第5話

 私は大樹タイキが好きだ。


 兄に対して、妹として、家族としてじゃない。大樹タイキという男性に対して、ヒカリという女性として、並々なみなみならない好意がある。抱きしめてほしいし、キスだってしてほしい。私のことを一番に大事にしてほしいし、私にだけ本音を話してほしい。誰にも取られたくない。だから一生懸命かわいくあろうと思って頑張ってきた。


 大樹タイキへの好意を自覚したのは自分が高校生になってからだけど、きっと、小さな頃からずっと大好きだったんだと思う。小学校で、先生との不義ふぎを疑われた時に、最初に誤解されたくないと思ったのは、大樹タイキだった。大樹タイキが自分のことを疑うなんてつゆとも思ってなかったけど、それでも、僅かにでも疑われたくなかった。中学校でも高校でも、ホントに数えきれないくらい色んな男子に誘われたけど、全然興味が湧かなかった。試しに付き合ってみるか、なんて思ったこともない。


 大樹タイキは、いつも無地のリネン生地のシャツばかり着ている。基本的には白か黒の服しか着ないが、小綺麗にまとまっている。昔は、正直洋服のセンスが悪いお母さんが買ってきた服ばっかり着てたから、ちょっとダサくて見てられなかった。だから、私が選んで買うようにしたのだ。これはたまらなく優越感があった。誰にということはないが、満足だった。大樹タイキの雰囲気には似合ってるし、一緒に歩いていても恥ずかしくない。過度にお洒落でもないから変な虫もつかないはず。我ながら巧みなコーディネートだった。


 だというのに、悪い虫が付いた。


 許せない。

 こんなことならもっと趣味の悪い、胸元にデカデカと英語の書いてあるパーカーでも着せておけばよかったと思う。大樹タイキが友達に「ヒカリに選んでもらっているんだ」と話しているのを聞いて、えつってしまって、油断してたのかもしれない。


 風子フウコさんは別に悪い人じゃない、と思う。大樹から聞く彼女の姿は、理知的で、適度に女の子らしくわがままで、かわいらしいと思う。ダサいというほど壊滅的なセンスはしてないし、むしろ、バッグや小物の趣味も悪くないと思う。でも、それだけだ。


 私は知ってる。大樹タイキの理想の女性はオードリー・ヘップバーンなのだ。


『ローマの休日』を見てからずっと「こんなに綺麗な人がいるのか」と頻りに言ってた。それから出演作を順番に全部レンタルしてきて、どハマりしていたことも、知ってる。だから私のライバルはずっとオードリー・ヘップバーンだった。


 それなのに風子フウコさんで落ち着くとは、何事か。


 どんどん腹が立ってきた。オードリー・ヘップバーンなら、どっちかって言ったら、私だろ。そりゃオードリー・ヘップバーンに似てるなんて言ったら思い上がりだけど、絶対私の方がまつ毛だって長いし、メイクするときはアン王女を意識してるし、風子フウコさんは、良くも悪くも日本人的なかわいらしさだし。どっちかって言ったら、私のはずなのに。だというのに。そう思ったら何だかまた泣けてきてしまった。くそう。布団に包まって、行き場のない怒りを枕にぶつけていたら、ノックの音がした。


ヒカリ。いるかい」


 大樹タイキだ。普段よりも、もっと優しい、誰かを気遣きづかった声がする。


『たいようのいえ』に預けられていた頃の私に、初めて声をかけてくれた時と同じような声だった。


 優しくて、包み込んでくれるような声だった。

 私はこの声が大好きだった。


 私は中学校に入って、施設で働いていたお母さんの養子になった。そうして間もなく、お母さんはお父さんと再婚することになって、私はハカセと一緒に暮らすようになった。

 私はハカセのことが大好きだったのに、大樹タイキは私の兄になってしまった。


「さっきはごめんよ。急に厳しい言い方をしちゃって」


 違う。

 怒ったのは私の都合だ。

 でも私のために、自分が悪者になってくれる。

 こんなことを言わせたいわけじゃなくて、涙が出てくる。顔を押し付けた枕のシーツに、ファンデーションとマスカラの色がにじんで写っている。今日は朝からしっかりかわいくできてたのに、台無しだ。大樹タイキの声はもう聞こえない。


「私、大樹タイキがハカセになれないの、嫌だ」


 言ってしまった。

 一番、言いたくなかったのに。

 大樹タイキの重荷に、人生の負担に、なりたくなかったのに。自分のわがままで、これ以上、大樹タイキの人生に迷惑をかけたくなかったのに。


「私、大樹タイキのこと、ハカセって呼びたいよ」


 それでも言ってしまう。

 大樹タイキは、私にとって、一番のハカセでいてくれないとダメなんだ。そうじゃないとダメになってしまう。大樹タイキは私のハカセなんだ。


「そうだね」


 大樹タイキがゆっくり息を吐きながら、そう言う。


「僕もね、やっぱりハカセになりたいって思ったんだ。ヒカリにも、『たいようのいえ』のみんなとも、約束したもんな。だから、風子フウコさんにもちゃんと相談しようと思う。もしかしたらフラれちゃうかもしれないな。その時はなぐさめてくれよ」


 大樹タイキが扉から離れる音がして、私はそのまま眠ってしまった。約束を覚えててくれたのが、嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。

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