〈第四話〉『哀愁の桜』

 はらはらと舞い落ちる花弁の中、愛は優雅な雨を降らすぬしを見上げていた。

 彼女が叔母と住んでいる自宅から、豊の事務所へと至る道中、坂道を下った所には、小さな公園があった。ベンチが二、三並ぶだけの、遊具など一つも備えていない広場だったが、その中心とも言うべき存在があった。齢いくつになろうかという、桜の古木だった。

 淡いピンク色の雨を優しくその身に受けながら、愛はゆっくりと深呼吸をし、寄り道を終えて、再び事務所へ向かって歩き出した。通い慣れたこの道も一年を経て、四季折々の装いを彼女に見せていたが、彩り豊かな春の景色は、また格別なものだった。公園で拾った桜の小枝を手土産に、どこか心浮き立つ様子で事務所へと向かう彼女の後ろ姿を、桜の雨が優しく送り出していった。


 * * *


 誰が何と言おうと、この街にも春が訪れていた。春眠暁を覚えぬ春が。

 近頃はそんな屁理屈をこねて、始終あくびばかり発している隼は、一昨日、事務所に急用で来られなくなった愛に替わって受付の番をしていたところ、鳴り響く電話の呼び出し音に全く気付かぬまま、机に伏して三時間も熟睡し続けていた。外出から戻った豊に、その様子を発見されたあと、大目玉を喰らったのは言うまでもない。

 通信制の高校に在籍し、普段は自宅で祖父母が見守る中、勉強をしているという彼だったが、普通の学校に通っていたら、授業中にも関わらず、教室で大きないびきを掻いていたことだろう。

「こんにちは」

 愛が事務所に到着すると、そんな隼と豊はおらず、鈴村が一人、受付の席に着いていた。

「こんにちは。所長と隼は現場に出ています」

「そうですか。では、受付を替わりますね」

 よろしくお願いします、と言って鈴村は席を立った。愛は、受付に着く前に手を洗おうとして、その手に持っていた物を思い出し、応接室のテーブルの上に、桜の小枝を置いた。

「公園の桜が、本当にきれいなんですよ。落ちていた枝を拾っちゃいました」

 明るい声音で話し掛けた愛とは対照的に、そうですか、と答えた鈴村の語気は冴えなかった。愛は、彼女の反応を意外に感じ、つい思ったままに質問をしてしまった。

「桜、あんまりお好きではないんですか?」

「いえ、そんなことは。……きれいですね」

 静かにそう答えた鈴村は、微笑みを浮かべてはいたものの、その表情は少し切なげで、どこか儚くもあり、愛は、何かまずいことを訊いてしまったかな、と申し訳なさを覚えた。

 しばらく桜を見つめていた鈴村は、戸棚から小さなガラスのコップを取り出し、水をくんで小枝を活けると、テーブルの中央に飾り直した。机の上に、小さな春が咲き誇った。

 鈴村は、そのまま黙って事務室へと引き揚げた。愛が受付の席に着き、宿題を広げていると、半時間ほどの後に、豊と隼が玄関から姿を現した。

「お帰りなさい」

「お。桜じゃん」

 隼が飾られていた小枝に目を留めて、なー花見でも行こうぜ、と豊に遊びの計画を振った。当然のように却下されたが、豊も、今がちょうど満開のようだね、と感想を口にした。

「愛、新規の依頼だ。四時半に先方を訪ねる。隼と替わってくれ」

「えぇー。受付だと眠くなるんだって」

 豊は文句を垂れる隼を無視して、あと十五分ほどで出発する、と愛に告げた。彼は隼と愛の二人を、なるべく均等に現場へ連れて行くようにしていた。

「場所はどこですか?」

「若松町にある個人宅だ。依頼主は七十代の夫婦」

 事務所から車で三、四十分の距離に位置する若松町は、この街に比べると、都心からはやや遠く、ゆったりとした一軒家の合間に、田畑が窺えるような郊外だった。

 鈴村が事務室から顔を出し、豊に事務的な用件の確認を取ると、お帰りまでに書類はまとめておきます、と告げて引き返していった。間の抜けたあくびをしながら、仕方ない、といった体で受付の席に着いた隼に、豊が厳重に釘を刺す。

「もし、また居眠りをするような事があれば、給料を下げるぞ」

 げ、と声を漏らして表情を歪めた隼は、ぶんぶんと頭を振るい、両手で頬を叩いて気合を入れる。その仕草がおかしくて、愛は笑いを堪えた。

 二人が外出の支度を済ませ、玄関扉を押し開けると、隼の眠気を誘うように、屋外から温かな空気がなだれ込んで来る。よく晴れた、穏やかな春の午後だった。


 * * *


「珍しいですね。若松町から個人の依頼なんて」

 豊が運転する車の中で、助手席に座った愛が、率直な感想を口にした。フロントガラス越しに眺める住宅地の、家々の軒先に並んだ植物の鉢は、みな色鮮やかに咲き誇り、小さくも懸命に個々の存在を主張しているかのようだった。

「今回は、直接依頼を受けてはいない。駆除業者による仲介だ」

 自治体や企業を除けば、離れた街の個人事務所に、一般家庭からわざわざ依頼を持ち込むことは考えにくい。このような場合は往々にして、地元の業者が手に負い切れなかった仕事を仲介して来る、というケースがほとんどなのだが、そういった案件は、年間を通じても、片手で数えるほどしかなかった。

 市街地を抜けると、豊はハンドルを切り、幹線道路に車を乗せた。二十分ほど走らせたのちに、再び一般道へと降りる。再開発を兼ねて一年前に誘致されたという、大型ショッピングモールの横を過ぎ、古いアスファルトの一車線をひた走ると、周囲にキャベツ畑が広がる中、目的地へと辿り着いた。依頼主の自宅は、築何十年になろうかという古民家だ。車を降りると、辺りの気温は、都会よりも涼しく感じられた。

 インターホンを押すと、玄関に現れたのは、小柄で腰の曲がった、人懐っこい印象を与える老婆だった。まあよくいらっしゃいました、と笑みを浮かべ、二人を屋内に招き入れる。

 座敷では、彼女の夫らしき老人が、座椅子の上で新聞を広げていた。豊と愛を座卓に着かせた老婆は、今お茶をお持ちしますね、と言って、よっこらしょ、と台所へ消えていった。

 愛は、老婆の後ろ姿を見送ると、どこからか流れてきた香りに、何気なく辺りを見回した。すると、視界に入ったのは、座敷の隅に据え付けられた仏壇だった。漂っていたのは線香の匂いだった。

 ふと目が留まった、仏壇の手前に置かれていた写真立てに、愛は心なしか違和感を覚えた。まだ真新しい写真に写っている人物が、幼い男の子の姿だったからだ。老人が、彼女の視線の先を見て、寂しげにぽつりと告げた。

「年の暮れに、孫を亡くしましてね」

 ぼーっと眺め続けていた愛は、老人が発した言葉を聞いて、はっと我に返ってから、ようやくその内容を理解すると、申し訳なさに駆られ、すみません、と慌てて小さな声で謝った。

 台所から戻った老婆が、二人に玄米茶を差し出すと、依頼の内容について、老人と共に語り出した。

 老夫婦の話すところによれば、この家では、昨年の夏から秋に掛けて、古くなった柱や梁が食い荒らされる被害が絶えなかったのだそうだ。何度か害獣の駆除業者を呼ぶも、一向に収まる気配を見せなかったのだが、季節が移り変わるにつれ、自然と事態は収束してしまったらしい。

「それでもねぇ、家の中に、何か棲み付いているとしたら、気味が悪いですからね」

 引き続き、業者に駆除を頼んだものの、最後に調査した業者には、今この家には、特に何も棲み付いておりません、と言われてしまったという。どうにも腑に落ちない夫婦は、一度、専門の方に調べてもらいたい、と考え、業者を通じてこの依頼を持ち込んだらしい。

 ところどころ繰り返しになる老人二人の話を、豊は根気強く聞き、最後には、分かりました、調査をしましょう、と請け負った。老夫婦は、よろしくお願いします、と言って、深々と頭を下げた。

 まずは、被害を受けた家の柱を見たい、と豊が申し出た。床下を覗くために、縁側へと案内されたところ、裏庭には、一本の見事な桜の木があった。

 今が盛りを迎えた古木は、これでもかというほどに沢山の花を咲かせ、時折、散った花弁が風に乗って、畳にまで届けられていた。橙色の蝶が、どこからともなく現れると、桜に引き寄せられるかのように宙を舞った。

「ここ数年、元気がなかったんですけどね、今年はご覧の通りですよ」

 老人は、桜の木を見ながら嬉しそうに語った。

 豊は縁側の下を覗き込み、愛が懐中電灯で照らす中、何枚も柱の写真を撮った。明るい場所でノートパソコンを開き、画像を確認してみると、柱には確かに、自然に朽ちたとは考えにくい腐食の跡が多数あった。続けて天井裏に上がり、梁を同様に検分していく。

 一通りの調査を終えると、家の各所にセンサーや罠を設置する作業に入った。小さな害獣を捕らえるための罠を設置しても、以前の経過を聞くに、効果は薄いように思われたが、念を入れるに越したことはない。明後日また様子を見に伺います、と告げて、豊と愛は老夫婦宅をあとにした。

 二人が車で事務所に戻れば、受付の隼が、眠り出すまであと五分、という顔で彼らを出迎えた。愛が、持ち帰った機材を応接室のテーブルに運ぶと、彼女が持ってきた小枝のグラスの下には、どこから出したのか、純白のレースのコースターが敷かれていた。

 隼の所業ではないと思いつつ、これ、鈴村さんが出したの? と愛が尋ねてみたところ、知らねぇ、多分そうじゃね、というアバウトな返事が、大きなあくびと共に発せられた。彼の居眠りがばれた瞬間だった。

 豊から隼への小言が聞こえる中、全員で機材の片付けを終え、愛は帰宅の途に着いた。坂のふもとにある公園に差し掛かると、一歩、その中に足を踏み入れる。夕暮れの空に、桜のシルエットが浮かび、足元には、白く花弁の吹き溜まりができていた。


 * * *


 翌日は、前日の暖かさから一転、薄ら寒く、しとしとと雨が降る気候になった。豊と隼は今日も現場に出向いている。受付の電話も鳴らず、面会の予定もなく、愛は宿題と予習を既に終えて、手持ちぶさたに外の景色を眺めていた。応接室の清掃も済ませてしまい、早急にやるべきことは何もなかった。

 と、大時計が四時を告げた。鈴村さんを誘ってお茶にしようかな、と思い立ち、戸棚からティーポットとカップを取り出す。豊が茶類に関しては凝り性なので、事務所には様々な茶葉や茶器が揃っている。二人分の湯を沸騰させ、温めたポットに注いでティーコージーを被せた。砂時計をひっくり返し、事務室の鈴村に声をかける。

「仕事の切りがよければ、休憩しませんか?」

「いいですね。ちょうど一段落ついたところです」

 応接室のテーブルに向かい合わせで座ると、愛は二人のカップにハーブティーを注いだ。湯気と共に、レモングラスの爽やかな香りが立ち上る。静かな室内に、水音が響き渡った。

 二人はカップを手に、愛の学校の話など、他愛もない雑談を交わしていたが、鈴村がふと、卓上にある、桜のグラスに目を止めた。レースのコースターを敷いたのは、他でもない彼女だった。

「……愛さんは、桜は好きですか?」

 鈴村が投げかけた、その唐突な問いに、愛は内心、少し戸惑ったのだが、結局は素直に、自分の思いを答えることにした。

「えぇ、はい。春らしくて、新学期だなぁって気分になります」

「そうですね。そう聞くと、私も懐かしく感じます」

 鈴村はそう言うと、少しだけ微笑んだ。愛は、彼女が昨日、桜に対して見せた反応を思い出し、何と言葉を掛けたらいいものやら、と悩んでいるうちに、鈴村が、自分から話を続けた。

「私はどうしても、父のことを思い出してしまって」

「お父さんの……?」

「はい。……もう数年前になりますが、入院していた父と、二人で見に行ったのが最後になりました。来年の花は見られないだろうなと、自分でそう言っていましたから」

 鈴村のプライベートな話を、本人から直接聞くのは初めてだった。もっとも、他人経由と言えど、母親を小さい時に亡くして、父親に男手一つで育てられたらしい、という旨を、隼から聞きかじっただけだ。愛は、自らこのような話をする鈴村を珍しく思いつつも、彼女が昨日、自分が持ってきた桜の花を見て、切なげな反応をした理由が解かり、独り得心した。

「元気に働き続けていたのに、突然、病気に掛かったんです。……まだ発見されたばかりの、新しい感染症でした」

「あの、新型ウイルスの」

 国内で、数年前に発見された新種のウイルスは、それまでに無かった新たな感染症を引き起こした。未だに、有効なワクチンと治療法は確立されておらず、現在も幼い子供を中心に猛威を振るい続けている。まだ感染源すら特定されていないものの、ヒトからヒトへと感染する性質はないが故に、全国的に爆発的な広がりを見せていないのだけが、唯一の救いだと言えた。

「そうです。私と父が住んでいた地域が、最初の集団感染域でした」

 鈴村の出身地は、隣の県にある、古い桜並木で有名な観光地の近くだった。集団感染が起こって以来、客足は落ち込んでいるとのことだったが、今の時期に訪れれば、道いっぱいに桜の絨毯が敷き詰められていることだろう。

「じゃあ、お父さんは、ご病気で……」

「いいえ。最期は事故でした」

 愛が、遠慮がちに搾り出した質問を遮って、鈴村は、きっぱりと言い切った。その声音に驚き、愛は眼を見開いた。

「人工呼吸用のチューブを、合成獣が噛み切ったんです」

「そんな……」

 思いもよらぬ事実に、愛は絶句した。完全に病院側の落ち度とは言えないが、全く責任がないとも言い切れない事故。愛は、自分が両親を亡くした事件を思い出し、暗然たる心持ちになる。鈴村は、どこか遠くを見やったまま、言葉を続けた。

「今では、誰も悪くないのだから、と思えるようになりましたが、当時は遣り切れませんでしたね。……その合成獣の始末に来たのが、所長でした」

 ああ、それで。彼女は、豊をあんなにも信頼しているのか、と、愛は感じ入った。

 当時まだ駈け出しだった豊は、それでも複雑な構造の病院内に潜んでいた合成獣を一人でおびき出し、見事な手際で対処してみせたという。愛は、所長の昔話に感嘆したきり、鈴村に掛ける言葉を見失っていると、彼女は悲しく微笑わらって、すみません、こんな話をしてしまって、と謝った。愛は、慌てて首を横に振る。

「永くないとは言われていましたが、せめて病気で逝ったなら、と、思う時もありますね」

 鈴村は、寂しげにそう語ると、もう一度、グラスの桜を見つめた。

 予想外に長引いた茶を終えて、愛がその片付けを始めたとき、豊と隼が事務所へと帰ってきた。隼一人が居るだけで、室内が一気にざわついた雰囲気になるのは否めないだろう。彼はティータイムの跡を目ざとく見つけ、あーずりぃ、俺たちが現場行ってる間に、と頬を膨らませた。愛はその仕草に笑い、今二人の分も用意するから、と言って支度を始めた。


 * * *


 午前の学校を終えてから、事務所に向かう道中、坂の上から例の公園が見え始め、愛はつい歩みを早めた。鈴村の思い出話を聞き、各々に異なる想いがあると分かっても、やはり、桜は彼女にとって、見ていると嬉しい気分になれる花だった。昨日の雨で、いくらか花が落ちてはいたものの、青空に薄紅の花弁が映えたその姿は、まさに春だ、と感じさせられる。

 事務所の扉を開くと、すぐに若松町に向かうからおいで、と豊が愛に告げた。車に乗り込むと、一昨日と同じ道のりを経て、依頼人宅へと向かう。

 今日は隼も一緒に来ており、愛が車中で、彼にこれまでの経緯を説明したところ、隼は、害獣のせいだとしても、家の中には棲んでないんじゃねぇの? と、適当極まりない憶測を述べた。愛は、周囲は畑だよ、と苦笑したのだが、他ならぬ豊が、いや、その線もあり得る、と否定しなかった。愛は、所長の見解を意外に思う。

 老夫婦宅に着くと、まずはセンサーのデータを確かめたのだが、ぼやけたような弱い反応しか検出しておらず、続けて罠をいくつか回収するも、やはり、というべきか、何の生物も掛かっていなかった。無駄な調査だった、と隼が愚痴をこぼしかけたところで、豊が、回収した罠の一つ、縁側の下に設置していたものに着目した。

 よくよく見れば、箱の外側に、花粉のような、橙色の細かい粒子が付着している。豊は、手袋をした指先で粉をすくい、暫くの間、じっと注視していたのだが、やがて二人に新たな指令を下した。

「隼、愛。罠を改良する」

「改良ったって、んな急ごしらえな。材料も無いのに」

「ここに来る途中、道の横に、大型のショッピングモールがあっただろう。ホームセンターで資材を調達してくる」

 自分が買い物に行くので、その間に残りの罠を全て回収しておいてくれ、とだけ言い残し、豊はさっさと車に乗り込んで、ショッピングモールへと向かってしまった。二人は、訳の分からぬまま彼を見送る。

 隼と愛が、分担して罠の回収を進めていると、蕎麦茶と茶菓子を携えた老婆がやって来て、差入れですよ、と二人に微笑んだ。隼は嬉々として、所長が居ないうちに食っちゃおうぜ、と言ってのけ、愛が止める間もなく、美味しそうに頬張り出していた。

 同い年の愛としては、彼の子供っぽい言動に恥ずかしさを覚えたのだが、縁側に並んで座った老夫婦が、そんな隼の様子を、微笑ましげに見守っている。

「元気なのはいいことですよ。孫もやんちゃでねぇ、昆虫が大好きでした」

 孫? と隼が問い返すのを聞いて、しまった、と愛は後悔した。依頼人の老夫婦が、幼い孫を亡くしていたことまでは、彼に話していなかったからだ。

「年の暮れにね、六つで亡くしたんですよ。……例の感染症でね。ここいらでは、去年の春に流行りはじめました。どうやら、今年も酷いようです」

 老婆はしんみりと語った。隼は気の毒そうな顔をして、そっか、と呟いたきり、表情を暗くして黙り込んだのだが、愛は、無意識のうちに、鈴村の話を思い出していた。彼女の父親が罹ったのと同じ、新型の感染症。ウイルスを媒介しているのは、一体何なのだろうか?

 そうしているうちに豊が戻り、隼と愛は、彼がホームセンターで仕入れて来た資材を手渡された。彼が買って来たのは、シート状の薄い粘着剤だった。

 用意が整うと、三人で罠を改良する作業となる。中に取り付けていた害獣の誘引剤を、車に常備している別種の物と交換し、更に、内側の底面には、ハサミで切り分けた粘着剤を貼っていった。

 全ての罠に工作を施し終え、再び家の各所に設置するのかと思いきや、今回は裏庭の周辺、縁側の下を中心とした、狭い範囲に取り付けるよう、豊から指示がなされる。罠の一つに紐を付けて、桜の木に吊り下げる彼の姿を、隼と愛は不思議そうな顔で見守った。

 また明後日に伺います、と豊が告げて、三人は老夫婦の家を辞した。夕刻になって事務所に戻り、外出の片付けを終えると、鈴村が、前日に隼が書いた報告書について、彼を事務室に呼び出したので、応接室には、豊と愛の二人が残された。

 愛が、鈴村に替わって受付に着こうとしたとき、テーブルの前に立っていた豊が、桜の小枝が活けられたグラスを取り上げ、彼女に声を掛けた。

「愛が持ってきたんだね。……桜が好きかい?」

 鈴村さんにも昨日、同じ質問をされました、と愛が苦笑すると、そうか、と言って豊は軽く笑い、グラスをコースターの上に戻した。

「……鈴村さんの、お父さんの話を聞きました。事件のことも」

「そうか。……鈴村はあのあと、うちの所員になった」

 ああ、なるほど、と愛は納得し、それから豊に問い返した。

「豊さんは、桜は好きですか?」

「そうだね。好きというか、思い出はある」

 昨日の鈴村に続き、豊がそう言い出した。事務所の大人二人が、自身の思い出話をするというのは、非常に珍しいことだった。

「学生時代の思い出とかですか?」

「まさか。研究所に出入りして、博士の手伝いをしていた頃だよ。……俺や新田も育った保育施設に、まだ小さな女の子がいた。名を、さくら、と言った」

 そう話しながら、豊はテーブルの前にあるソファに腰を下ろした。彼は、再びグラスを取り上げると、手の中でゆっくりと遊ばせる。

「身内が母親一人だったのを亡くして、うちの施設に来たんだが。とにかく花が大好きで、毎年春になると、いつも楽しそうだった。自分と同じ名前の『桜』は、一番のお気に入りでね。よく木の下を走り回っていたよ」

 豊の視線は、手の中にある桜の小枝に向けられていたが、それよりも遠いどこかに、幼い女の子の笑顔を思い浮かべているようにも見えた。傍らに立っている愛には、身体だけをここに預けたまま、心は思い出の中にいる、そんな風にも感じられた。

 そこまで語り終えると、豊は口を噤み、それ以上、自分から話を続けようとはしなかった。静かに聴き入っていた愛も、立ち尽くしたまま、言葉を発しがたい雰囲気の中で押し黙っていた。

 と、豊がグラスを置き、無言のままソファに寝そべった。愛は、先ほどから気になっていたことを、遠慮がちに彼に尋ねてみる。

「その子は、いま……」

「研究所の爆発事故で死んだよ」

 あっさりと答えた豊の声は冷ややかで、何者をも寄せ付けぬような響きがあった。

「……あの事故で生き残った子供たちは、ほとんど居なかった。俺と、新田は出かけていたんだ」

 そう呟いて、豊は目を閉じた。居たたまれない心持ちになった愛は、自身の足元へと視線を落とす。

「俺と、新田にとっては、妹みたいなものだった。……少し、愛に似てたかな」

 暫しの沈黙が続いてから、豊は立ち上がり、すまないね、こんな話をして、と、愛に謝罪の声を掛けた。いいえ、と首を振る彼女の頭に、一度、手を置いてから、彼は所長室へと引き揚げて行った。テーブルの上に残された、グラスの中の花が、愛には、先ほどよりも寂しげに見えた。

 桜というのは、やはり、人それぞれに異なる想いを残す花らしい。


 * * *


 休暇の日曜日を挟んで、月曜日の午後に愛が事務所を訪れると、豊と鈴村が、若松町へと向かう用意を済ませたところだった。同行するように告げられた愛が、自身の荷物をまとめ直していると、受付に座っていた隼が、不思議そうに話し掛けてきた。

「依頼人宅の前に、若松町の保健センターに寄るんだってさ」

「保健センターに? どうして?」

「さあ、分かんね。あの家の孫が、例の感染症で死んだ、って話をしてただけだぜ」

 恐らく、その感染症の件で用事があるのだろうと予測はできたが、それが、今回の依頼を解決するにあたって、どう関係してくるのかまでは、愛にはまるで想像もつかなかった。

 隼を受付に残し、鈴村を含めた三人で若松町へと向かう。途中、保健センターに立ち寄ると、豊は窓口で何やら資料を頼んだ。職員が用意するのを待ち、受け取ってから、内容をざっと確認すると、礼を述べて車へと戻ってきた。

 依頼人宅に着くと、豊は真っ先に、桜の木に吊り下げた罠の箱を手に取った。その中の様子を見て、顔をしかめると、周辺に取り付けた他の罠も、全て確かめていく。どの箱も、中身は同様だった。豊は、溜め息をつくと、鈴村に老夫婦を呼ぶように頼んだ。

 依頼人の夫婦も含めて、縁側のある和室に五人が集まると、豊は畳に座す一同の前で、罠の箱の一つを開けた。中に取り付けた、誘引剤の臭いが周囲に広がる。そして、粘着剤には、大きな橙色の羽を持つ虫が、無数に貼り付いていた。普段、愛たちが生活している、都会の街中では、見たことのない種類だった。

「蝶、ですか?」

「そう見えるだろうが、合成獣だ。肢の付け根が青いだろう」

 豊はそう言うと、罠に掛かったうちの一匹をつまみ、手袋をした指先で羽をこすった。手袋の白い布の上に、橙色の粒子が広がる。一昨日、縁側の罠に付着していた鱗粉だった。

「成虫はこの通り、蝶に似て花の蜜を吸うが、幼虫の姿は蟻に近く、腐食した木材を主食とするため、人家の柱や梁を喰い荒らす性質がある。人目を避けて軒下には棲み付かず、土の中に巣穴を作るんだ」

「では、今回の犯人はこの合成獣……?」

「そうだ。そして恐らく、新型のウイルスを媒介しているのも」

 突然の話の飛躍に、愛は面くらい、依頼人の夫婦は驚きの声を上げた。傍らの鈴村は、さっと表情を険しくした。

「先ほど、若松町の保健センターで、例のウイルスによる感染症の発症数を調べてきた。これがそのデータだ」

 豊は自分の鞄から、保健センターで受け取った資料を取り出した。その紙には、ここ三年間ほどの、若松町内における、新型感染症の発症数の推移が、数値とグラフで示されていた。

「一昨年よりも前は、ほとんど発症例がない。昨年の春に、集団の感染者が出て以来、爆発的に流行したようだ。それが、秋になると落ち着きを見せ、今年の春に入って、また発症数が増えている」

「ということは……」

「チョウモドキの生態は、一般の蝶に酷似している。春の末に卵から孵化し、秋までを幼虫の姿で過ごした後、蛹となって冬を越す。ウイルスを主に媒介するのは、春に飛び回る成虫だ。成長時期と、発症件数の増減がちょうど噛み合うんだ」

 ああ、と老婆が悲愴な声を上げた。昆虫が大好きだった孫。流行時期の感染は免れていても、虫を捕まえては触っているうちに、体内に保有されていたウイルスに感染しても不思議ではない。

「昨年になって、突然、感染者が現れたのは……」

「一年前に、この地域の大規模な再開発があった。恐らくはその時に、ウイルスを伴って外部から持ち運ばれたのだろう」

 老婆は畳に泣き崩れ、その背をさする老人も、悔しげに顔を歪ませていた。まだ幼かった、大切な孫を亡くした二人の心中を思うと、愛には掛ける言葉がなかった。

 だが、今この場において、他の誰よりも痛ましい表情をしているのは、老夫婦ではなく、鈴村だった。

「……父を、病気にしたのも。合成獣だったんですね」

 ほとんど囁くかのような、その呟きには、無力感と、誰に向けられたものでもない、哀しい怒りがあった。せめて病気で逝ったなら、と語っていた、彼女の言葉を愛は思い出す。父親が死んだ事故だけではなく、病に倒れた、その原因もまた、合成獣だったのだ。

 すっ、と畳から立ち上がった鈴村は、そのまま、音もなく縁側を下りた。裏庭のただ中に立ち尽くし、無言で空を仰ぐ彼女の頭上に、風に乗った薄紅の花弁が降りしきる。眼前にあるのは、青空に向かって高々と咲き誇る、満開の桜だった。

 鈴村は、ゆっくりと桜の木に腕を伸ばし、痛みに触れるように、その肌に優しく手を置いた。大好きだった父親が、もう一度見たがっていた花。木に沿えた手の甲に、自身の額を預けると、やがて、微かな嗚咽が漏れ出した。沈黙する庭に、風の音だけが響いている。

 愛は、鈴村が泣くところを目にするとは思わず、ただ遠くから、彼女の背を見つめるばかりだった。

 愛の隣に豊が立ち、遠目に鈴村を見つめたまま、ウイルスの媒介の件は、新田に協力を頼む、と静かに告げた。はい、と愛が返事をしたきり、そのまま二人は押し黙った。地域一帯に棲み付いた、病原菌を保持する害虫を駆除するとなれば、話は個人事務所の域では済まない。まずは合成獣と感染症の関係性を立証してから、行政の助けを借りる必要があった。

 罠の中から、新田の大学に送るサンプルとなる個体を、十分な数だけ確保すると、残りは全て殺処分した。回収した罠の箱は、何層にも重ねた袋に詰めてから、車に積み込んだ。まだ使えそうな物も、次回までに消毒しなくてはならないだろう。豊は携帯電話で新田に連絡を取り、サンプルを分析する段取りを決める。

 事務所に戻る用意を済ませ、愛たちが車に乗り込もうとすると、依頼人夫婦が見送りに現れた。ありがとうございました、と言い、深々と頭を下げる。

「お陰さまで、孫が死んだ理由まで分かりました」

「いいえ。今回は、何も解決できた訳じゃないので……」

「それでもね。心持ちが違いますよ。……まだ生きていたら、今頃は入学式でした」

 裏庭で散った桜の花びらが、屋根を通り越して、一つ二つと彼らの元に舞い落ちる。老夫婦に挨拶をし、三人は若松町を後にした。どこまでも続くような青空に、橙色の蝶が一匹、キャベツ畑の上を横切って行った。

 助手席の鈴村は、いつもの冷静さを取り戻し、一見、普段と変わらぬ様子で落ち着き払ってはいたが、それでも愛の目から見て、元気がないようには感じられた。一年来の付き合いになり、愛にも少しずつ分かるようになってきた、儚い彼女の素顔の断片だった。

 車はショッピングモールの横を通り、幹線道路をひた走る。事務所に帰り着くと、今日こそはまともに起きていた隼が、三人を出迎えた。お帰り、という彼の言葉に、ただいま、と愛は返事をする。テーブルの桜の小枝は、いくつかの花弁を机の上に落としていた。


 * * *


 新型感染症のウイルスを媒介している生物が明らかになりました、と、中年の男性アナウンサーが記事を読み上げる。最後に若松町を訪れてから十日が経ち、テレビでは、全国版ニュースのヘッドラインとして、件の合成獣が取り上げられていた。コーヒーを片手に、応接室のソファに腰掛けた新田が、画面に向かって投げやりに顎をしゃくる。

「俺らの手柄ってぐらい、言ってくれてもいいんじゃないかね」

 新田の戯言に、愛は笑い声を返しただけだった。彼の言葉が、一分いちぶも本気でないのを知っていたからだ。豊も新田も、功績で自身の名を上げるということに、まるで執着がなかった。彼らが求めるのは事務所の実績だけで、個人として有名になることではない。仮に、そんな内容が大々的に流れでもしたら、逆に苦い顔をしていただろう。

「すみません。遅くなりました」

 近県の親戚に用事があったという鈴村が、夕方になって事務所に現れた。連絡をくれれば休みでもよかったが、と言う豊に、いえ、と答えた鈴村は、事務室に向かおうとして、ふと思い出したように、応接室のテーブルを振り返ると、手にしていた物を机の上に置いた。

「あ。桜」

 まだ、きれいな花のついた、桜の小枝だった。先日、愛が持ってきた物は、とうにしおれてしまい、この地域では、先週の暴風で、枝に残っていた花は、軒並み散ってしまっていた。

「出先に一本、花の遅い木がありました。枝ごと落ちたようですね」

 愛が、先日と同じガラスのコップを取り出し、テーブルの中央に花を活ける。グラスを置いた周囲が、心なしか明るくなったように感じられた。すぐに散る儚さも持ち合わせているとは言え、桜というのはどうして、これほどにも春らしさを感じさせる花なのだろう。

 今年は花見へ行けなかった、と不満を垂れる隼を、いいだろ、今ここにあるんだから、と新田が窘める。今から花見酒でもしようぜ、という彼の提案に、隼は嬉しそうにはしゃぎ、豊は顔をしかめた。

「二人は未成年だ」

「なら、お二人にはジュースをお出ししますよ」

 鈴村が、微笑んでグラスの準備を始める。豊は、仕方ないか、といった様子で愛の方を向き、玄関の表示を受付終了にしてくれ、と告げた。

 冷蔵庫からワインを取り出した豊に、日本酒はねぇのかよ、と新田がぼやく。豊は、欲しいなら自分で買いに行ってくれ、と返事を投げた。渋い顔をした新田は、ビールだけ買ってくる、と言って、足早に玄関から出ていった。きっと、つまみやら菓子やら、隼と愛用のジュースなど、他にも色々と買い込んでくるのだろう。宴会の始まる予感だ。

 机の上の桜が、賑やかな彼らの様子を見守っている。愛は、若松町で見た桜を思い出し、老夫婦に思いを馳せた。そして、鈴村の涙。豊の思い出。彼女の中で、桜に対する思いが、わずかに変わりつつあった。それは恐らく、事務所の皆がそうであるように。

 今年の桜は、彼らの心に、ひとひらの思いを残していったようだった。

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