そこにあるものは何者なのか⑥
その日は新月。闇に身を潜めるにはちょうど良い。月明かりが正体を暴くこともない。イーグル通りをずっと下り、峠を越えた向こうに、キングの屋敷は存在していた。
誰も近寄りたがらない場所であり、リディアスでは鬼が棲む場所だとも言われるくらい。
幼い子どもはそれを母から聞かされ、拐かしがあれば、まず衛兵が訪れる場所。そして、何も掴めず戻ってくる場所。
黒塗り石造りの迷宮のようなもの。
仕掛けも多いし、手下も多い。血の気の塊が、侵入者を出迎えるのだ。
キング自身でさえ、気を緩めることがないとも言われる場所だった。
だから、考えてみれば、初めからおかしかったのだ。ここは、悪行を極めるキングの屋敷。キング邸とも呼ばれる、悪魔の巣窟だったはずだ。それなのに、キング邸はまるで今夜広がった夜空のように静かで、何もなく、ただ星の瞬きだけがキラの陰を追いかけるように、静寂に包まれていたのだ。
キングとその手下は一体どこへ消えてしまったのだろう。
まさか、目の前の魔女が……?
そう思い慌ててそれを否定する自分がいた。
キングの書斎と目星を付けていた部屋を開けたキラの目の前には、手足を鎖で繋がれたあの魔女がただ石畳の上に足を崩して座っていた。怪我でもしたのだろうか、頭部を覆うように茶けた包帯が回されており、薄汚れた検査着を着ている。
その姿は、ジャックの中にある狂気とは別の、クイーンの持つ異常に近い、それでいてまったく別の狂気をキラに感じさせていた。
怪我を治そうとするのなら、もっと丁寧にしてやれば良いのに。
物として扱うのなら、もっと壊さないように扱えば良いのに。
手に入れたおもちゃを、壊れる限界を知るためだけに、ここに繋いでいるような、気持ち悪さだ。
それは、ジャックにもクイーンにもない狂気だ。
魔女の瞳は真っ直ぐにキラに注がれている。しかし、その瞳にはなんの感情も載せられていなかった。以前に会った時は、もう少し人間らしく感じられた魔女に、今はその人間味が感じられなかった。
ただ、同時にその綺麗な瞳をキラは拒絶していた。まるで呑み込まれそうなのだ。
まるで……。
嫌な記憶がキラを取り巻くのだ。
そうだ。『キラ』はジャックだ。衛兵ではない。ジャックのすべきことは。ジャックは面が割れてはいけない。ジャックは、人ではない。
ゆっくりとキラは自分を思い出していく。恐怖だった。
だから、徐ろに腕を魔女へと伸ばす。
顔を見られた。殺さなければ、いけない。魔女は動かない。それなのに、キラの意識は不安定に、過去へと揺れて、溺れていく。
暗闇に光る切っ先と、頸動脈から噴き出した生暖かい赤。
茨の王冠に滲む赤。
森の奥深く、……。
右上腕が痛む。
ふと、力が抜けたキラのその手は、魔女の肩の上に載せられていた。魔女の瞳は、怯えたように揺れている。
息を吐き出すと、冷静さが戻ってきた。
キラの仕事は、キングの抹殺。魔女を殺すことではない。たとえ、この魔女に顔を知られたとして、いったい何に怯えなければならないというのだろう。
キングのいないキング邸に残されている魔女に、キングの行方を尋ねる者などいるだろうか。そのキングの行方を知るために、魔女に『キラ』を尋ねる者などいるだろうか。
キングにとって、魔女は単なる獲物。それは、ここに忍び込んでくる何かも変わらない。情報を取りにここに来る奴なんていない。
彼女が本当にトーラを持つ魔女だったのならば、トーラは人の望みを叶えることが出来る、財宝のようなものなのだから。
拷問を受けていたのかもしれない。だから表情がなかったのかもしれない。
望みは叶えられなかったのかもしれない。
彼女はあの逃げた魔女だ。しかし、トーラである確証はない。
動かなくなったキラに魔女が声をかけた。
「あの」
小さな声だった。キラは肩にあった手をどけて、その魔女を見下ろしていた。
長く茶色い髪と小さな顔。その顔の中にある新緑色の瞳。
どこかあどけない表情に、ほっと息をつく。
殺す必要なんてない、ともう一度自分に言い聞かせる。立ち去れば良いのだ。
「あの……」
それなのに、魔女がもう一度キラに声をかけた。どうして立ち去れないのか分からない。苛立ちだけが募った。振り返ってしまったキラは、不機嫌にその魔女を見下ろし、睨み付けていた。
いや、魔女に腹を立てているのではないことはよく分かっている。
――基本お前はジャックに向いていない。
シガラスの言葉のせいだ。シガラスが、乳母心としてジャックとして独り立ちしたキラに餞として渡した言葉のせいだ。
――基本お前はジャックに向いていない。まぁ、気を付けろということじゃ。
うるさい、黙れ。
ジャックに向いていないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
「何か用なのか?」
キラは言葉を呑んで別の言葉を発した。しかし、呼ばれて答えたはずなのに、魔女はさらに目を丸くした。
「用があるんじゃないのか?」
キラ自身が驚くほどに、苛立ちと共に発せられた言葉だった。しかし、魔女は答えない。ただ、キラの顔に穴を空けるようにして見つめるだけだった。仕方なく、キラは彼女が声をかけた理由をひとつ、推測し、提案してみた。
「逃がしてやろうか?」
彼女の手枷と足枷にある錠はとても簡単なもの。時間もかからない。『逃がす』だけなら簡単に出来る。その後彼女がどうなろうかは、知らない。そんな意味を持つ言葉だった。それなのに、やはり魔女は、キラを否定した。
「わたし……」
そして、何かに気付いたように、言葉を続けた。
「魔女……だから」
「知ってる」
知っている。おれが魔女としてお前を捕まえたことがあるんだ。
「でも、わたし……あなたを、殺してしまうかも、しれなくて……」
たどたどしく答える魔女の言葉をキラは考えていた。魔女を殺してしまおうとしていたのは、誰を言おうキラ自身だ。それなのに、そんなことを気にする必要などない。それに、殺せるというのなら、……。
「じゃあ、殺せば良い」
そして、キラは魔女の顔を見ずに続けた。
「ここにいたいのか?」
魔女の頭が大きく横に振られる。
「だったら、答えは簡単だろう?」
きっと、キラは彼女に自身を見ていたのだ。鎖に繋がれて動けない自分。鎖に繋がれることを望み、さらには、死んでしまうことすら、望んでいた。
自分は必要のない人間だった。必要になろうとした。そして、不必要な人間になりたくなった。それを切望した。存在を否定したかった。
『魔女』も『ジャック』もこの世界では何も変わらない。しゃがんだキラは、彼女の枷の鍵を開き、そっと立たせた。
「名前は?」
どうして、呼ぶ必要のなくなる名前を訊いたのか、キラ自身が分からなかった。その質問に、背の低い魔女がキラを見上げ、刹那の沈黙の後、答えた。
「……ワカバ」
「ワカバ、か……。おれは、ル」
どうして今その名前が出てきたのかも分からなかった。今まで一度も口を滑らせたことなどなかったのに。
「る?」
まるで犬が首を傾げて不思議がるように復唱したワカバに、キラは改めて『キラ』と名乗った。
そう、何かに導かれるかのようにして、キラは『ワカバという魔女』を認識したのだ。
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