第3話
ハンは、濁流の中に大量のワニの黒い背中を認めた。長雨で餌を得られずに探し求めているのか、あるいは、彼らさえも泥水の
気づいた時には遅かった。それらが床上に浸水した泥水に乗って家の中に侵入した。
「ワニだ」「逃げろ」「助けて!」
ハンの家はもちろん、周囲の家々の者たちもパニックに陥った。
「女子供を屋根の上に上げろ」
ハンは兄弟に命じ、妻や子供を
ワニは滅多に陸上で人間を襲うことはないが、パニックに陥っているのか、ハンの一族に襲いかかった。
「あっちへいけ!」「こっちへ来るな!」「くたばれ!」
兄弟たちは、武器を振るってワニと戦った。
――ヅン――
ハンは、先頭のワニの側頭部に大鉈を打ち込んだ。そのワニは暴れて濁流の中に落ちていった。
隣では三番目の弟がワニ取り用の槍を構えていた。真直ぐ突くと、ワニの脇腹を貫いた。が、暴れるワニが弟の横に回り込むように動くと、槍の長い
それに気づいたハンは助けようと動きかけた。その時、反対側から別のワニが襲ってくるのが目に留まった。ハンの家は、すっかりワニに取り囲まれていた。
ハンは「ギャ!」という悲鳴を聞いた。振り返ると、槍を握った弟がワニに食いつかれていて、腹をかまれたまま水中に没した。それは父の最後と重なって見えた。
弟を助けようと動いたハンに向かって、次のワニが迫っていた。
「こなクソ!」
ハンはワニの鼻先を大鉈で割った。ワニはまるで身もだえするように身体を回転させて濁流の中に落ちた。
濁流とワニの突撃は、頑丈な丸太柱の家をも激しく揺さぶった。
――ドガッ!――
それは
建物がそれまでより激しく揺れた。
「キャー!」「タスケテ!」
屋根に逃げていた女と子供が数人、悲鳴を上げながら水に落ちた。
「リヨーネ!」
ハンは目の隅に映った娘の名を叫んだ。すぐにも助けたかったが、目の前のワニが牙をむいていて動くことができなかった。
ハンは懸命に戦った。リヨーネの救助を妨げるワニの鼻先にも二度、三度と大鉈を振るって撃退した。そうしてリヨーネを探したが、水面にはリヨーネも他の子供たちの姿もなくなっていた。
あちらこちらで気合と怒号、悲鳴が上がった。人間とワニの赤い血が、命が、泥水の中に溶けて行く。
どれほど戦っていただろう。ハンの手も足も疲労で上手く動かなくなっていた。右手も左手も自分とワニの血に濡れ、ともすると大鉈を取り落とした。
何度目かの時に、手から滑り落ちた大鉈がワニの尻尾に弾かれて泥水に沈んだ。
「クソ……」
ハンは横飛びに飛んで山刀を拾った。しばらく前まで弟が使っていたものだ。彼も今は水の底だ。山刀の
――ドドーン!――
ハンが戦う力を失いかけたころ衝撃音が走った。巨石が河口を堰き止めていた場所で水しぶきが、一見、滝が逆流したように白い水の壁をつくっていた。泥水を堰き止めていた流木や岩石が、その水圧に耐えかねて崩れ去ったのだ。
堰き止められていた大量の水が渦を巻いて流れ出す。ハンの家の周囲を泳ぎ回っていたワニも流された。
水位はあっという間に一メートルほど下がった。残された泥の中には、ワニと人間の死体と土砂、流木が入り乱れていた。
「みんなの傷の手当てを」
ハンは屋根から降りて呆然と立ち尽くす女たちに頼んだ。
手当といっても、家の中の家具や道具は全て濁流が持ち去ってしまっていた。女たちは傷の浅い男たちの手を借りてジャングルに入り、薬草を集め、湧水を汲んだ。彼女らは薬草を口で
女たちが怪我人の間を忙しく飛び回るさまを見ながら考えた。今は生きていても傷を負った者の何人かは熱をだして死ぬだろう。それが細菌によるものだとは知らなかった。原因が何であれ、死ぬという結果はワニに食われるのと同じだ。神の力であれ、運であれ、生き残るためには何かが必要なのだ。
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