第11話
その日は突然やって来た。
上空を覆う高い木々の枝が途絶えがちになり、見上げると青い空の面積が増えた。ほどなく景色が日差しの反射で白くなった。人の作った小道と畑がある。そこでジャングルは終わっていた。
猛は茂みに潜み、周囲をうかがう。人気がないのを確信してから小道に足を踏み出した。
ジャングルと人の世界の境目に立つと、小道を走る風は、全身にねっとりと張り付いていた汗を乾かした。開けた空は鬱屈した気持ちを明るくした。
小道は東西に走っており、東の先には小さな
そこがどこなのか、猛には知るすべがなかった。その祠のある景色を見たこともなければ、二等兵の猛には地図もない。
日本軍であれ、アメリカ軍であれ、それらに遭遇するのは危険だった。再びジャングルに入ることを考えた。しかし、一度切れた緊張の糸を結び直し、目的地のないジャングルでの彷徨に身を投じる気持ちにはなれなかった。
新たな緊張感を創り出し、前に進むべきだ。……猛は決断し、小道を歩き始めた。
道は天頂にある太陽で焼けていた。吹く風は強く、空気は乾燥している。
ジャングルは虫だらけなのに、どうしてこうも虫がいないのか?……猛は歩きながら空を見上げた。そうして祠の前で足を止めた。
それは人の背丈ほどの高さで、素朴な木造だった。屋根は
南方戦線に送られた猛は、食料の調達のために現地の人々と接触する機会があった。そうして、たどたどしくはあったが、マレー語やタガログ語でコミュニケーションがとれるようになった。しかし、読み書きは
「白砂村、ハン神?」
祠に掲げられた看板の文字に首をかしげた。
祠には格子戸がついていて、中に獣が入るのを防ぐ程度の機能は持っていた。日本の神社仏閣と違って、宗教的美しさや富を象徴する装飾や荘厳さ、豪華さは全くなかった。猛の田舎の道祖神の祠も素朴だったけれど、もう少しましだった。祠は、その地域の経済力と技術力を物語っているのだろう。
周囲は日差しが強くて明るかったが、その明るさが祠の中を見るのには都合が悪かった。瞳は明るい景色に焦点を合わせていて、祠の中は黒く塗りつぶされたように見える。
貧しい農家に生まれ、豪商や豪農の姿にあこがれた猛は、機会を見つけては富を持つ者たちの意見を聞いた。そして、豊かな者が貧しい者の暮らしを想像することのむずかしさを知った。それは光の中に立ちながら、暗闇の中を見ることのむずかしさと同じだった。
猛は膝を折り、庇の下へ身を乗り入れた。そうして目が慣れてくると、ぼんやりとだが、祠の奥に灰色の人型の物体があるのがわかった。最初は石像かと思った。
「何だ。これは……?」
よく見るとそれは虫の大群だった。色も形も大小さまざまな虫が、もぞもぞと押し合いひしめきあっていた。
いったい虫たちは何をしているのだろう?……祠の中の異様な風景に気を取られていると突然、背後で声がした。
「彼は神の罰を受けている」
現地人の声に驚き、振り返ろうとした。慌てた上に膝を折っていたためバランスを崩した。栄養不足だった。膝や腰に力が入らなかった。ドスン、と勢いよく尻もちをついた。
尻もちをついた姿勢のまま、夢中で歩兵銃を構えた。もし、その先にいたのが兵隊なら、アメリカ軍であれ、日本軍であれ、猛は撃ち殺されていただろう。それほど彼の動きは
「気をつけろ」
声の主は褐色の肌をした青年だった。彼は猛の歩兵銃を軽く押しのけ、猛の腕を握って立ち上がらせた。その握力は強く、動作は落ち着いていた。猛に向ける瞳は澄んでいた。
敵ではない。……猛は察した。
「ありがとう」
青年の手を借りて立ち上がった猛は、僅かばかり残った不安を自覚しながら、その場から逃げ出すことも、銃を使うことも不要だと考えた。それどころか、彼との出会いは運命だ。吉兆に違いないとも……。
「私は、棚橋猛。日本人だ」
猛は名乗り、頭を下げた。
「私はハンの子孫で、クルボと言います」
クルボも頭を下げた。
「ハンとは、この祠に書いてあるハン神のことか?」
猛の質問に青年はそうだと応じた。猛はこの辺りが白砂村で、ハンという神の子孫が住んでいるのだろうと推理した。
「虫が神なのか?」
猛が祠の中を指して尋ねると、クルボは「いいや」と首を横に振った。
「彼は罪を犯し、神の罰を受けているところだ」
猛はクルボの言うことが呑み込めなかった。
「虫の大群のように見えるが、人間なのか?」
「彼は、ハンという名で、私の先祖だ。何代前の先祖なのかは分からない。ずっとずっと昔の人間だ」
彼が言うには、虫が群がる人型の中には生きた人間がいる、ということだった。虫はその血を吸い、肉を食べるために集まっているらしい。
「そんな馬鹿な」
猛が疑うとクルボは、道端の背丈の高い草をむしり取った。
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