない変化だった。なぜ、一週間でこれほどの変化が起きたのか。実際のところ、「ノアの箱舟」での一秒は、現実世界の一日に相当しており、彼らが過ごした一週間は、現実世界における千七百年に相当していたのだった。

 鳥の鳴き声が木々の間を響き渡り、風は緑の草原を優しく撫でている。人間がいなくなった後の世界で、生き物たちは繁栄を謳歌していた。

 二人はゆっくりと立ち上がり、互いの目を見つめた。まるで、お互いの意識の在り処を確かめ合うように。

 視線を前に向けると、二人の前に「ノアの箱舟」が姿を現した。それは、精密な四角推になっており、やがて「ピラミッド」と呼ばれることになる建造物だった。十七世紀の間、その中で無数の意識が生き続けてきた、精神のシェルター。その動力はもうすぐ切れる運命にあった。これから二人は、その動力を更新しに行く。

「あれが『ノアの箱舟』……」イブはその圧倒的な存在感に目を奪われながら呟いた。

 アダムはその方へ指を差し、頷いた。

「ああ。あれが僕たちの精神を守り続けてくれた場所だ」

 イブは、しばらく何も声を発さなかった。ただ、歌う小鳥や、風でざわめく木々を見つめていた。広がる自然を見つめながら、ふと言葉を漏らした。

「新しい世界は、平和なものになるかしら」

 アダムは静かに目を閉じ、一度深く息を吸い込んだ。そして目を開け、彼女を見つめながら答えた。

「きっとなるさ。新しい人類は、愛に満ちた物語を胸に生きていく。僕たちの子供が、永遠平和のための物語を語り継いでいく……。そうして、『絶対者』の愛はあまねく人間に行き渡る」

 彼の言葉は、風に乗って静かに響き、大地に深く染み込んでいくかのようだった。

 二人は手を取り合い、地球の大地を踏みしめて歩き出した。彼らの足元では、風に揺れる草が、新たな時代の幕開けを歓迎するかのように、静かにささやいていた。

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