Scene.20 一つ屋根の下
鍋の中身が煮立つ頃、円さんは帰ってきた。長い黒髪は結ぶのが億劫なのかそのままだ。風呂上りらしく心なしか小綺麗になっている気がする。
「ただいま」
「おかえりなさい」
つい実家の癖で、帰ってきた人間に対して普通に「おかえり」を言ってしまう。何なんだ。この人はどんな感情でここに帰ってきているんだ。
割り切れない感情とともに市販のルーを鍋に割り入れていると、外套のままの円さんが寄ってきた。
「何作ってるの? 良い匂い」
「……シチューですね。カレーにしようかと思ったんですけど、米切らしてるので」
白いルーが、ひと混ぜするごとに角が取れて丸くなっていく。ブイヨンの良い香りを吸い込んで、円さんは感心するように言った。
「圭一くん、料理上手だよね。実家暮らしだったよね?」
「当番制で週に二、三度作ったりはしていたので。芦峯さんは……料理とかしなさそうですね」
「まあ、機会がないからね」
「できるのはできるんですか?」
「家庭科の授業以来かなあ。どうだろう」
「ジャガイモの芽取りとかできなさそう」
「芽取りって何?」
嘘だろ、と思わず顔を上げたが、とぼけているとかではなく純粋に知らなさそうだった。包丁を持たせてはいけないタイプの人だ。家庭的な面を期待していないにせよ、彼にできない事があるなんて意外だな。
「風呂入ってくるんで、適当に食べててください」
とろみのついた鍋の中身に見切りをつけて、コンロの火を消す。よそって食べるくらいは自分でできるだろう。さっさと踵を返し、僕は脱衣所の戸を閉めた。
風呂から上がってリビングに戻ると、円さんは炬燵に座ったまま壁に向かって何かを投げていた。
「何してるんですか」
「ん? 暇潰し」
壁際に落ちたそれを拾い上げ、彼は事もなげに言う。ボールペンサイズのそれは、よく見ると小さな破魔矢のようなものだった。久しぶりに見たな。矢尻に触れれば大抵の霊にダメージを与えることができる、魔除けの札とともに彼が除霊で使う飛び道具だ。
「それってダーツして遊んで大丈夫なやつなんですね」
「まあね。でもこれで分かるでしょ。君の目にも何も起こってないように見えるのなら、ここで俺が何をしようとこの部屋には「何もない」。まあ……何もないはずはないんだけど」
円さんは無傷の矢を差し出して見せる。確かに何かに触れた様子もなく、僕には何の変哲もない木工品にしか見えない。
しかし僕も悪夢を見るし、彼も記憶を奪われている。確実に何かは潜んでいるはずだ。ただ部屋を闇雲に攻撃したところで何か解消するということではないのだろう。そもそも夢以外で霊障を知覚できない僕が考えても仕方がないけれど。
僕は食事した様子のない空いた炬燵に目を遣った。
「……食べてて良かったのに」
「良いじゃない。一緒に食べようよ」
わざわざ僕が戻ってくるのを待っていたらしい。変な所だけ律儀だ。
シチューを二人分よそって座卓に並べ、僕らは何度目か机越しに正対した。
「いただきます」
手を合わせる僕に倣って、円さんも両手を合わせた。
お互いにひと口頬張る。ほくほくとしたジャガイモが、良い感じに白いルーに溶け込んでいる。うん、上手くできたみたいだ。
「誰かの手料理って良いよね。年を取るとそう思うよ」
「年寄りみたいなこと言いますね。まだ二十代ですよね?」
「二十八だね」
「そう思うのなら、ふらふらせずどこかに腰を落ち着けたらいいのに」
再三の提案に、彼はスプーンを皿に沈めて露骨に眉根を寄せる。
「ええ……嫌だよ面倒臭いし。そんなことしたら」
「また死んだときの心残りが、って言うんですか? 人間、生きてたらしがらみなんていくらでも生まれるものでしょう?」
口に運びかけたひと匙を皿に置いて、円さんは少し考えるように目を伏せた。
「でもほら、死んで地縛霊にでもなったら責任持てないじゃない。誰かに迷惑かけるのも違うし」
「逃げないでくださいよ」
「何から?」
「誰かの記憶に残ることから」
彼だって、嫌というほどしがらみに囚われて身動きが取れなくなった人間を見てきただろう。もちろんそんなものを見続けてきたから、自分もそうはなりたくないというのは分かる。でも円さんも人間である以上、「決してそうなってはいけない」と課すのはあまりに頑なじゃないのか。
彼は何か言いたそうにこちらを見ていたが、僕はそれ以上の会話を連ねる気にはならず、ただ黙って沈んだ具を口に運んだ。
空いた皿を片付けてしまうと、自然と寝支度をする流れになった。炬燵から布団を剥がし、円さんの寝床にする。
もはや手馴れた様子で羽毛布団を手繰り寄せる彼は、食事中とは打って変わってけろりとしていた。
「さあ寝ようか。忘れても恨みっこなしってことで」
「恨みは……するかもしれませんね。今からでもこの家から叩き出しましょうか?」
美澄さんとの不動産訪問に、円さんとこの部屋に関して話した件に、今日は本当に色々なことがあった。もう一度明日、今日あったことを説明するのは億劫すぎる。できれば今夜もここで寝ないでほしいのだが、ゆっくりと瞬きする彼は今にも寝そうだった。
「芦峯さん……忘れられると僕が困るんですが」
「……いっそ忘れたいのかもね」
「はい?」
僕の問いには答えずに、円さんは僕の胸に貼った一枚の札を指差した。
「大丈夫だって。ボイスメモもあるし、念のための札も貼ったし」
そういう彼も、同じように首元と腕に札を貼り付けている。この人の場合はその身体自体が霊障を寄せ付けない体質にあるのだから、いくら魔除け札を貼ったところで今更な感はあるが。まあ気休めなのだろう。
円さんは隠そうともせず欠伸をする。
「おやすみの時間だ。俺は今夜、極力君には何もしないで眠る。お互い頑張って眠ろうね、圭一くん」
そう言い、さっさと炬燵布団を被ってしまう彼をじとりと睨んだ。
どう頑張ろうと、僕は今から悪夢を見ることが確定している。魔除けの札は貼ってもらったものの、今回は円さんの助けも借りずに。全くもって気乗りはしなかった。
「……おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
明かりを消して戸を閉め切ると、数分と待たないうちに引き戸の向こうから健やかな寝息が聞こえ始めた。
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