第12話
「見ていろ」
クルボはむしり取った草の先を祠に差入れ、かき回すようにして虫を追い払った。
祠の中から沢山の羽虫がわっと飛び出して空が陰った。足元にはアリやクモ、ゲジゲジやムカデのような飛べない虫が海岸の砂のように広がって、地面を覆った。それは、ジャングルの中の骸から、彼の持ち物を奪った時の様子と同じだった。
祠の中に赤い人が座っていた。虫に刺されたり噛まれたり、あるいは肉を食われて血がにじみ、肉が露出しているのだ。
ジャングルの中の骸は青黒い色をしていた。赤い血と肉は、ハンが生きている証に違いなかった。
「どうです」
クルボが得意げに言った。
猛は自分の周囲を飛び回る蚊を追い払いながら祠に近づき、仏像のようにたたずむハンの姿を観察した。
赤くただれたような皮膚のハンは、虫に食い破られた灰色の眼球を持ち、謎めいた表情で虚空を見ていた。その顔は何かを訴えているように見えるのだが、何を言いたいのか、それは分からない。
ハンの姿を観察できたのはわずかな時間だった。一度飛び立った虫たちは、ハンの血と肉を求めて戻ってくる。そして再び、彼は灰色の石像のような姿に戻った。
猛は、ハンが何かの修行のようなことをしているのだろうと考えた。
「過酷な修行だな」
つぶやくと、クルボが首を傾けた。
「この祠の手入れをするのが私の仕事です」
「ハンはいつまでああしているのだ?」
猛はもう一度祠を覗き込んだ。ハンは完璧に虫に埋もれている。
「私にはわかりません」
クルボが困惑の表情を浮かべた。北半球の東洋から来た兵隊に、自分の村の神や伝説のことが分かるはずはない、というように。
「あのままでは死んでしまうぞ」
「彼は死にません。永久に」
その言葉には強い確信が感じられた。
「そうなのか……」
猛は話しても無駄だと思った。所詮、文化も宗教も違うのだ。第一、彼がどうなろうと自分には関係ない。話を変えることにした。
「ここは白砂村というところか?」
尋ねるとクルボがうなずき、ここで日本兵を見るのは初めてだと言った。
ここで? 彼はどこで日本兵を見たというのだ?……自分が脱走兵だということを思い出した。
「近くに、日本兵がいるのか?」
猛が尋ねると、クルボは北を指さした。
「十日ほど歩いたところに、日本軍の村がある」
猛は自分の部隊のことだろうと思った。彼はそこに何をしに行ったのだろう?……彼を観察する目に暗い炎が宿った。
猛は、クルボが何者か思いめぐらしていた。日本軍と親しいのか? アメリカ軍と親しいのか? 自分の敵なのか、味方なのか? いっそのこと、この場で撃ち殺してしまうべきか?
一方、クルボは猛を疑う様子など一切見せず、腰に下げた籠から餅のようなものを出して祠に供えた。それから土下座に似た姿勢で短い祈りをささげた。その無防備な姿勢に、僅かな敵意も感じられなかった。
猛の意識は、クルボでなく供え物に向いた。それは食べ物に違いない。考えると、胃袋が痛んだ。クルボが村に帰ったら供え物を食おう。いや、今、彼を撃ち殺して供え物を食ってしまおうか……。
迷っているうちに、彼が立ち上がった。
「お腹がすいているのだろう?」
よほど物欲しい顔をしていたようだ。彼が微笑んだ。
「あれは神のもの。食べてはいけない」
クルボの言う通りだった。見る間に大きなアリや毒々しい色の虫たちが供え物に群がり、供え物は真っ黒になっていた。
――グゥー……、猛の腹が鳴った。
クルボが情け深い表情をつくった。
「私の家に来なさい。人の食べ物がある」
彼が背中を向けて歩き始める。
猛は躊躇した。彼の目的は、自分を日本軍に引き渡すことではないか? あるいは、アメリカ軍に?……ジャングルを彷徨っていた時には投降も考えたが、今になると命や自由が惜しくなった。
彼の背中が小さくなっていく。
日差しの強い小道で、クルボが立ち止まっていた。猛がついてこないことに気づき振り返っていた。
「ついてきなさい!」
彼が身振りをつけて大きな声を上げた。
「村の者も喜ぶ。ハンのことも、長老なら正しく説明できる」
猛はまだ迷っていた。
「ついてこい! そこにいたら、ハンに魂を食われて虫になるぞ!」
魂が食われる? 虫になる?……何のことだかわからない。頭の中にぽっかりと穴が開いたようになって、勝手に足が動いた。
クルボが歩き始める。
「魂が食われるって、どういうことだい?」
「死ぬということです。ハンは虫に食われても死なない。人間の魂を食うからです。……食われた人間は虫になる。そして、永久にハンのもとから離れられない。昔から、そう言われている」
それ以降、クルボはハンの話をしなかった。
猛はクルボに従うことに決めた。彼の人柄に賭けようと思った。生きるも死ぬも、彼に任せよう。そう割り切ると、あれこれと迷う必要がなくて気持ちが楽になる。腹が減って胃袋は痛んでいたが、間もなく食事にありつけると分かるからか、足が軽くなった。何なら走りたいほどだ。
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