第5話 悪
暗い洞窟の中を淡々と進んでいた。剣の切っ先からは滴るようにゴブリンの血が落ちる。壁に沿って立ち並ぶ松明が揺れ、眩しい光と灰色の陰が交錯する。
周囲からはかすかな呻き声や小さな足音が聞こえてくるが、そのどれもが恐怖に満ちていた。
ゴブリンたちは目に見えて混乱している。凶暴な本能が戦うべきだと叫ぶ一方で、僅かな理性の欠片が逃げるべきだと囁いているのだろう。
一匹のゴブリンが飛びかかる。その粗末な石斧一振りで弾き、そのまま体を貫いて沈める。後ろにいたゴブリンたちはその瞬間、喧嘩を始めたように押し合いを始めた。
「オ前イケ!イケ!」
「バカ!俺ダメ!」
「殺セ!奥ニ行カセルナ!誰カ殺セ!」
混乱と恐怖の声が洞窟内に響く。その声も俺が一歩踏み出すたびに、凍りついたように小さくなっていく。逃げ惑うゴブリン、恐怖に耐えきれずに襲い来るゴブリン、いずれにせよ、奴等に選択肢はなかった。
洞窟の奥へ進むほどに雰囲気は変わっていく。通路は広くなり、床には小さな石や骨片が散らばっている。壁に掛けられた簡素な武器や道具が、ここが彼らの拠点であることを物語っていた。
巣窟の最奥が近づくにつれて、ゴブリンたちの様子が一変した。これまで逃げ惑うばかりだった奴等が、次第に集まり始め、必死な表情で武器を掴んでいる。
ゴブリンの中でも少しばかり大きな個体が前に立ち、吠えるように指示を出していた。
「ココハ一族ノ縄張リ!守レ!全員デ殺セ!」
その声に応じて、小さなゴブリンたちが震える手で槍や斧を構えた。中には石を投げる準備をしている者もいる。どれも粗末な武器だ。数は多いが、そのどれもが俺の命に届かない。
冷静に見つめ、剣を握り直した。兜の奥で、炎が一層燃え上がる。
「………来い」
ゴブリンたちは一斉に襲いかかってきた。四方八方から武器や石が飛び交う。しかし、俺の動きはそのどれよりも速く、正確だった。剣の一振りで数匹のゴブリンが倒れ、盾を構えた者も力強い突きで吹き飛ばされる。
「ギャアウ!来ルナ!」
「殺セ!殺セ!」
それでもゴブリンたちは退かない。最奥を守るためか、それとも恐怖に縛られているのか、次々と攻撃を仕掛けてくる。俺は冷静にその全てを捌きながら、着実に奥へと進んでいった。
倒れたゴブリンはすぐに黒いモヤとなって俺の力となる。洞窟に侵入した時と今ではまるで別物だ。
剣はより鋭く、踏み込みはより速く、あてがっただけの鎧すら体に馴染んでいた。
ワラワラと現れるゴブリン共。これだけの数をどうやって維持していたのか、どういう文化を持っていたのか。何故奥へ進むのを必死に阻むのか。ただ殺すだけの俺には何もわからない。
やがて大きな部屋のような場所が見えた。自分たちで掘ったのだろうか、不自然に広い。その先にはさらに多くのゴブリンが集まっている気配がする。剣を一度振り払い、血を散らすと、再び前進を始めた。
薄暗い空間が一際広がっていた。ここが最奥だろうか?粗末な藁が床一面に敷き詰められ、中央には焚き火の残骸があった。だが、異様だったのはその光景だ。
腹の大きなゴブリンたちが、疲れ果てた様子で壁際に寄りかかっている。その皮膚はくすみ、手足は痩せ細っているのに、腹部だけが不自然に膨れていた。その側には、小さなゴブリンの幼体がいくつも転がっている。わらに包まれたその姿は、微かに震えているようにも見えた。
そして、奥に鎮座するのは他のゴブリンとは明らかに異なる存在。一際大きな体躯と、膨れ上がった腹部。リーダーと思われるそのゴブリンは、鈍い目で俺を睨んでいた。他のゴブリンに比べて、わずかに知性を感じさせるその表情が、洞窟全体を支配する静けさに一層の緊張感を与えている。
剣を構えたまま足を止めた。これまで迷いなくゴブリンたちを切り捨ててきた自分にとって、この光景は異質だった。目の前にいるのは戦闘員ではない。彼女らは明らかに戦いを放棄している。怯えた表情で、ただじっと俺を見つめているだけだ。
「………俺は」
思わず声が漏れ、剣をわずかに下ろした。
その瞬間――。
ガン!
「死ネ!」
背後から頭を殴られた。後ろに回られたか、どれほど気を抜いていたのか。
振りまきざまに首を跳ねた。腹の膨れたゴブリンだった。
「ギギギ……ヒトデナイ者ヨ……ナゼ……我ラヲ殺ス……」
大きなゴブリンが語りかける。その声はかすれているが、批難の意思が込められていた。
兜が取れてしまっている。骨だけの頭が暴露された事で、俺が魔物であることに気づかれたのだ。
答えに詰まった。リーダーゴブリンの背後に隠れるように震える幼いゴブリンたち。大きな腹を抱えて動けないゴブリンたち。それらに目が行ってしまう。
俺は………。
こいつらを殺したくない。ゴブリンへの情など無いが、禁忌への忌避感のような物がある。その様な事が許される訳が無い。相手は罪無き者たちだ。
それに、弱者を倒したところでどれほどの力になると言うのだ。
いや、理屈ではない。嫌なのだ。こんな事はしたくない。俺の心が、ただやりたくないのだ。
「俺の力とするため」
振り上げた剣を叩きつけ、一刀のもとに終わらせた。
やりたくない。嫌だ。見合う見返りなど無い。
だが、俺に選択肢は無かった。俺がゴブリン達を殺したのだ。ここまできて、嫌だから止めましたなど出来るわけがない。
怯える無力な者を殺す。力無く泣くだけの者を殺す。
俺を恨め、憎め、それも全て俺が背負っていく。お前たちの憎しみを裏切らない。
なるほど、これが悪か。なんとも不自由な物だ。
自分の為に他者を利用し、気まぐれに殺す。それはただ下衆というだけだった。
善良である事も同じ。ただ善良なだけと正義は違う。
覚悟の無い悪は下衆でしかなく、覚悟の無い正義が善良なのだ。
俺は悪となった。全てを背負い、自身の力へと変える純粋な悪に。
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