第8話

 自分の住まいに帰ったハンは、全身から汗が噴き出しているのに驚いた。気づかなかったが、思いのほか全力を使っていたのだ。心臓がバクバクいっていた。


 物音で目を覚ました妻のひとり、ルカヒがやって来る。その両肩を抱え、「我が家は永遠に栄えるだろう」と強がりを言った。


「あの神に、この心臓を持つ資格はない」


 ハンは神殿から盗んできた黒曜石を妻に見せた。彼女が目と口を丸く開いた。


 黒曜石を床に置いた拍子に、それが本のように開いた。内側に小さな文字が整然と刻み込まれている。ハンとルカヒは顔を見合わせた。石の塊だと思っていたものが開いたのだから当然だ。


「これは何だ?」


「文字のようです」


 彼女は開いた黒曜石の内側に刻まれた記号に目をやっていた。


「文字?」


 ハンは経験から多くのものを学んでいたが、文字を知らなかった。当然、それの意味することを理解できない。


「ルカヒ、何と書いてある?」


 ルカヒは神官の一族として育ち、部族の文字を知ってはいた。が、石に刻まれた文字は読めなかった。


「これは神の文字か?」


 ハンは訊いた。


「きっと、神の掟です。兄から〝神の心臓〟には掟が刻まれていると聞いたことがあります」


「何と書いてある?」


 ルカヒが文字を見つめた。指を添えて首を傾げ、そして首を振った。


「これは、〝神の心臓〟 私などが読み解けるものではありません」


 彼女は床に額を当てて謝罪を示し、ハンの前からさがった。


 ハンは開いた黒曜石を膝にのせて天を仰いだ。〝神の心臓〟を前に、ハンは無力だった。




 翌朝、数々の村が騒然とした。永遠に壊れることがないと信じられていた神殿が、一夜のうちに白い砂山と化していたからだ。


 その砂山の前にハンは足を運んだ。


「みんな聞いてくれ」


 広場の真ん中で両手を上げると、「自分は太陽の神に対して誠実である」と声にして誓った。そして、ゆっくりと話し始めた。その態度は、昨夜のしおれた姿とは全く別ものだった。


「俺は昨夜、暗黒の神にあった。痩せて目の落ちくぼんだ神だ。神は自分の神殿以外のものを守ることを怠った……」


 神が非力でハンの仲間を見殺しにしたことを糾弾した。


「……私は神に罪を問うた。神は恥じて、自らの心臓を置いてここを去った」


 ハンは黒曜石を片手に壊れた神殿の前に立ち、自分の正統性を主張した。


「これからは、太陽神こそが、我々の神だ」


 村人は黙ってハンの言葉を聞いていた。ハンの一族の多くがワニに襲われて命を落としたことは知られていた。彼らはハンに同情していたが、それが神の責任だとも、の理由になるとも考えていなかった。


「神殿の神は去った。だからと言って、何が変わるというのか?」


 ハンはしつこく繰り返した。


 神の恩恵を受けるのは神官ばかりで、人々は恩恵らしいものを受けた経験がない。それで深い信仰心も神に対する責任感もなかった。彼らには神を善とも悪とも判断する基準などない。そこに、ハンの問いかけに反対する理由などなかった。


 人々の中にあるものと言えば、だけだった。


「ハンが我々を見捨てた神を殺した。それは勇気と力を証明したことになる」


 一人の男が声を上げると、多くの村人がその意見になびいた。彼らは納得し、ハンの行為を追認したが、以前のように、彼に親しくすることもなくなった。


 ――神殺し――村人はハンの行いを揶揄やゆし、陰ではハンをそう呼ぶようになった。そして、神殿がなくなっても自分たちの生活は変わらないと知った。


 変わったのは、神官が生活のかてを失ったことだけだった。彼らは、新たな神を探してその土地を去った。


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