第11話 上杉タクヤくんと仕事

 また私はピンクのワンピースを着て、絨毯の上に座り込んでいた。

 雑然とした六畳程度の部屋。鏡を見て、私は『恋甘』のヒロイン、「浅岡カオル」になっていることを確認する。


 ──夢じゃなかったんだ、と改めて理解し、少し泣きたくなった。扉がノックされて開き、二見ヨリコさんが顔を出す。


「ああ、カオルちゃん。なんて顔しているの!」

「いえ……いえ、なんでもありません。やっぱり『恋甘』の世界なんだなあって、しみじみしちゃって……」


 ヨリコさんは黙って私の手を取った。彼女は手を握るのが癖なのだろうか、それでもヨリコさんの手から伝わってくる温かさに心が凪いでいく。


 しばらくそうしていて、ようやく私の気持ちが静まったのを感じ取ったのか、ヨリコさんは立ち上がり、笑顔でエプロンを渡してくる。


「二日目だよ、カオルちゃん。今日も頑張ろうね!」

「……はい!」


 自分を励まし、エプロンをつけてお店の中に入った。

 時計を見上げると、時刻は十一時だった。壁に貼ってある一か月間のシフト表を発見したので、自分のシフトや他の従業員の仕事時間を確かめる。どうやら私は十一時から二十時までの遅番勤務が主であった。


「ふーん。早番は九時からか……。ということは、開店時刻は……」


 近くに小さな机と椅子があって、机の上にはパソコンが設置されていた。パソコンはスリープモードになっていたので、マウスを触るとすぐに起動した。


 私は売上日報を見つけ、開いてみることにした。様々なことが記載されている。売上日報を見ることで、私はお店──【ローズスイーツ】ストロベリー店の状況を把握した。


「ええと……営業時間は十時から十九時までね。だから早番の出勤が九時からで、遅番が二十時までの勤務なんだね」


【パティスリーフカミ】でもそうだが、早番は開店時間の一時間前に来て準備をする。遅番は閉店後の一時間で片付けを行うというシフト体制は同じようであった。


「他には……一日平均の売り上げはどうかな」


 平日と土日では多少売り上げが変わる。日報を見る限り、平均売り上げは一日で十五万円程だった。【パティスリーフカミ】と違ってカフェスペースや実演販売もないし、小さな売店のみだから、このくらいの売り上げが妥当なのかもしれない。


 そこまで確認したところで、私は椅子から立ち上がった。売店が混んできたので私も接客に向かう。ヨリコさんがデコレーションケーキにお誕生日プレートをつけていたので、私は待っていた別のお客さんに声をかけた。


「お次でお待ちのお客様。ご注文をお伺いします」

「あ、お願い」


 手を挙げたのは長い銀髪のお客さん──萩尾トオルさんだった。私は笑顔で接客する。


「いらっしゃいませ、萩尾様。大変お待たせいたしました。ご注文はお決まりですか?」

「うん。この苺シフォンケーキを一個ちょうだい」

「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ」


 私はケーキ二個が入る箱を準備し、苺シフォンケーキをトングで掴んで詰めた。一番小さな箱は、この二個入りの箱である。

 今日は暖かいので萩尾さんにお持ち帰り時間を訊いて、ケーキに触れないように厚紙で仕切ってから保冷剤を入れた。箱の中身を萩尾さんにお見せして、間違いがないか確かめる。ここで確認を怠ると、入れ間違いのミスが起きることが多い。


「お会計をさせていただきます。苺シフォンケーキ一個で四百円でございます」

「しまった、一万円札しかないや。大丈夫?」

「はい、大丈夫ですよ。まず九千円お返しいたします。五千、六千、七千、八千、九千、おあと六百円のお返しです。お確かめくださいませ」


 お札を萩尾さんの目の前で一枚ずつ数えて手渡す。彼がお札をお財布にしまったので、残りの硬貨も渡した。


「こちらがお品物になります。ありがとうございました」


 ケーキ箱を入れた袋を丁寧に渡すと、萩尾さんは目を細めながら口の端を吊り上げる。


「さっすがカオルちゃん、店長さんだね。すごく手際がよくて、それで笑った顔が可愛くて。このお店にくる楽しみが増えたな。またよろしくね~」


 彼は手を振って、お店の前のバス停にちょうど来たバスに乗っていった。時計を見ると十二時過ぎ。萩尾さんは、大体いつもこの時間に来店するのだろうか。彼に仕事ぶりを褒められたことは嬉しかった。ここでも私の接客技術が通用する、そんな自信につながったのである。


 十三時になり、上杉タクヤくんが出勤してきた。今日は黒岩エイジさんと柿江ユラちゃんはお休みで、私とタクヤくんの遅番勤務だった。

 ヨリコさんは今日の仕事は十三時で終わりなので、タクヤくんと引き継ぎをしている。引き継ぎが終わってそっと私に話しかけてきた。


「誰を攻略するか決めた?」

「……いいえ。ただ……中峰コウキ店長だけは嫌ですね」


 中峰店長を見たとき、峰岸航希に婚約破棄されたことを思い出した。彼だけは、また裏切られるのではないかという恐怖感がある。


「わかった。まあ、もうすぐ『母の日』イベントがあるから、それまでに決めたほうがいいよ」

「『母の日』イベント……?」

「もうじき『母の日』があるでしょ。それに関連したイベントのことだよ」


 じゃあね、と言ってヨリコさんは去っていった。


 ──イベント、か。乙女ゲームでは「イベント」が起きて、攻略対象者の好感度に影響することがある。多分ヨリコさんはそれを指していたのだろう。


 そのあとは、タクヤくんと二人で仕事をした。タクヤくんは働き始めて四年目というだけあって、ケーキの箱詰めも上手だし、ラッピングもセンスがある。


「そのリボンの結び方、凝っていて素敵に仕上がったね」


 私が褒めると、彼は手元のリボンに目線を落とした。


「これくらいできて当然です。できないほうがおかしいです」

「……」


 私は不器用なので、ラッピングが苦手である。いつもそれらしく誤魔化しているラッピングなので、タクヤくんの言葉に恥ずかしくなった。

 俯いていると、タクヤくんは「でも……」と続けた。


「浅岡店長の技術はともかく、笑顔で接客できているのはいいと思いますよ」


 タクヤくんの顔を見上げると、くっきりとした二重の瞳と私の目がぶつかった。綺麗な黒い瞳だなと思う。彼は視線を逸らして話題を変えた。


「浅岡店長は何か趣味はありますか? 休日にしていることとか」

「趣味? それはやっぱり、おと……」


 慌てて私は手で口を塞いだ。趣味が乙女ゲームなんて言ったら、彼はどう思うだろう。しかも今いる世界は、思い切り乙女ゲームの中である。堂々と趣味が言えなくて、私は無難に答えた。


「お、音楽鑑賞かな」


 嘘は言っていない。乙女ゲームの音楽を聴くのは好きなことである。私もタクヤくんに訊いてみた。


「タクヤくんの趣味は?」

「俺ですか? そうですね、ドライブでしょうか。車を運転するのは楽しいです」

「そうなの。私はしばらく乗っていないね。お休みの日に久しぶりに乗ろうかな」


 普段は電車移動が多いので、車には久しく乗っていない。タクヤくんは最近行ったところの話をしてくれた。車で三十分程の場所に海があるらしく、あまり人のこない穴場だと言っていた。海は学生時代に行ったきりである。話を聞いて、海の青色が見たくなった。


 十九時に閉店して、私は洋菓子の発注と日報をパソコンに打ち込む作業を行う。タクヤくんは黙々とケーキを片付けて、床をモップで拭いていた。


 二十時になる前に二人とも仕事は終わったので、終礼として今日の反省会をした。終礼を侮ってはいけない。従業員の仕事に対しての本音が聞ける貴重な時間である。


「今日の終礼をします。タクヤくんは何か気になったことはあるかな?」

「そうですね……。夕方から閉店まで混み合いますので、金曜の夜などは遅番三人体制でもいいかと思いました」


 週末の夜は開放感があるのか、洋菓子を買っていくお客さんは多いので、タクヤくんの考えは的確だと感じた。


「わかった。意見ありがとうね。シフトを見直してみるよ」

「いえ、思ったことを言っただけですから、お礼は不要です」


 お礼は素直に受け取ればいいのに、と思ってしまったが、彼なりのこだわりがあるのかもしれない。なんにせよ、タクヤくんの意見は参考になったので、今度から週末遅番三人体制を考慮することにした。


「それではお疲れ様でした」


 タクヤくんは先に着替えて帰っていった。私も売店裏の休憩スペースに入る。相変わらず物が適当に置かれた部屋で、少し片付けようとした途端、私は白い光に包まれ──。


「あ……」


 ──マンションの自室に戻っていた。時計を見ると二十三時だった。

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