第5話

 数日後のこと。スコールが来る気配がした。ハンはいつものように狩りを終えると、荷物をいれた袋を抱えて家を出た。そして神殿に近い窪地に潜んでスコールを待った。


 神殿の広場に祈りに来る者がなければ、神官が自分の家から出てくることはない。この数日の観察で知った。神官が外にいなければ、神殿に忍び込むのは難しくない。


 予測通り、夕方近くにスコールがやって来た。滝のようなスコールは人の視界を完全に遮断した。雨の中で祈りにくる者もいない。当然、神官は家の中だ。


 ハンは窪地を飛び出した。水煙の中を走り、神官に気づかれることもなく神殿に忍び込むことができた。


 建物内には人の気配がなかった。獣や虫といった、人間以外の生き物の気配もだ。広いホールには、巨大な円柱が立ち並び、ハンの知らない獣の彫像が並んでいるだけだった。


 ハンは物陰に隠れて扉が閉まるのを待った。それは極めて短い時間だった。その時刻が来ると、神殿の扉は人間の手によってではなく、まるで扉が意志を持っているかのように勝手に閉まった。


 神が閉めたのかもしれない。……ハンは不安を覚えた。神なら、隠れていようと自分の存在に気づいているだろう。捕まり、命を奪われるかもしれない。


 扉が閉まると空気が一気に冷えた。これまでにハンの経験したことのない寒さで、手足は震え、唇は青くなった。ハンはこごえるという言葉を知らず、そういった経験もなかったので、それが神殿に入った罰なのだと考えた。


「俺は、神の罰にも耐えてみせる」


 ハンは決意を新たに背中から袋を下ろし、手探りで三本の松明たいまつの一つと火打石、火縄を取り出した。


 ――カッ、カッ――


 火打石から飛んだ火花が火縄に燃え移る。それを野ブタの脂がしみ込んだ松明に着けた。


「ワニとの戦いに比べれば、この程度の寒さは物の数ではない」


 松明の火が、明かりと熱と、勇気をくれた。


 ハンは神殿内を探索する。頭の中に忍び込んだホールの形を描き、手当たり次第にドアを開けてあるくつもりだった。そうして神の姿を、話に聞いたミイラと〝神の心臓〟を、捜し当てるのだ。それらのどれかが理不尽なこの世を変えてくれると期待していた。そうして変わった世界を見たかった。


 一つ目の部屋には左右の壁に一つずつと正面に二つの扉があった。壁は動物や虫のレリーフで埋め尽くされている。中にはワニのレリーフもあり、大きな口を開けて日光浴をしている姿もあれば、後ろ足と尻尾を使って人のように立つ姿もあった。しかし、多くのレリーフはハンの知らない生き物の姿だ。天井には鳥などの空飛ぶ生き物が描かれている。


 ワニのレリーフの前で「チッ」と舌を鳴らす。それは生活の糧を与えてくれる有難い生き物だけれど、父や兄弟、妻や子供たちの仇でもある。


 左の壁の扉へ向かった。それは重く、体重をかけて開けなければならなかった。扉を開けると同時に、ハンは腰の剣に手をかけた。部屋の奥の扉に赤い灯を掲げる人の姿があったからだ。それがこの神殿の神なのだろうと思った。


 ハンは奥に立つ神を見守った。神もハンの行動をうかがうだけで動かない。


 あれは神ではない。……ハンは考えた。神が人の動きをうかがうはずがなかった。神を守る番人か何かだろう。対峙する二人が手にした明かりの揺らめきだけが、この世の動きを象徴していた。


 長いにらみ合いにしびれを切らしたハンが少し進むと、相手もわずかに進んだように見えた。


 ハンはもう一歩進んだ。すると何の前触れもなく、前後左右に数えきれないほどの男たちが現れた。皆、剣と松明を手にしている。


 ハンは驚いた。が、気持ちはすでに戦うと決めている。逃げるという選択肢は思い浮かばなかった。


 ハンは剣を構えた。同時に、ここで死ぬのだ、と覚悟も決めた。


 腰をかがめて戦う姿勢を取った。何故か、相手もそうするだけで向かってこない。松明が増えたのに、部屋の明るさが変わらないことも不思議だった。


 気持ちを落ち着けて良く見ると、周囲の男たちはハンに対峙する者ばかりではなく、その見ている方向はバラバラで背中を見せている男までいる。


「脅かしやがる」


 ハンは苦笑し、剣を腰に戻した。鏡というものを知らなかったが、その部屋の壁が平らで、風のない湖の湖面のようにハンの姿を忠実に映していることは分かった。ハンが扉を開けた時に一つだった影が、ハンが室内に踏み込むことで万華鏡のように多数の姿を映していたのだ。


 鏡のように磨き上げられた壁に沿って歩いてみると、部屋は六角形で入ってきた出入り口の他に扉はなかった。ハンは動物のレリーフの部屋に戻り、別の扉に向かった。


 新たに足を踏み入れた部屋は、兵士のレリーフの部屋だった。壁には剣や槍、斧などの武器を持つ兵士や、馬や象、車のついた箱に乗る兵士の姿があった。中にはハンが見たことも聞いたこともない武器を持つ兵士もいたし、人の形はしているが人ではない兵士の姿もあった。馬や象に並んで車と太い筒を突き出した大きな箱のレリーフもあった。


 天井を見上げると、そこには鳥のように空を飛ぶ兵士と、空を飛ぶ機械が描かれていた。


 これが神の軍隊なのか!……ハンは息をのんだ。レリーフではなく、生きた彼らの姿を見てみたいものだと思った。


 その部屋にはハンが入ってきた扉の他に二つの扉あった。一つは正面にあり、もう一つは右側からのびる階段の上部にあった。


 階段の上の扉が自分の行くべきところだと直感したが、全ての部屋を見たいという好奇心を抑えることはできなかった。


「時間は十分にある」


 そう声にして正面の扉を開けた。


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