1945

第9話

 一九四五年七月、日本陸軍の棚橋猛たなはしたけし二等兵は部隊を脱走した。空に月はなく、南十字星が美しい夜だった。


 そこは南国の島、激烈な戦闘は半年も前に終わっており、その頃はアメリカ軍が攻めてくる気配などなくなっていた。山の向こう側にいるアメリカ軍は基地を整備することに力を入れ、すでに自滅することが分かり切っている日本の小部隊など放置していた。猛が守る基地は、とっくの昔に戦略的な意味を失っていたのだ。


 それでも時折P51マスタング戦闘機が数機飛来して、日本兵めがけて機銃掃射きじゅうそうしゃをかけた。それは子供がアリをいたぶって遊ぶようなものだ。あるいは彼らが、自分たちの存在意義を本国に示すためなのかもしれなかった。


 もちろん日本軍の基地に飛べる飛行機など無く、高射砲の弾丸さえ尽きていた。兵隊たちが物陰から歩兵銃で空を撃つのが関の山……。それが敵機に当たるとは誰も思っていなかった。


 日本本土からの補給が途絶えてから長い月日が経っていた。軍は地元の村から食料の提供を受けていたが、彼らは新たに上陸したアメリカ軍にも食料を提供しなければならなかった。彼らから見れば、アメリカ軍の方が上客だった。地元の村の生産力は小さい。両者に十分な食料を提供することは不可能だった。日本軍への食糧は、徐々に減らされていった。


 いかに強靭きょうじんな軍隊でも、食料がなくなれば兵隊は餓死し、組織は瓦解がかいする。そこで軍は、不足する食料をジャングルに求めた。南国のジャングルは本来、フルーツや野ブタ、野山羊、ネズミ、トカゲなど、生き物は豊かだ。しかし、そこでの採取が長く続いたために、基地周辺の摂取可能な動植物はすっかりなくなっていた。


 軍隊にとっての危機は食糧不足だけではなかった。医薬品が底をつくとマラリアやチフスといった伝染病で兵隊は簡単に死んでいく。そうした環境の中で、誰もが不安と絶望にさいなまれた。


 不安や絶望は、暴力で昇華された。幹部は、食料不足や兵隊の死の原因を兵隊たちの怠慢と精神力の不足に求め、規律や規則といった軍紀が強化されていった。


 軍紀が強化されると、それに比例して違反が増えた。それまで良かったことが悪になるのだから当然だ。その悪を口実に、日常的な物理的、精神的暴力が生れた。そうやって、権力をもつ一群の不安と恐怖は解消されたが、権力のない下級兵士にとっては違っていた。


 太平洋戦争開戦直後から、日本の独身の若者は沢山戦場に送り出された。それでも兵隊が不足したために、既婚者も徴兵されるようになり、しまいには体力の衰えた中年の男も徴兵されるようになった。


 三十歳半ばで徴兵された猛は、二等兵という身分のためにアメリカ軍と戦うだけでなく、年下の上官たちの世話をしなければならない。そして上官の気分がすぐれなければ、愛国心と大和魂の名目のもと、彼らの不満を暴力という形で引き受けなければならなかった。


 猛の不幸の一因は開拓者というところにあった。その生き方は、既存の組織のルールや習慣にあわせるというものではない。厳しい気候や地形、動植物と対峙し、己の力で工夫して大地を切り拓く暮らしだ。時には野獣や毒虫と戦い、不作時には飢え、病に耐える。そんな孤独な生き方なのだ。軍隊のような兵隊という駒として縛られるものとは異なっていた。そうした生き方が、ことごとく猛の言葉や態度に現れ、ことあるごとに上官の機嫌を損ねていた。


 そこで、自分が深夜の見張り番の時に、便所に向かうふりをしてジャングルの闇の中にもぐりこんだ。死ぬのは覚悟の上の行動だった。


 一度、隊を離れてしまえば、南方の島から日本へ帰ることは不可能だとわかっていた。が、今のまま上官に殺されても、日本に帰ることができないのは同じことだ。結局、部隊は終戦直前、アメリカ軍に玉砕ぎょくさい戦を仕掛けて壊滅したから、猛の決断は正しかったのかもしれない。


 脱走した猛はジャングルの奥へ入り込み、ひたすら奥地を目指して歩いた。

 そのジャングルには猛獣は少ない。海辺や大きな河川にはワニが潜んでいるけれど、幸いなことにこのジャングルに大河はない。むしろ、小さな昆虫などが媒介する病原菌や毒蜘蛛の毒のほうが恐ろしい。


 猛獣がいないとはいえ、真夜中のジャングルを明かりもつけずに進むのは困難なことだった。猛は、ニシキヘビを踏みつけないように気を付けた。それは夜行性で、夜の樹木の中を移動している。毒はないが、大きなものは人間も丸のみにするという。それに締め上げられたら命はない。


 ニシキヘビに気を付けながらも足の運びが速いのは、脱走に気付かれて追手がかかることのほうが、それ以上に怖かったからだ。人間というものは、組織の裏切者に対する報復には容赦がないものだ。それが敵に寝返るのではなく、ただの脱走だとしても同じこと……。


 その晩は寝ずに歩いた。足を止めたのは翌日の午後、小川を見つけて喉の渇きを覚えた時だった。


 両手で水をすくって喉を潤す。水は生ぬるかったが、歩き疲れた体に生きる意欲を呼び戻すには十分だった。


 布製の戦闘帽で水をすくって頭からかけた。鉄兜の方が水を汲むのに便利で、鍋の代わりにして煮炊きをすることもできた。多くの兵隊がそうしていた。しかし猛は、寝ている間にそれを盗られ、持っていなかった。それを紛失したとして、上官に殴られた。そんなことを思い出して笑った。


「俺は自由だ」


 木陰からのぞく青い空に向かって言った。


 補給の途絶えた部隊では、鉄兜は貴重品だった。しかし猛は、戦死者がそれを被っているのを見ても、悪運を拾うようで盗ることはしなかった。それを持っていた場合、その後に失くしたら、また上官に制裁の口実を与えることになる。持つことにリスクがあるなら、持たないほうがいい。


 小川の中にウナギを見つけ、空腹に気づいた。しかし、それを捕ったところで火を焚くわけにはいかない。かば焼きにした想像だけにとどめた。


「命拾いしたな」


 小川のウナギに話しかける。ウナギはのっぺりとした表情のまま、身をくねらせて土手の水草の陰に消えていった。


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