第10話
猛は小川の脇の窪地に身を潜め、時代遅れの三八式歩兵銃を抱えて一時間ほど休んだ。
「ヨシッ」
気合を入れて立ち上がる。声を出すだけで孤独からは解放された。
「我ながら、足腰だけは強いな」
長年、荒れ地を切り開いてきたことがこんなところで役に立つとは思わなかった。
猛は太陽を背にして歩いた。南半球なので南に向かっていることになる。それは日本軍の恐怖から遠ざかることだが、同時に、日本本土から遠ざかることでもあった。
「俺は日本を捨てるのだ」
声にしたが、その時だけは
――パキッ――
木の枝が折れる音で足を止める。それは樹上のサルによるものだったり、地面に落ちていた木の枝を自分が踏んだだけだったりした。鳥の飛び立つ音、猿が枝を飛び移る音、野ネズミが巣穴に逃げ込む音……。それらを聞くたびに足を止めて屈みこみ、あるいは大木の陰に隠れ、人間の気配を探した。木漏れ日が揺れる木陰に、銃口を向けることも多かった。
ジャングルの茂みでは、時々死体を見つけた。それは決まって日本兵のもので、アメリカ兵の
「チクショウ」
それは骸を見捨てる自分を叱る言葉だ。葬ってやれば辛さも半減するのだろうが、日本兵の骸があるということは、そこが日本軍の行動範囲であり、かつアメリカ軍の勢力下ということを示している。脱走兵の猛に死者を弔う余裕はなかった。
両手を合わせて「南無阿弥陀仏」と三度繰り返してその場を離れた。
南無阿弥陀仏と繰り返す短い時間でも、ハエやアブ、蚊等の昆虫に悩まされた。それはアメリカ軍の飛行機のように沢山飛んで来て猛を襲った。稀に、樹上から大きな山ビルが落ちてくる。それは大型爆撃機の落とす爆弾のようなものだ。
とはいえ、死者との出会いは必ずしも不幸とは言えない。時に彼らは荷物を背負っているからだ。
猛は、死者からマッチや手ぬぐい、着替えといった生活用品や、書物を手に入れた。それらの荷物を入れる
「お前より俺のほうが役立てられる」
そう告げて死者の荷物を引き継いだ。
手に入れた本は夏目漱石の〝坊ちゃん〟で、活字は自分が人間であることを思い出させた。
「神も仏もないものだ」
猛は本を背嚢に押し込んで、疲労の詰まった軍靴を前に進めた。
四日目の夕方、野生の青いバナナをみつけて焼いて食べた。基地からは遠く、火を使っても大丈夫だろうと判断したのだ。久ぶりに満腹感を覚え、その日は熟睡した。
油断していたのだろう。翌朝、発熱していた。痛みで起きると全身に大きなアリがたかっていた。油断も極まったものだ。うっかりアリの巣の上で寝ていたらしい。慌てて飛び起き、近くの小川に飛び込んだ。
熱はアリに刺されたものか、あるいは毒蜘蛛に刺されたものか。……首筋から背中にかけて固く晴れたしこりがあり、そこから熱が全身に広がっているようだった。
「自分には悪運がある」
自分に言い聞かせた。その甲斐あってか、熱は半日で下がった。
「きっと生きのびられる」猛は信じた。
アメリカ軍に投降してはどうだろうか? 運が良いから、相手が鬼畜米英とはいえ、殺されないかもしれない。……そんな風に考えたのは、たとえ敵であっても、人間と話がしたいという欲求が頭の真ん中で渦巻いていたからだ。
しかし、そうすることはできなかった。投降しようにも、そのために必要な白旗がない。その代わりになるものも見当たらなかった。持ち物と言えば、手ぬぐいから下着に至るまで、汚れで灰色に染まっていた。白旗がなければ投降できないではないか!……そんな風に考えるほど、猛の脳は疲れ切っていた。
もう一つ問題があった。日本軍から遠ざかろうとしてジャングルを遮二無二歩いたために、アメリカ軍の位置もわからなくなっていた。
脱走してから十日ほどした夕方だった。
「もう大丈夫だろう」
そう呟き座り込んだ。その根拠は、一昨日来、日本兵の死体を見ることがなかったからだ。
三八式歩兵銃を捨てようかと思った。そして、四キロもある銃を何故今まで背負って来たのだろう、と考えた。
そして気づいた。もし追手が来たら撃つつもりだった、という本心に。それでも自問する。
「自分は追手を撃つつもりだったのだろうか?」
「そんなはずはない。自分が同朋を撃つはずがない」
もし追手があの上官ならば。……執拗にいたぶってきた若い士官の顔が浮かんだ。
「撃つかもしれない……」
自問自答、自分を偽りながら、歩兵銃を抱いて身体を横たえた。もちろん、虫の巣がないことを確認した。
隊では、兵隊の命よりも武器弾薬の方が大切だと教えられた。だから自分は、銃を大切にしているのかもしれない。考えながら眼を閉じた。
「未練だ……」
つぶやきは銃に対する尊敬や愛着ではなかった。自分の命に対するものだ。
結局、銃を捨てることも答えを得ることもなく、それから二日ほど歩いた。
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