第10話 わかりづらい優しさ

 昨日はなかなか寝つけなかったので、早番の仕事にくるのがぎりぎりになってしまった。


 お店の鍵は四本あって、私と依子さん、深見店長と岩波さんが所持している。私が時間に遅れたとしても依子さんは鍵を持っているので、彼女をお店の外で待たせることはない。

 そのことに安堵しつつ、七時五十分にお店に入った。


「どうしたの? 今日は随分遅いじゃない?」

「はい、寝つきが悪かったもので……。すみません」

「遅刻じゃないから構わないけど、社員なんだから体調管理には気をつけてね」


 依子さんに注意されて、私は心から反省した。いくら予想外のことがあっても、乙女ゲームは趣味でやっていることである。社会人としてお給料をいただいている以上、仕事を疎かにするわけにはいけない。


 素早く着替えて、まずはケーキの陳列から始める。衛生面に配慮して、品出しのときは使い捨てマスクと手袋をつけるのが常であった。


 全て並べ終わり、掃除に取りかかる。扉周辺や店内の清掃は毎日行うが、一週間のうち一回はエアコンのフィルターも掃除することになっていた。掃除機でほこりを吸い取ったら、水洗いして陰干しで乾かす。結構時間のかかる作業である。


 今日は平日なので、お客さんの来店が少ない。依子さんと世間話をしていると、やがて十二時になった。木枠の扉がゆっくり開く。


「こんにちは~」


 来店した長い銀髪のお客さんを見て、私は硬直した。


『恋甘』の世界で会った男性のお客さん──萩尾トオルさんにそっくりで、私は動揺してしまった。

 ゲームの攻略対象者である男性を突然目にすると、現実とは違うとわかっていても、落ち着かない気分になってしまう。

 それでも私は笑顔で対応した。


「いらっしゃいませ」


 お客さんも私を見て笑顔になった。長い髪が動きに合わせ、さらりと横に流れる。


「雰囲気のいいお店だね。ケーキの予約はできる?」


 お客さんのお褒めのお言葉に私は嬉しくなる。


「はい、予約できますよ。どのようなケーキをお探しでしょうか?」

「あ、えーと。ネットで見たんだけど、今度発売されるっていう抹茶シフォンケーキは予約できるかな?」

「抹茶シフォンケーキでございますね。かしこまりました。こちらの予約伝票にお名前とお電話番号を書いていただいてもよろしいでしょうか?」


 私が差し出した予約伝票にお客さんはペンを走らせる。お名前は──萩原はぎわらとおるさんだった。

 萩原さんは名前と電話番号を記入した伝票を返してくる。私は日付とケーキの名前を書いて、萩原さんに個数を尋ねた。


「抹茶シフォンケーキはおいくつご用意しましょうか?」

「一個だけ。少なくてごめんね。今くらいの時間に取りにくるから」


 萩原さんは会計を済ませ、伝票を入れた封筒を手にして、お店から出ていった。出ていくときに陽を浴びて銀色の髪が光っていた。


 十三時になると、深見麻人店長と岩波英二さんが出勤してくる。依子さんは十三時で仕事が上がりなので、岩波さんと交代した。

 岩波さんに優しい笑顔で挨拶されて、私も挨拶する。


「こんにちは、薫ちゃん。午前中は変わったことあった?」

「いいえ、特にありません。トングの消毒時間なので消毒してきますね」


 岩波さんの笑顔がゲームの黒岩エイジさんの記憶と重なった。どきどきしながらトングを洗う。薄めた塩素で消毒しながら、私は溜息をついた。


「仕事とゲーム、どういう関係なんだろう……」


 あれは夢だったのかもと思う。今日の夜は何もないかもしれない。そもそも、仕事と趣味は別に考えるべきである。

 

 十七時になり、遅番アルバイト──杉浦拓也くんがきた。私は挨拶をして、ゲーム内容を忘れようと努め、平常心を装って引き継ぎをする。彼はその様子を見た途端、鋭い目つきになった。彼の眼は何を映しているのだろうと、私は不安になる。


「た、拓也くん……あの……?」

「浅岡さん、また何かありましたね。そういうの困るんですよ。婚約破棄した男の話なら聞くって言いましたけど、そうじゃないみたいですし」


 拓也くんは端整な顔立ちだけに、真剣な表情をすると、ある意味冷淡にも見えてやや怖くなる。彼はくるりと背を向けて、冷蔵ケースの上にあった伝票に何かを書いて、私に手渡した。


和顔愛語わげんあいご


「どうせ知らない熟語でしょうから、帰ったら調べてください」


 それではお疲れ様ですと言われて、私は彼のくれた紙を持って仕事を上がった。

 マンションに帰って、ネットで『和顔愛語』を検索する。


 ──柔らかな顔色と優しい言葉。やわらいだ笑顔をし、親愛の情のこもった穏やかな言葉をかわすこと。なごやかな顔、愛情ある言葉で人に接すること。


「そう、か……」


 萩原さんや岩波さんには私の戸惑いは感じられなかったようだが、拓也くんにははっきりと異常を見破られていた。彼は私が不安定な状態を改善して、なごやかな顔で、愛情ある言葉で人に接することを望んでいるのだ。


 ──浅岡さん、また何かありましたね。そういうの困るんですよ。


 拓也くんの言ったことを思い返す。突き放したような話し方だったが、彼は私のことを案じて、この四文字熟語を贈ってくれた。拓也くんが自分のことを心配してくれたのは、すごく嬉しい。


 私は『和顔愛語』と書かれた紙を大切に引き出しにしまい、夕食作りを始めた。

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