第4話
怪我人の手当が済んだころ、降り続いていた雨がやんだ。それまで空を覆い隠していた厚い雲が嘘のように消えて、濃い血のような色に染まった夕空が現れた。
ワニとの戦いで、ハンの家では十二名の犠牲者をだした。その中には母と二番目の妻もいる。生き残っても、手足を失った者がいた。ハンも太ももの肉を食いちぎられていた。
ハンは泥の中から引き上げた遺体を前に仁王立ちで泣いた。幼い子供は飲み込まれてしまったのだろう。遺体さえなかった。
父を亡くして神に祈ったのは半年ほど前のことだ。それなのに再び、母と兄弟、そして妻や子供まで失った。兄弟の妻やその子供など、多くの家族がワニのために命を奪われた。そして、隣の家に暮らしていた友人も失った。
そうして悲嘆にくれるハンをハンは高熱が襲った。ハンは激痛のあまりに唸り、身をよじった。時に意識を失い、時に家族の夢を見て、時に暗闇の中を
「弟よ。葬儀の手配は任せる。もし俺が死んだら、お前が後を仕切るのだ。そして妻よ。生きている者たちのために丘の部族のもとに行き、食料を分けてもらえ」
ハンは、一族の者に葬儀や食料の調達、建物の修理などの指示を出しながら病と闘った。
神の助けか、親族の治療が功を奏したのか、ハンはかろうじて命を取り留めた。五日後に熱が下がり、十日後には足を引きずりながら歩くことができる程度に回復した。
「俺は運が良かった」
ワニとの戦いで命を失ったものが十二人、その後、出血や熱を出して死んだ者が五人いた。隣の弟の家では十人が死んだ。
「これが神殿の牛の彫刻が屋根から落ちたという不吉な知らせの意味だったのだろう」
ハンは、隣に腰を掛けて身体に集まる虫を追う一番目の妻に言った。彼女は神官の一族の遠縁にあたり、そのことを自慢するようなところがある。
「私たちは、ワニへ捧げられた牛ですか?」
「違うか?」
ハンは自分の想像が間違っているはずがないと思う。二十七名の命を失った事件が、神の知らせにないはずがない。
「神は宇宙の理を予言すると聞きました。先日の大雨ならば宇宙のことなのかもしれませんが、ワニとの戦いは宇宙とは無縁のことだと思います」
妻の言葉にハンは考える。神は私たちのことに無関心なのだろうか?
「人の魂を宇宙へ運び、また、宇宙から人の世へ運ぶのは神の力です。神がワニを使って人の命を絶つことはないと思います」
彼女は、人間や動物の生き様など、神のあずかり知らぬことだと言っているようだった。彼女の言葉が正しいのなら、同朋の命を失うのは悲しいことだが、それを神の悪戯ととらえて
「お前は賢い」
ハンは目を閉じた。
数日後、ハンは一族を引き連れて神殿の前にいた。隣の家と合わせて二十七名の死者の魂を送るためだ。なけなしの貢物を並べて長い時を祈りにささげた。
貢物を神官が持ち去った後、一族を先に帰した。ハンは陽が沈むまで神殿を前に座り込んでいた。
やがて音も立てずに神殿の扉が閉じた。
扉が閉じる様子を観察してから、ハンはゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら東の森へ向かって歩いた。
翌日、洪水の日以来、初めてのワニ狩りを行った。
「俺が、行こう」
ハンの四番目の弟がワニの餌を手にした。ワニの元に餌を投げる危険な仕事は族長の役割だったが、足を引きずるハンにはできない仕事だった。ハンは檻の後ろで縄を持ち、ワニのスピードに合わせて餌を引く。安全な場所で行うその仕事は、ハンにとっては屈辱だった。
その日は、ワニを二匹狩った。得物を解体して肉を分配し、なめした革を、食料を借りた丘の部族へ届けた。
翌日も同じだった。ハンは暗い眼をして縄を引いた。そして、革を他の部族へ届けた。その帰り、神殿に足を運んだ。
「毎日、何をしに来る?」
ハンの前に神官が立った。
「神の声を聞くために来る」
「神の声を聞き、それを伝えるのは私の役目だ」
神官は嫌なものを見るようにハンの全身を見回した。
「神は、神官には自分の言葉が伝わらないと言っている」
「な、なんだと……」
神官が動揺した。
「ははは。冗談だ」
ハンは神官に背を向けて家に帰った。
「お前は、嘘をつかない」
神官の血を引く妻は、無言で頷く。
「だから、お前に聞こう。神は人を裁くか?」
妻は首を横に振った。
「神は、人を罰するか?」
今度は、首を縦に振った。
「神は、人の望みをかなえるか?」
妻は、ゆっくりと首を横に振った。
「神官は、神の言葉を聞くか?」
妻は小首をかしげて考え、それから首を横に振った。
「妻よ。ありがとう。私の心は決まった」
ハンは久しぶりに妻を抱いた。
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