第17話
人が人に向ける顔は、その相手の立場と自分の立場によって変わる。
店にいる母親とその同僚が、客に見せる顔と自分に見せる顔が違うように、当たり前のように仮面を被る。それが効率的で能率的だ。
価値を生み出すために、価値を高めるために、未来を積むために、自分を偽る。
レオンコートは子供ながらにそれを見て、知っていた。
だからレオンコートは自分の感情を隠しきることが出来ていた。なにも変わらないことを演じることが出来ていた。
母親も、その同僚も、価値が低い。
そう見ていることを完全に隠蔽出来ていた。
やがてレオンコートは自分はここにいてもいいのかと考え始めた。こんな場所で、こんな風に時間を捨てるようなことをしていていいのか。
母親もなにもかも、レオンコートにはもう余分なものとなっていた。
自分で自分の面倒を見れない大人、自分の未来を自分で選択できない大人。ああはなりたくないと思うには充分すぎる環境。
飽き飽きで、うんざりした。
それから直ぐにレオンコートが店を飛び出すのは必然的だった。
何か目的があるわけではない。ただうんざりしたから、ただあの場所にいることに疲れたから、ただそれだけ。
初冬の風が体に鋭く突き刺さる。
人々の声もどこか遠く、小さく聞こえてくる。
街を照らす明かりからは、暖かさよりも火傷を彷彿とさせる痛みを感じ取れる。
そんな世界の中をレオンコートは少しだけ早足で歩き抜ける。
この煩わしい世界から遠くへ、人のいない場所へ。
レオンコートが自然にそう考えていたのは、物差しによって疲れていたからだろう。なにも見たくないと、無意識に心の内側を感じ取っていた。
ここは夜の街、とりわけ娼館が並ぶような場所だ。
人が消える場所など直ぐに見つかった。
裏路地を抜けた先にあった。日頃目にする通りよりも道幅は狭い。薄汚れているわけではなく、むしろ比較的綺麗だ。明かりは少々心もとないが、その闇がレオンコートの心を落ち着けた。
道の端っこに転がっていた木箱に腰掛けて、レオンコートは空を仰ぎ見た。
随分と狭い空だった。
建物に挟まれた場所から見える空は、とても窮屈そうで、レオンコートは自分の心そのもののように見えてしまった。
なんの意味も価値もないと思い、空から視線を落とすと目の前には建物。
誰もいない場所だが、誰かの存在がそこにはあった。少なくともレオンコートはそう感じた。
すると途端に、ここにいることが馬鹿馬鹿しくなってきた。
自分の足で行ける場所には、自分だけの世界はない。
落胆でも、怒りでもなく、ただの事実としてそれを実感した。
価値があろうとなかろうと、結局は無意味ではないのか。ここからどこにも行くことが出来ないのなら、結局は無価値ではないか。
疲れた。
「疲れた」
ボーッと意識を散漫にして、時間感覚すらも曖昧になって、自分すらも主観で見ることが出来なくなって、心が離れていく。
どれだけ時間が経ったのか分からないが、レオンコートは突然意識を覚醒させた。
「なにか焼けている?」
炎の匂いとも言うべきものを感じ取ったからだ。
嫌な予感がした。なんの根拠もないが、嫌な予感がした。
その予感に後押しされるように、レオンコートは直ぐに店に向けて歩きだした。
徐々に歩く速度が上がっていく、早足が駆け足に変わり、それが全力疾走に変わるのはあっという間のことだった。
たどり着いた場所は、ごうごうと熱が高く伸びていて、赤く染め上げられていた。
直ぐに店に突入したかった。皆を探したかった。
だけれどそれ以上に───怖かった。
足が竦み、上手く動かない。
呆然と店が灰になることを眺めることしか出来なかった。
レオンコートはその日に全てを無くした。
全てからの解放。誰もいない場所。その願いは悪辣な運命によって叶えられた。
レオンコートは子供だった。子供らしく無邪気に、無自覚に、親や家族同然と言える人達を価値を測る物差しで見下した。偉そうに、自分すらも見下した。世界すら見下した。
罪に問うには自覚がなく。罰を下すには早すぎる。
だが、レオンコートは自分を責めることに迷いはなかった。
家族に等しい人を価値が低いと蔑み、捨てようとした。そんな自分の愚かさを無くしてから強く理解した。
価値なんてない。全てを無くした自分は生きるべきではない。
泣き腫らして3日が過ぎた。
泥のように、ゴミのように、レオンコートは道の隅で丸くなって眠っていた。
夢と現実の境目が曖昧になっていくなかで、自分たちの不幸はギーツのせいだと言い続ける母親のことを思い出していた。
ウェンズが他の種族から蔑まれているのはギーツの近縁種族だからだと、ウェンズである自分たちがこんな生活をしているのは、ギーツの悪名のせいだ。
ギーツと自分たちの生活は関係がないのではないかと思うけれど、しかし実際ギーツは恐ろしい。家族すら食い殺すバケモノだと母親以外の誰もが言う。
だからギーツは恐ろしい種族だということは間違いはないのだ。
そうやって目を閉じたまま、お店の家族の言葉と会話を思い出す。
流す涙すら枯れていき、やがてスラムの隅っこでひっそりと命を落とす。レオンコートはそれを受け入れる準備が出来ていた。
疲れた。
「大丈夫?」
優しい声が聞こえた気がした。
それが自分に向けられているのかわからない。そもそも本当に聞こえたのか、それすらも分からない。分かりたくもない。もう放っておいてほしいと現実から目を背けるように、レオンコートは目を開けずにいた。
時間と運命の流れに身を任せて、ゆっくりと死にゆくことを是として全てを諦めた。
すると体が宙に浮いた。
抱き抱えられるような、そんな優しい温もりが冷えきったレオンコートの体にじんわりと染み渡っていく。
目を開けようかと思ったが、これが死神の迎えであったのなら怖い。
「目を開けて? 起きれる? 大丈夫だからね?」
優しい声と温もりも腕のなかで揺られる感覚に、レオンコートは意識を失った。
目が覚めると、知らない場所にいた。
目が覚めたのは今まで見たことがないほど白で統一されたベッドの上。色味が薄く、優しいと感じさせる部屋。
「あ、起きた? 怪我はないし、病気もないと言っていけれど、どこか痛むところはある?」
白い世界に不釣り合いな黒。
「ギーツ?」
その言葉は自然に出た。
やがて目が覚めて、意識がハッキリしてくると、レオンコートはベッドの横で椅子に座るギーツに対して恐怖心が生まれた。
「うわ、なんで? なんでギーツ? あっちいって!」
自分の状況よりも先にそれだけが口に出た。
すると、目の前のギーツがすっと動き出してレオンコートの頭にチョップを落とした。
「私はギーツじゃありません。カノークスです」
「え? でも、黒い?」
「はぁ……こんなクソガキ助けなければ良かったかしら」
自称カノークスの女は丁寧な口調で言葉が汚かった。
「助けて欲しいなんて言ってない」
「なら助けが必要な顔をしないでくれる? 頭が悪いのかしら?」
女はこめかみに人差し指をトントンと立てて煽るように言う。
「そんな顔はしてない!」
「してます~。えーんおかーさん。って泣きそうな顔をしてます~」
その言葉がレオンコートに強く突き刺さる。
「してッ、してッないッ……!」
枯れたはずの涙がボロボロと溢れる。それでも必死にそれを否定するように言った。
「あ、ごめんね。大丈夫? 大丈夫だからね」
女がレオンコートに近寄って頭へ手を伸ばす。
「触るなよ!」
それを弾いて、拒絶する。
触られて欲しくない。ここで受け入れてしまったら、ダメになる気がした。だから否定させて欲しい。母親とお店の家族に助けを求めていることを否定させて欲しかった。
だから、触れて欲しくなかった。
「うわ!」
女は無理やり力付くでレオンコートを抱き締め、そしてやはり無理やり頭をワシャワシャと乱暴に撫でた。
レオンコートは必死に暴れるも、女はやけに力強く、そして体感が強かった。
やがて疲れから暴れることが出来なくなると、動いた疲労感と撫でられる心地よさ、割れた心の寂しさが急激に襲ってきて、レオンコートはもう一度泣いた。
点滴が抜けて、お腹がすいていることを体が音で訴えて、それを女が聞いて、笑われながら飯に連れていかれて、それから────
「なー。なんで俺がお前の子供になんないといけないんだ」
レオンコートに向けて、女は上品な笑顔を浮かべて言った。
「私は昔から欲しかったんだよね。ガキが」
あっという間の話だった。
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