神の心臓

明日乃たまご

罪人(つみびと)の物語

第1話

 文明の黎明期れいめいき、南国の島の豊かな森の中に白い神殿があり、その周囲に数千人が暮らしていた。


 人々は魚を取り、タロイモを育て、石や植物を利用して日用道具を作り、それらを分かち合う。集まっては太鼓を打ち鳴らし、歌をうたい踊り、老人は子供に物語を語り、子供は両親と共に野や海へ出かけて生活のかてを求め、そして遊ぶ。


 人々は人生と季節の節目になると神殿の神に祈り、欲に縛られない生活を送っていた。それは贅沢な暮らしではなかったが、彼らは十分幸せだった。


 神殿が造営されてどれほどの時が過ぎていたのかは誰も知らない。人々がそこに住み着いたとき、神殿はすでにあったからだ。


 神殿は、雷や嵐で壊れても、翌日には自らの力で修復していた。そのために人々は、神殿には見えない神が住んでおり、神殿の修理も自ら行っていると考えた。




 青年ハンの一族は、先祖がそうしていたように、神殿に近い河口で魚とワニを取って生計を立てていた。


 魚とワニの肉は一族の食料となり、ワニの皮は市場でイモやバナナと交換した。ワニの皮は高価だが、それを手に入れるのは命がけだ。ワニは群れでたむろしており、一匹を捕まえようとするとその仲間も集まってくるからだ。ハンの一族はわなを仕掛け、一匹のワニを群れから引き離して捕まえる手法をとっていた。


 その日は天気が良く、小さな河口には数多あまたのワニが日差しの下でじっと身体を温めていた。


 族長であるハンの父親のハブニが、野ブタの骨付き肉に縄をくくり付けて、風下からゆっくりとワニの群れに近づいた。それは一番危険な仕事だった。その仕事をするのが、勇者であり、族長の証だ。


 縄は二十メートルほどの長さで、餌をくくりつけた反対の端は、太い丸太で作った半円状のおりの後ろにいる者が持っている。それを手繰り、餌におびき寄せられたワニを檻の中に引き入れてから仕留めるのだ。このやり方なら、万が一、三頭のワニが餌を追ってきても楽に仕留めることができた。


 ハンは檻の後ろで槍を持ち、ワニがやってくるのを待ち受けていた。


 ハブニは、一番近いワニに向けて餌を投げると、ゆっくりと後ずさりした。あとは、ワニが餌に食いつきそうになったら、手を挙げて縄を引く合図をすればいい。


 ところが、その日は普段と勝手が違った。


 ハブニが後ずさりする後ろ側へ、餌の臭いを嗅ぎつけた大きなワニが回り込んでいた。


 彼がそれに気づき、逃げるために立ち上がるのと、ワニが大きな口を開けるのとが同時だった。ワニはハブニの左足をとらえ、水辺に向かって後ずさりを始めた。


 ――こなクソ!――


 ハブニは声を上げた。が、そんなことでワニがひるむことはなかった。


 父親の異変に気付いたハンと仲間は、走って父親のもとに向かった。


「オヤジ!」「ハブニ!」


 声をあげると、驚いたワニの多くが川に潜った。一部のワニはハンたちを威嚇いかくした。が、それが襲ってくることはなかった。


「ハン、来るな!」


 ハブニが叫んだ。それが、彼の最後の言葉だった。


 ハンの槍が父親をくわえたワニにあと少しで届くというところで、それは川に潜り、大きな体をローリングして波紋の中に消えた。


 川が赤く染まる。そこへ血に飢えた他のワニたちが集まった。その様子を、ハンたちは呆然と見ていた。いくら待っても、ハブニの身体は小指の先さえ浮かんでこなかった。


 夕方、ハンは一族を連れて白い神殿の前に立った。みんなでハブニの魂を黄泉よみの国へ送るためだ。


 神殿は高い土台の上に立っていた。丸い石の柱が列をなし、屋根が二段になっている。七段の花弁を重ねたような塔が五つ、五芒星をかたどるようにニョキっと夕暮れの空に向かって伸びていた。


 白い神殿は神に守られている。嵐があって壊れても、人が怒って壊しても、翌朝にはすっかり元に戻っている。人々は、再生する神殿と人の生死を重ね合わせた。神殿を拝み、宇宙と自分たちの再生を託した。子供が産まれては神殿に感謝の祈りをささげ、人が死んでは復活の祈りをささげた。


 神殿の周りには常に多くの村人が集まり、祈りをささげている。それらの人々の前に、神の言葉を伝えると言ってきらびやかな衣装に身をまとった神官が現れた。彼らが神殿の周囲に住み着いたのは、ハンの一族が岸辺に住みついたときよりずっと昔のことらしい。


 神官がどんな資格や権限を持って神の言葉を伝えるようになったのかは、村の長老さえ知らなかった。


 彼らは、音楽を奏で、美しい女をおどらせて、人々が祈りに来るのをいつも待っていた。人々が神殿の前にひれ伏して拝むと、彼らは厳かな面持ちで現れ、神への供物を持ち去るのだ。


 その日もそうだった。神殿を前に、ハブニの三人の妻が泣いた。その子供たちや孫も泣いた。ハンは泣かなかった。これからはハンが、一族を率いていかなければならないからだ。彼が果物やワニの皮といった供物を並べると、神官たちが列をなしてやってきて、祈りのまねごとをした。


「なぜ、神は父を助けてくれなかったのだ? 神は、存在するのか?」


 ハンが問うと、「運命だ」と神官は短く答えて供物を持ち去った。とても納得できる答えではなかった。


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