第2話
神官ににべもなく突き放された時から、神が存在するのか否かが、ハンの重大な関心事になった。
神殿の一部が壊れても、それは一夜のうちに修復されてしまう。その時、神殿を修復する神が姿を現すのではないか?……そう考え、昼間は働き、夜は神殿の周りで過ごすことにした。
大きな嵐で神殿の水牛の彫像が落ちたことがあった。地面に落ちたそれは三つに砕けていたが、小さな破片でも大人の体よりも大きなものだった。人々は不吉なことが生じる前触れだろうと恐れたが、神殿そのものの崩壊を案じる者はいなかった。
ハンは、寝ずに神殿を見守った。
翌朝、ハンは彫刻が元に戻っているのを見た。水牛の彫刻は、何事もなかったように世界を、ハンを見下ろしていた。それは正に神の技といえた。
空の月が三度満ち欠けを繰り返した。しかし、彼は、神を見ることができなかった。
神殿の正面の大きな扉は、昼間は開いている。そして夜になると閉じる。はたして見ることのできない神は、どこを通って神殿を出入りしているのだろう?……ハンは長老や神官に尋ねたが、答えを持つ者はいなかった。
「神の意志も行動も、人間などには理解できないことなのだ。ただ無心に神を崇拝しろ」
神官は説明し、要求した。
「昔は、正面の扉から誰でも自由に入ることが出来たのだ。あそこを通るのは神だけではない」
ある長老は言った。しかし今、入ることが許されるのは神官と長老だけと決まっていた。
「神殿の中で遊ぶ子供がいる」とか、「持ち込まれた供物が腐り臭気を放つ」とか、「神の像に触れる罰当たりな輩がいる」とか、「〝神の心臓〟を守らなければならない」とか、神官は村人を排除する理由を並べた。
「いい加減、諦めたらどうだ。家族が心配しているぞ……」
ハンを哀れに思った長老が忠告し、彼の家で代々言い伝えられている話をしてくれた。
彼が言うには、神の像は神殿の奥にある小さな人間のミイラで、彫刻などではないらしい。暑く湿度の高い南国で遺体が腐らずにミイラ化したことは謎だし、虫や獣たちに食われることがなかったことも謎だった。
「神官たちは、この伝承を語ることを好まない」
長老は不快そうに首を振った。
「そのミイラが神なのか?」
「そんなはずはあるまい。ミイラはミイラ。元は人間よ」
長老の答えに、ハンはうなずいた。ミイラが神殿を修復することはないだろう。
「それなら何故、神殿に?」
「そもそも、重要なのは〝神の心臓〟だ。ミイラは何らかの象徴で、神殿と同様に神によって守られているのだろう。そのミイラが、どうしてそこにあるのか?……あの神殿に意味を見出せるとしたら、それがわかった時だろう」
長老は夕闇にのまれようとする神殿を一瞥して帰った。
翌日も誰かが死んだ。家族が遺体と供物を神殿の前に置いて泣いた。そこへ、いつものように神官がやって来た。
「神は何者なのだ? 俺たちに何をしてくれるのだ?」
ハンは追及したが、彼らは何も語らなかった。ただ困ったように神官同士で目線を交わしていた。言葉がないのではない。彼らは知らないのだろう。ハンはそう思った。
結局、本当のところは何もわからない。神官たちは、扉を閉ざすことで、神や神殿、そして自分たちの神秘的な優位性や権威を作り出しているだけなのだ。……それが半年も観察した末に得られた答えだった。
翌朝、ハンは一族が住む細長い高床式の住宅の前で、鳥の飛ばない空を見上げていた。いつしか、灰色の低く垂れこめた雨雲が、ぽたり、ぽたりと水滴を落とし始めた。
「いやな予感がする」
ハンは兄弟に向かって言った。
「嵐か?」
弟が空を見上げた。
「いや。雲は渦巻いてはいない」
「兄さんは、父さんが死んだから気弱になっているんだ」
別の弟がやってきて隣で空を見上げた。
「それなら良いが」
ハンは弟たちの顔を見る。頼りになる弟たちだ。
それから雨雲は厚さを増して、日差しを遮られた世界は月夜のようになった。雨の日が四日ほど続いた。四日目の雨は天の怒りを乗せた槍のようだった。轟々と屋根を打った。大河は
――ドウドウドウ――
濁流は人がすっぽり飲み込まれるほどの大きなうねりとなっていた。それは上流から、木々や土砂だけでなく、岩をも押し流していた。それらが海の流れに遮られて河口付近に沈んだ。
五日目の朝、河口付近の家々を洪水が襲った。堰き止められた流れが河原にあふれて大きな湖をつくったのだ。その中にハンの村もあった。地上から一メートルほどの高さにあった家の床上を泥水が洗い始める。
「まずいな……」「大丈夫か?」「神の怒りだ」「怖いよぉ」
老人や子供だけでなく、家族は皆、不安を口にした。ハンだけは黙って周囲を見張った。
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