〈第五話〉『〔S〕ランクの力』

 豊さん、と愛は心の中で叫んでいた。走馬燈にも似た一瞬の思考は打ち切られ、激しい痛みが彼女の背面を一気に襲った。吹き飛ばされて背中から壁に打ち付けられ、くず折れてこうべを垂れた彼女の視界の右端に、鈴村が弾き飛ばされる姿がかすかに見えた。左側では、額を切られた新田が、ようやく起き上がりながら舌打ちをする音が聞こえた。今立ち向かったら危ない、愛がそう思う前に新田は駈け出し、再び攻撃を受けてその場に倒れこんだ。

 絶対的不利な状況において、こんな時はいつもどうしていただろう、と、愛は立ち上がれぬまま考える。そうだ、ランク持ちの合成獣に相対する時はいつも、豊が先陣を切っていた。そして、横から隼が補佐していたのだ。一年前の金子邸の時も、高校での事件の時も、思い起こせばそうだった。主に遠隔からサポートしていた鈴村と、現場に出ることの少ない新田、そして戦闘においてはまるで役に立たない自分とでは、いざという場面での経験値が違いすぎる。圧倒的な実力差を持つ相手を前に、愛たちはなすすべも無かった。

 だが、頼るべき二人は今、ここにはいない。

 彼らの絶望も近い戦況の中で、愛の正面に立つ『聖』がそっと、口元に笑みを浮かべた。


 * * *


 そもそもの始まりは三週間前のことだった。豊はここ二ヶ月ほどの間、合成獣対策会議や学会といった出張が続き、事務所を留守にしがちだった。事務所は鈴村が中心となって切り盛りし、簡単な仕事は豊抜きでこなしていたが、やはりかなめとなる所長が不在では請け負えない依頼も多く、受付の愛は、新規の予約が入るたびに、スケジュールの調整に苦心していた。

 うだるような暑さのその日、調査に数日かかった案件を終えて、豊と愛、隼の三人は、車で事務所に戻るところだった。やってらんねぇよ、あの爺さん、と車中で隼がぼやき、口の悪さは置いておくにしろ、愛も内心では同意する思いだった。依頼人の男性は非常に気難しく、調査の仕方にいちいち文句をつけてなじっては、監視するように彼らの行動を注視し、まだ解決しないのかね、と同じ言葉ばかりを繰り返していた。やーっと解放されたぜ、と言って伸びをする隼は、仕事そのものよりも気疲れで疲労困憊といった様子で、暑さで参った愛も、少なからず疲れを覚えていたが、豊だけが普段通りの涼しい顔をしていた。

 事務所に戻ると、隼は冷房のきいた応接室に入るなり、あー生き返る、と言って、行儀悪くソファに寝転んだ。三人を出迎えた鈴村が、お疲れ様です、と冷茶の用意をする。そして、車から機材を運んできた豊に、鈴村が声をかけたのが発端だった。

「警察から連絡がありました。〔S〕ランク合成獣の件だと」

 愛には、一瞬、場の空気が凍ったように感じられた。それまで変わらなかった豊の表情が、さっと険しくなる。

「所長室で聞く。隼、愛、後は頼んだ」

 豊はそれだけ言うと、鈴村の淹れた冷茶に手もつけず、機材の後始末も放ったまま、鈴村を連れて所長室へと向かってしまった。応接室に取り残された隼と愛は、互いの顔を見合わせる。

 机の上に置かれたままの機材を二人で片付けてから、愛は受付に着き、隼は今日の分の報告書を書き始めたが、共通の疑問があるときに、沈黙というのは長くは続かないもので、どちらから言い出すでもなく、先ほどの豊の様子について話が始まった。この事務所に勤めて三年近くになる隼も、豊があのような態度を取る姿を見たことはほとんど無いそうで、まだ一年半ほどの愛は、もってのほかだった。

「所長は〔S〕ランクのことになると、対応が変わるんだよな」

 愛は〔S〕ランクの合成獣については、ほとんど無知だったため、隼はどれくらい知ってる? と同い年の同僚に問うてみるも、俺も分かるのは基礎知識くらいだしな、との返事だった。

「〔S〕ランクつったら、まずは『聖』だろ。あとは『にしき』とか『みどり』、『RM』なんかもいるけど」

 隼はそう言って指折り数えると、手付かずで置かれていた、豊の分の冷茶を一気に飲み干した。

「この十数年で捕まった奴は一体もいない。まず表に出てこねぇし、どいつにもメタモルフォーゼ能力があるらしい。個体差はあるって話だけどな。どれも見た目すら分かってねぇんだ」

 研究所に蓄えられていたデータは、爆発事故の際に大半が失われてしまい、一般人が知ることのできる情報は、隼が今述べた分が、ほぼ全てと言っていいらしかった。もっとも、警察は更にどれだけのデータを持っているか分からない、と隼は言う。

「研究所は国の機関だったからな。今だって、対策本部と警察が、上位ランクの合成獣を始末するのに必死だろ? 俺らよりも詳しい情報を持ってる可能性はあるよな」

「でも、この事務所だって合成獣を専門にしてるし……」

「だから、ああやって警察から話が来るんだろ。手に負えないから手伝ってくれ、ってさ」

 なるほど、と愛は納得する。隼は口が悪く、だらしない面はあっても、こういった洞察力には目をみはるものがあった。

「……豊さんは、〔S〕ランクの合成獣を追ってるらしいって、最初に聞いたけど」

 ああ、と言って椅子に座った隼は、まぁ俺の勘だけど、と付け加えた。こう見えて隼の勘は割合当たるので、そう馬鹿にできたものではない。豊は、研究所付属の施設出身であり、世話になっていた博士の跡を追うような仕事をしていても、何ら不思議はなかった。

「〔S〕ランクの中でも、多分『聖』だな。こいつが一番やばいらしいけど」

「なんで『聖』だって分かるの?」

 愛の疑問に対する隼の答えは、それも俺の勘、という根拠に乏しいものだったが、その後に続けられた言葉は、彼女を驚かすのに充分だった。

「研究所の爆発事故を起こしたのは、『聖』だって噂もあるんだよな」


 * * *


 それからの豊は、輪をかけて忙しそうになった。出張の合間を縫って警察と連絡を取り、いつもパソコンか書類を広げてデータと向き合っていた。自身も多忙な新田が、事務所にちょくちょく顔を出すようになり、所長室で何やら豊と話し込んでいた。そちらの件は、愛と隼だけでなく、鈴村も手伝えない領分のようで、三人は所長抜きで、普通の依頼をこなすのに必死になった。

 出張と依頼が立て込んだ週末の夜、学生二人を先に帰して残業をしていた鈴村も帰宅し、豊はひとり、所長室でようやく息をついていた。必要なこととはいえ、こう出張が続いては、なかなか事務所で落ち着く暇もない。最近は警察との遣り取りもあり、依頼の方は所員に任せきりになっていた。マグカップに濃い目のダージリンを注ぎ、椅子に深く腰かけて、今日までにまとめられた依頼の報告書をめくる。

 達筆な鈴村の報告書に続き、隼の汚い字で書かれた一枚を、苦笑しながら読み終えた。ふと視線を上げた所で、部屋の壁際に置かれた棚の上にある、焦げ茶色の四角い物体が目に留まる。不意に目に入ったそれを、暫く眺めたあと、豊は椅子から立ち上がり、ゆっくりと棚に近付いて手に取った。

 小振りの写真立てに収まっている人物は三人、そのうち、手前にいる二人の少年は、豊と新田だった。撮られたのは確か、施設で月に一度あった、誕生日パーティーの折だったか。写真にはもう一人、背後から二人の肩を抱き、保護者然とした白衣の男性が写っていた。縁の厚い眼鏡にぼさぼさの頭髪、という風貌は、数十年後の新田を思わせる雰囲気もあったが、性格はまるで異なるようで、主賓の新田が仏頂面なのに対して、博士は穏やかな笑顔でこちらを見ている。大勢の部下に信頼を寄せられ、子供たちからも慕われていた人柄が窺えるようだった。

 豊は長い時間、立ったままその写真を見つめていたが、元の場所には戻さずに、手に持ったまま椅子へと戻ってきた。机の上にそれを立てて座り直すと、写真立てを見つめたまま、カップを手に取り、冷めた紅茶を口に含む。

 写真は、撮られてから経た年月にふさわしく色褪せていた。こうして手に取ったのなど、一体いつ振りになるだろうか。写真立てはすっかり所長室の風景に溶け込み、普段は意識することすら無かったが、あの事故を忘れたことなど、片時もありはしなかった。

(もう、十三年も経つのか)

 自分を、我が子のように育ててくれた博士。施設と研究所で過ごした日々。血の繋がりなどよりも、もっと強い絆。

(……博士。僕は)

 豊は静かにカップを置くと、椅子に背を預けて腕を組み、そっと目を閉じた。

 爆音とともに吹き飛んだ研究所。敷地内は一瞬にして廃墟と化し、研究員と子供たちは悲鳴を上げる間すらなく犠牲になった。外部から人々が駆け付けたとき、生き残った合成獣たちは既に逃げ出しており、後に残っていたのは、粉々に崩れ落ちた建物、飛び散った飼育槽のガラス片、合間から流れ出る血に染まった瓦礫の山々だった。

 あの惨状を忘れることなど、決してできはしない。


 * * *


 結局、〔S〕ランク合成獣の件について、豊から皆に説明があったのは、それから十日ほど後のことだった。応接室で、新田も含めた所員全てを前に、皆も名前くらいは知っていると思うが、と言って、豊は話を切り出した。

「〔S〕ランク合成獣である『聖』の活動が活発化しているらしい」

 さらりと放たれた豊の一言に、隼は記述不可能な声を上げ、愛は驚きで目を見開いた。鈴村と新田はほとんど表情を変えなかったが、緊張を強めた様子は愛にも伝わってきた。豊は、警察から提供されたというデータを前に、彼らに簡単な講義を始めた。

「『聖』は、数年周期で活動を活発化させるようだ。前回、その兆候があったのは五年前、その前は九年前になる」

「所長。『聖』って、見た目も不明なんすよね? どうして奴が活動してる、って分かるんすか」

 隼が当然の疑問を口にすると、確かに、と言って、豊はプロジェクターの画面を切り替えた。

「ここ二カ月ほどの間、全国で廃屋や手付かずの土地が荒らされる事件が多発している。各事件に共通するのが、物証が何も残されていないことと、現場で特定の化学成分の濃度が上昇していたことだ」

 一見、関連性のなさそうな話題に、隼は面食らっていたが、豊はそちらを気にせず説明を続けた。

「同様の事例は、五年前と九年前にも共通して発生している。『聖』に関するデータはほとんど残っていないが、体内に蓄えたエネルギーを、定期的に解放する必要があるらしい事だけは分かっている。例の化学成分は、合成獣の人工細胞に大量に含まれている。『聖』がエネルギーを解放した際に、その成分が同時に放出されるようだ。一連の事件は恐らく『聖』によるものだ」

 豊は淡々と説明を続けたが、それを聞く愛は心穏やかではいられなかった。何せ〔S〕ランクの合成獣だ。知力、身体、技能、どの点においても、今までに対処した個体とは、桁外れの能力を持っているはずだった。その合成獣が、野放しで活動しているという事実に、愛は改めて恐怖を覚えた。

「んで、警察は何て」

「これまで事件が起こった地点は、同心円状に分布しており、段々と中心点に近づいてきている。そこで『聖』を捕えてほしい、とのことだった」

 無茶苦茶だぜ、と言って、隼は天井を仰いだ。確かに、中心点で張ったからといって、そこに『聖』が現れるという保証は全くない。無意味な作戦にも思えたが、他ならぬ豊が、依頼は請ける、と告げた。

「不毛な結果に終わるのは目に見えているが、うちの事務所を頼って来た以上、断る訳にもいかない」

 今後の関係にも影響するからね、と言って、豊は椅子を引いた。その辺りの事情は、愛にはよく分からなかったが、確かに、上位の合成獣に関する情報を、警察から常に得ようとするならば、なるべく、密な連携を保っておくに越したことはなかった。断った結果、他の事務所に頼られては、例え今回の計画における成果は同じでも、こちらとしては、今後の情報戦略において不利になるからだ。

「一週間後を目途に出発しよう。留守は隼に頼む」

「えぇ、俺?」

 心底意外だといった声が当の本人から上がったが、愛も内心では驚いていた。所長を筆頭に事務所のほぼ全員が出払ってしまえば、留守を任された所で、独りでも行える業務は、その旨の応対と事務作業の類に過ぎない。それならば、留守役として事務所に残るのは、現場では一番役に立たないであろう、自分だと思っていたからだ。

「万が一、『聖』に対応する可能性を考えれば、鈴村にはサポートに来てもらいたい。事務所の留守を全て任せるならば、愛よりは年季の長い隼に頼もうと思っただけだ」

 豊は、そう言いながらプロジェクターを片付け、具体的な日程は鈴村に頼む、と言って、所長室へと引き揚げてしまった。鈴村は、さっそく、予定を組むために事務室に入り、応接室には、隼と愛、新田の三人が残された。

「新田さんは、どうするんですか?」

『聖』を追う現場に来られるのか、という意味の愛の質問に対し、ソファに落ち着いていた新田は、さてね、と答えて伸びをした。

「教授に掛け合ってみる。三日位なら行けなくもない」

 それから新田は、今から大学に回る、と告げて、事務所から出て行った。隼は、やべぇ、今日中に資料まとめないと所長に怒られる、と思い出したように言い、慌てて事務室へと駈け込んだ。

 応接室には誰も居なくなり、受付の席に着いた愛は、一週間後の計画について思い悩んだ。その姿さえ知られていない、〔S〕ランクの合成獣、『聖』。もしも、そんな相手に立ち向かう状況になったとして、自分などに何かできることがあるのだろうか?


 * * *


 時刻は深夜、人気のない所長室に、カタカタとパソコンを操作する音だけが響き渡っていた。豊は、モニターを前に一人、黙々と作業を続けている。時折表示されるメッセージの内容を確認しつつ、続けて指示を打ち込んでいき、ネットワークの反応を待った。

 望み通りの結果が画面上に得られた所で、ノックもなしに所長室のドアが開いた。この時間まで事務所に残っている人物は、自分以外に一人しか居なかったので、豊はあえてそちらを振り向くことも無かった。コーヒーを片手に、眠そうな姿を現したのは新田だった。

「警察にハッキングか。お前もよくやるな」

 口にした内容の重大さとは裏腹に、いつも通りの淡々とした口調だった。対する豊も、必要だからね、とだけ返事をし、話しかけた新田の方を見すらしない。

 新田は、断りもなく戸棚を開け、勝手に豊の分の紅茶を用意し始めた。茶が入ると、豊は、ありがとう、と言ってカップを受け取り、モニターに目を向けたまま、一口飲む。淹れ方も、大ざっぱな新田らしく、味としては及第点ぎりぎりといったところだったが、張り詰めた作業の合間に差し入れられる茶というのは有難いものだった。

 警察の情報中枢部にアクセスし、豊は目的のデータを探し始める。怪しまれないように接続しているとはいえ、作業は短い時間で行うに越したことはない。膨大なデータベース上で、必要なファイルを見つけるのにどのくらいの時間を要するか、こればかりは実際に侵入してみなければ分からなかった。検索にかかる待ち時間、一分一秒が普段よりも長く感じられる。

 豊はついに目的のフォルダを見つけ出し、中に含まれるデータを確認した。彼が探していたのは、勿論、と言うべきか、合成獣に関する機密情報、とりわけ『聖』に関する部分である。自身の接続が検出されていないことを確かめ、豊はファイルをパソコンにダウンロードし始めた。

「しかし、警察ってのはそんなに秘密主義なのか」

 こちらに連携の依頼をしてくる以上、警察は必要な情報を提示してきてはいるのだが、彼らが我々に手持ちの札を全て見せているとは限らない、と豊は新田に語っていた。かと言って、警察のコンピューターにハックしてまでデータを入手することは、新田には考えられなかったが、豊は造作もなくその違法な行為をやってのけた。

「他でもない、『聖』に関する情報だ。……彼らが得ているデータと、こちらとの間に差があっては困る」

 豊はそれだけ口にすると、引き続き作業に没頭し始めた。新田は彼の様子を暫く見守ると、そっと背を向けて所長室を後にした。〔S〕ランクの合成獣、『聖』。それがいかに特異で強大な存在かは、誰でもない新田自身がよく知っていた。あの日、研究所で飼育槽のガラスの先に見たものを、新田は、そして豊は、恐らく一生忘れることはないだろう。

 新田は所長室の戸を閉め、静かに息を吐いた。遠い日の想いを振り払うように頭を振ると、明かりの消えた廊下に向かって歩き出し、後ろ姿が闇の中に溶けていった。


 * * *


 そして、とうとう出発の日がやってきた。朝早くから事務所に集合し、車に乗り込んで高速道路を走る。目的地はとある県の、中心部から遠く離れた、山がちの小さな町だった。愛は、数日前からどことなく落ち着かず、前日は満足に眠ることができなかった。実際、今回の出動中に『聖』と遭遇する可能性は限りなく低いだろう、と自分に言い聞かせつつも、もしかしたら、という、相反する思いが彼女の中で膨らみ、食事も十分には喉を通らなかった。

 高速道を降りて、一般道に入る。車を進めていくにつれ、道路の道幅は段々と狭くなり、周囲の景色には緑が多くなった。現場に着いたのは夕刻、舗装もされていないあぜ道の先に、三、四階建ての崩れかけた建物が見え、その前で車を止めた。ここは同心円の中心にほど近い町の外れで、建物は、廃墟というに相応しく朽ち果てていた。この地点で数日間の張り込みを行うという、控えめに見ても無駄に近い行為だったが、仕事である以上は仕方がない。一行は、懐中電灯を持って廃屋に入る。

 外壁には隙間もなく蔦が這って日光を遮り、電気も通らない屋内は、日暮れ前でも夜中のように暗かった。むき出しのコンクリート壁は所々えぐれ、そこから覗く鉄筋は、赤茶く錆びていた。床の上には、用途の不明な鉄骨やブロックがそこかしこに置かれていたが、いずれも既に使い物にはならなそうだった。愛たちは、足元に気を付けて内部を歩き回り、まずは建物の構造を把握した。

 幸い風雨はしのげそうだったので、一階の外部に近い一室を拠点に定め、車から電源を引いて、最低限の機材を設置した。今回は、建物から電気が取れないので、用いる機材は、ごく僅かな量に限られる。床を簡単に清掃し、寝袋と食糧を持ち込んで、泊まり込む用意も済ませた。現場の酷ささえ気にしなければ、こうしてキャンプを行うなど、なかなか無い経験だった。愛はレトルトの食材を温めて夕食を用意し、皆で簡単な食事を終えると、就寝の準備を始めた。

 豊の姿が見えなくなったので、どこに行ったものか、と愛が見回していると、屋上に行ったようです、と鈴村が教えてくれた。蜘蛛の巣の張った階段を最上階まで登ると、鬱屈とした屋内から視界が急に開け、紺碧のドームには一面の星が広がっていた。思わず美しさに見惚れて足を止めていると、豊がこちらを振り返って声をかけてくる。彼の隣に並び立ち、愛は改めて自分たちを包み込む夜空を眺めた。風が強く吹いて、近くの木立がざわざわと鳴ったが、真夏の夜だったので、寒さは感じられなかった。

「星がきれいですね!」

「ああ」

 愛がこれほどの星空を見るのは、およそ一年振りだった。前回は、避暑地にあった金子邸のときで、あの時も客間から、都会では味わえない星々を眺めたが、満天に広がり天の川も見える今回は、更に素晴らしいものだった。月明かりがあるのは残念だったが、それを抜きにしても文句のない景色だった。

 思えば、昨年の夏は金子邸に泊まり込み、結果的に〔B〕ランクの合成獣と戦ったのだ。まだ事務所に入って半年ほどだった、あの時からおよそ一年。様々な現場を回り、多少の経験は得ているものの、今回、〔S〕ランクの合成獣を相手にするために、この場に来ていることを考えると、愛は途端に元気をしぼませてしまう。

 目の前の星空から、今ここにいる自分に思いが移り、やや気を落としてしまった愛の背を、豊が軽く叩いた。驚いて彼の顔を見上げると、豊は遠く星空を指さして語り出した。

「はくちょう座に、アルビレオという金と青の二重星がある。物語の中で、トパーズとサファイアにも例えられた美しい星だ」 

「肉眼で見えるんですか?」

「残念ながら、双眼鏡でなければ二つには見えない。研究所の施設にいた頃は、夏のキャンプの時に望遠鏡で星空を眺めたものだ」

 豊はそう言って、はくちょう座の方角を見つめた。愛は夏の大三角の中、白鳥の口元に件の二重星を想像した。肉眼でも一つの星には見えるということだったが、一体どれなのか分からないほど多くの星々が瞬いている。しばらく無言で星空を眺めた後、下りようか、と言って豊は歩き出し、愛もそれに続いた。寝袋に入りこみ、愛は幼い頃に読んだ、星座の本を思い出して眠りについた。

 次の日も、よく晴れて日差しは眩しかったが、都会に比べると、気温は涼しいほどだった。愛は、廃屋の一室、壁が崩れて日光が当たる部屋で、適当な廃材を机代わりにし、夏休みの宿題を広げた。鈴村は、モニター室で番をしている。豊は車で数キロ先の街まで、食料品と燃料の補充に出掛けた。

 交代で建物の番をしたが、特に何の異常も現れなかったので、やることは基本的に無いと言ってよかった。愛はあぜ道をぶらぶらと歩き、小さな町の中ほどまで散歩に出かけた。畑では、老人たちが汗を流している。外部の人間が来るのはやはり珍しいようで、こんな所まで何しに来たんだい、という住民の問いに、愛は、山間部の調査に来た、とだけ答えた。その日は何事もなく過ぎ、夜には鈴村が携帯電話で、異常のない旨を警察に連絡した。

 翌日の午前には、豊が買い出しに出た折に、遅れてやって来た新田を、隣町で拾って合流した。新田の持ち物は、最低限の着替えとビールだけで、ろくに金銭も持たず、もしも落ち合えなかったらどうする気だったんだ、と豊を呆れさせた。人数が増えても暇なことに変わりはない訳で、愛は、化学の宿題で詰まったところを新田に見てもらい、そうして三日目も過ぎていった。

 四日目になると、愛は暇を持て余してしまい、時間つぶしに散策に出たり、宿題を広げてみたりしていたが、先に音を上げたのは、事務所に残っている隼の方だった。屋上でかろうじて電波が通じる携帯に、『仕事がなくてハイパー暇!』というメッセージが届き、愛は苦笑しながら、こっちも暇だよ、と返信を送った。

 まさか、その晩に事件が起こるとは思いもせずに。


 * * *


 早めの夕食を食べ終え、警察に連絡もし、翌日に事務所へと戻る準備を大方済ませた所で、モニター番をしていた新田が豊を呼び止めた。モニターにノイズが多数入るようになり、機材を調整するも改善しないと言う。豊は、野生動物の可能性もあるが、一応、建物の各部屋を点検する、と言った。

 豊と新田、鈴村と愛の二手に分かれて、それぞれ別の階を担当する。この四日間で構造を知り尽くしているとは言え、懐中電灯の明かりだけを頼りに、真っ暗な廃墟を見回るというのは、なかなか怖さを感じるもので、暗がりの中に置かれた廃材に光が当たるだけでも、複雑な陰影を作り出して不気味さを演出していた。

「三階は、特に何も無いようですね」

 鈴村がそう言って愛がほっとした、その時だった。

 階下から、ガッシャーンと何かが割れるような大きな音がした。鈴村は眉をひそめ、階段に向かって駈け出した。愛も、足元に注意しながら慌てて彼女を追いかける。二階に着いたところで、更に下りるべきかの判断に迷い、二人が躊躇して立ち止まると、遠くから新田の叫ぶ声が聞こえた。

「一階だ!」

 その声に、二人は再び階段を駆け降りる。一階で、どの部屋に進むべきか判断しあぐねていると、モニター室だ、という新田の声が更に聞こえた。現場に着いてみると、部屋の中央に置かれていた機材は、無残な姿になって床に転がり、修理のしようも無いほど酷く壊されていた。元から崩れかけていた壁には、明らかにひびが増え、天井からはパラパラとコンクリート片が降り落ちていた。

「一体、何があったんです」

「知らねえよ。二階を見回ってたらあの音だ」

 緊張を強めて殺気立つ鈴村に対し、新田がぶっきらぼうに返答をした横で、豊が、壁際に落ちていた計器を手に取った。

『聖』だ、と告げた豊の言葉の意味を、一瞬、三人とも理解できず、声を発した彼の方を見るだけだった。

「例の化学成分の濃度が上昇している。明らかに異常な数値だ」

 電気を使わないメーターは、吹き飛ばされただけで壊れてはいなかった。その針が示す値に、三人は驚愕し、視線が釘付けになった。暫しの沈黙が訪れた後、やっとのことで、じゃあ、とだけ絞り出した、愛の言葉の続きを、豊が引き取った。

「間違いない。『聖』はまだこの近くにいる」

 淡々と喋り続ける豊の声音は落ち着き払っており、鈴村でさえ、やや動揺している中で、ただ一人、この状況に適応しているようだった。愛は固まったままろくに動けず、新田は厳しい表情で周囲の様子を窺っていた。鈴村が、少し焦りながら携帯電話を取り出す。

「警察に連絡を――」

 と、豊が鈴村の方に手を伸ばし、彼女が手にした携帯電話を取ると、ぐしゃり、と握り潰した。

 差し出したその手で、だ。

 鈴村は、目の前で起きた現象が理解できず、呆気にとられた表情で、目の前の豊を見つめていた。携帯電話の部品が、スローモーションのように宙を舞った。愛は、豊さん、と呼び掛ける声が言葉にはならず、ただ唇が小さく動いただけだった。そして豊は、にやり、と口元を歪めた。

 次の瞬間、爆発音とともに土煙が巻き起こった。


 * * *


 愛は、背中に痛みを感じて現実に引き戻された。吹き飛ばされて背中を打ちつけた、と理解するのに数秒を要した。部屋の中は、もうもうとした砂ぼこりで何も見えず、不意に空気を吸い込んだ愛は、大きくむせた。

 数十秒が経ち、視界が段々と晴れた先に居たのは、先程までそこにいた豊だった。いや、豊であるはずだった。見覚えのある長身と黒の長髪、そして顔。そこまではいつもと同じだった。いや、豊と同じだったと言うべきか。

 その右腕は、途中から大きく色と形状を変え、無数に枝分かれして黒く長く伸びていた。左腕は、二の腕の途中から緑色に変色し、どろどろと空中に溶けるように消失していた。左脚の先には、かかとの辺りから、にゅるにゅるとした紫色の突起が生え、右脚のすねより先は、鳥類のそれになっていた。背には、骨組みだけのような黒い翼、そして、絵に描いた竜のような太い尾を持ち、むき出しの体表が暗闇に光っている。

 全くアンバランスな姿をした、異形の生物は、大きな鉤爪と突起の生えた足で地を捕え、やや伏した姿勢でこちらに相対していた。豊の顔が動き出し、吹き飛ばされた三人に語り掛ける。

「僕が『聖』だ」

 それは、聞き慣れたいつもの声、普段と変わらぬ豊の声だった。左右で異なる色の瞳を光らせ、言葉も出ない三人を前に語り続ける。

「この姿には驚くだろうね。普段はあの格好で落ち着かせているが、元々の姿はこれさ。……研究員どもが、好き勝手に実験をし続けた結果だ」

 語気には、嘲笑うような色が含まれていた。目の前にいる相手は、どう見ても人間ではなかった。すぐにでも分かるその事実が、愛の頭の中で、うまく納得できない。だって、今そこにいるべき相手は、そう、豊のはずだった。僕が聖? 豊が人間ではない?

「では、鈴村。新田。愛。――お手並み拝見と行こうか」

 化物は豊の声でそう語り、一気に駈け出した。


 初めに標的となったのは新田だった。既に立ち上がっていた新田は、『聖』に怯むことなく攻撃を受けて立ち、右腕でその突進を振り払ったが、『聖』の不定形の右手が、新田の肩をつかみ、尋常ではない力で彼を放り投げた。決して小柄ではない新田が、軽々と振り回され、たたらを踏んでよろめく。

 続けて、鈴村が攻撃を受けた。初めのうちこそ上手くかわしていたものの、『聖』の右脚が彼女の足元を大きく薙ぎ払い、バランスを崩したところで、背後から尾の一撃を受けた。鈴村はその場に崩れ落ちる。

 気付けば、愛の左腕は、『聖』の触手状の右手に絡め取られていた。自分の右手でそれをはたき落とし、蹴りを入れて相手を遠ざけようとするも、『聖』が間合いを詰めてくるのでそう上手くはいかない。愛が身体をかがめ、『聖』の攻撃を避けて懐に入り込んだ、その時だった。

『聖』の、二の腕から消失していた左腕が、愛の眼前でみるみるうちに形成されていった。先端には拳のような塊が生じ、完成した腕で『聖』は彼女を突き飛ばした。愛は、よろめいて腰が砕け、尻もちをついた所で、『聖』がその右腕をしならせ、右手で、彼女の頭に軽い平手打ちを加えた。

 愛が、ひりひりと痺れる額を押さえて『聖』を見れば、彼は背後から襲いかかった新田を尾で牽制した後、そちらに向き直って、鳩尾に打撃を与えていた。一旦、愛たちから距離を取った『聖』は、まだまだ余裕たっぷりといった様子で、おやおや、と穏やかに声をかけてきた。

「この程度かい? いつもの現場ではもう少し動けるだろう」

 その喋り方はいかにも、所員たちに発破をかける所長そのものだった。愛は改めて、目の前にいる相手が豊なのだと認識させられる。なぜ、どうして、といった疑問はさて置いて、ようやくその事実を飲み込みかけた彼女に向かい、『聖』が再び狙いを定めてくる。

『聖』の背後に回った鈴村が、鋭い蹴りを放ったが、『聖』はわずかな動きで的確にそれを避けると、振り返って右手で鈴村の頭を掴み、先ほど形成した左腕で、彼女の脇腹に一撃を与えた。鈴村は、小さなうめき声を上げて身体を縮ませる。

「愛! 両方から行くぞ」

 新田が、どこから拾ったのか、細い鉄パイプのようなものを手にして、彼女に叫んだ。新田が左から、愛は右に回り込んで、同時に間合いを詰める。『聖』は、両方の動きを素早く見て取ると、身体はやや新田の方に向けながら、左腕と尾で愛の攻撃をあしらい、右腕と片脚で新田の相手を始めた。新田の振りまわす棒を飛ぶように避け、左腕を変形させて愛の攻撃をはじき返す。二人掛かりで立ち向かっているというのに、こちらの攻撃すらろくに当たらない。ついには『聖』が、右手で新田の持つ棒を絡め取り、逆に新田を大きく振り回した。新田は、遠心力で向こうの壁まで飛ばされる。

『聖』が愛に向き直り、右手で彼女を掴むと、そのまま突き飛ばした。体躯が人間に近い見た目からは、想像もつかない剛力だった。鈴村が『聖』に駆け寄り、懐に飛び込もうとするも、『聖』は、つま先で軽く床を蹴るだけで飛び上がり、彼女の頭上を舞って、背中から蹴りを入れた。鈴村はその場に倒れ伏す。

「さて。少し本気を出そうか」

 未だ涼しげな表情の『聖』は、そう言うと、自身の左腕を肥大化させた。人間の腕よりも一回り大きく、頑強になった灰緑色のそれには、爪のような形をした指が三本生えている。それから『聖』は、自身を取り囲んで見つめる三人に向けて、真顔になって言い放った。

「これまでに培った実力を、見せてみろ」

 その声音に、挑発の色は一切含まれていなかった。ただ言葉通りの意味だけを、豊の顔で、愛たちに向かって告げていた。相手の真意は図りかねたが、自分たちは試されているのだと、彼女は本能的に感じ取った。だからこそ、十二分に力を余らせながら、致命傷を与えに来ないのだとも。愛は拳を握り締め、眼前の化物に相対する覚悟を決めた。

 戦闘が、再び始まった。新田が先ほど手にした鉄の棒を構えて背後から襲い掛かったが、『聖』は視線だけでその動きを捕捉すると、形成したばかりの左腕で、的確に彼を弾き飛ばした。そのまま床を蹴って羽ばたくと、一瞬で愛の眼前まで間合いを詰めてくる。『聖』の両腕に注意していた彼女を、しならせた尾ではたき、よろけた所を左足で蹴り飛ばした。愛の身体は軽く跳ね飛ばされ、足がもつれてその場に崩れ落ちる。

 鈴村と新田が、両方向から同時に襲いかかるも、『聖』は両腕を振り回して二人を弾き飛ばした。鈴村に尾の一撃を入れ、新田には鳥状の足で襲いかかる。新田は鉤爪で額を薄く切られ、畜生、という呟きとともに、一筋の血が流れ出た。愛は床に転がっていた鉄の棒を持って『聖』に殴りかかるも、あっさりと避けられて背後から打撃を受ける。

 三人で代わる代わる襲いかかるも、『聖』は全くと言っていいほどダメージを受けなかった。こちらが攻撃を仕掛けるたびに、それ以上の反撃を喰らい、段々と疲労が蓄積していく三人に対し、『聖』はいつまでも疲弊の色を見せなかった。新田が振りかぶった鉄の棒を容易く捕えると、両手でぐにゃりと折り曲げてみせ、針金のように丸めてあっさりと放り投げた。鉄パイプは壁にぶつかると、音を立ててコンクリートを削り取った。

 圧倒的、まさにそう言うべき強大さを見せつけられ、愛は底知れぬ『聖』の力に改めて戦慄した。この化物が真に本気を出せば、壁に穴を開けるなど造作もなく、この建物を完璧に破砕することすら可能で、殺すつもりならば、生身の人間など問題にもならないだろう。

 その相手が、自分たちをこの戦闘で、なぜ、どの程度試そうとしているのか。全身が痛む中で愛がうっすらと考え出せば、いつの間にか背後には『聖』が立っていた。

「愛。戦闘中にぼんやりするものじゃない」

『聖』は部下を叱責するようにそう言ってのけ、右手で彼女の背に一撃をはたき込んだ。愛はその場に倒れ、『聖』は彼女を飛び越して、鈴村に襲いかかった。新田が背後から蹴りを放つも、『聖』は尾でその攻撃を払い落し、振り返って右手で彼の頬を叩き飛ばした。再び殴りかかろうとした愛は脇腹を掴まれ、壁に向かって大きく投げ飛ばされた。

 豊さん、と愛は心の中で叫んでいた。走馬燈にも似た一瞬の思考は打ち切られ、激しい痛みが彼女の背面を一気に襲った。鈴村が、新田が壁際へと弾き飛ばされ、愛たちは絶望も近い戦況の中で『聖』を遠く見つめた。『聖』は口元に笑みを浮かべると、肥大化した左腕を床に付け、表情を変えてその一点に集中し始めた。『聖』の左腕が輝き出し、周辺のコンクリートが段々と溶けて飛沫を上げた。光と熱が放出されていき、何か強大なエネルギーが収縮していく様子を感じて、愛たちは目を見開いた。

 ドン、という爆音が廃墟から放たれ、木立にいた鳥たちは、鳴き声を上げて枝から離れていった。


 そうして、どれほどの時が経ったのだろうか。土煙が再び収まり始めると、先刻よりも建物の中が明るいように感じられた。見れば部屋の中央には、一筋の月明かりが降りている。天井に空いた大穴は、階を突き抜けて屋上まで貫通しており、床には、深く抉られた穴を中心にして、縦横無尽に亀裂が走っていた。衝撃波を浴びた愛たちは、四方の壁に押さえつけられていたが、彼らが背にした壁には無数のひびが入り、以前よりも更に頼りなくなっていた。

「さて、こんなものかな」

『聖』はそう言うと、翼と尾を縮め、両腕脚を人間の形状に戻し始めた。すっかり人と同じ姿に戻った時には、いつの間にか元の衣服も身に纏っており、戦闘の前と何ら変わらぬ様子の豊が、そこには居た。

 埃臭い部屋に、奇妙な沈黙が訪れる。愛は、眼前の豊に問いたいことがいくらでもあったが、言葉は全く出てこなかった。少々の間があって、ザリ、と音がしたかと思うと、新田が立ち上がり、身体のあちこちをさすりながらぼやいた。

「痣になるだろうが。もう少し手加減しやがれ」

 豊は、すまない、と言って小さく笑った。ったく、と新田は毒づいて額の止血を始めたが、二人の遣り取りに、愛は違和感を覚えた。新田の言動は、目の前の豊が、先程まで化物であったという事実について、何の驚きも感じてはいない様子だ。もしかして、元々知っていた? 彼女の中に、新たな疑問が生じる。

 鈴村が、脇腹を押えながらゆっくりと立ち上がり、座り込む愛のところまでやって来ると、大丈夫ですか、と声をかけてきた。はい、と愛は答えたが、身体の方はまだ痺れていて、すぐには立てそうになかった。そうして気遣い合う二人を、優しげな視線で眺めていた豊に向けて、鈴村が、ついに問いを切り出した。

「所長。あなたは――」

 言葉はそこで途切れ、すぐ傍に立つ鈴村の表情は、愛からは窺えなかったが、何よりもその声音に、彼女の心情が全て表れていた。問いかけを受けた豊は、ふっ、と彼女たちの方から視線を外し、崩れかけた壁に近付いて外を見遣った。

「……星がきれいだ。屋上に行こうか」

 場違いとも思えるほど柔らかな声でそう告げると、豊は、一人黙って歩き出した。カツン、コツン、と階段を上る音が屋内に反響する。新田は、溜め息をついて起き上がると、豊の後を追って階段の方へと向かった。愛と鈴村は顔を見合わせ、それから二人の後に続いて歩き始めた。


 * * *


 びゅうびゅうと夜風が小さなうなり声を上げている。視界はくっきりと晴れ渡り、今日も一面の星空が頭上に広がっていた。愛が屋上に着くと、豊は一人、背を向けて遠くの星々を眺めていた。思えばここで彼と肩を並べ、二人ではくちょう座を見上げたのは、ほんの三日前のことだった。夜空は変わらず美しかったが、ここにいる彼らの状況は、あの時とはまるで違う。

 月明かりが四人を照らす中、愛たちは足元に空いた大穴を避け、豊と数メートルの距離を保って立ち止まった。風がその身を震わせて間を吹き抜け、こぉこぉと音を立てて屋内へと響く。一階まで貫かれた穴は、先ほど爆発したエネルギーの凄まじさを物語っていた。

「では、何から説明しようか」

 豊が振り返り、所員たちに日ごろ接する時と何ら変わらぬ態度で、三人にそう語りかけてくる。こうも気安く問われてしまうと、逆に返事に窮するもので、愛と鈴村が困り果てていた所へ、お前の正体からだろ、と新田が呆れたように話を促した。豊は、そうだね、と答えて軽く笑う。そして、彼らの方に改めて向き直ると、躊躇することなく、はっきりと語り出した。

「先ほど見ての通り、俺は合成獣だ。研究所から与えられた名称は『聖』と言う」

 既に分かっていたはずの事柄でも、本人の口から宣告された重みというのは、まるで異なるものだった。あれほど多くの合成獣を始末してきた豊自身が、合成獣だという。愛は、その事実を受け入れるのに覚悟が必要だった。そして、他とは桁違いの能力を持つ、〔S〕ランクの『聖』。

「生み出されてから暫くの記憶は曖昧だが、どうやら俺の研究は、ごく一部の研究員たちが未認可で行っていたらしい。飼育槽は所内でも人目につかない片隅に置かれていた。最初は人間の姿に育てられたが、後から徐々に手を加えられていった。人型に近い身体をベースに、どれほどの能力を与えられるのか、自分たちの思うままに試していたようだ。毎日が改造と実験の繰り返しだった」

 豊は淡々と言葉を続けたが、愛はその吐き気がしそうな内容に、内心で頭を殴られたようなショックを受けた。そんなの、人体実験と変わりない。人型でなければ良いという問題ではなかったが、倫理観を逸した研究員たちの身勝手な行動は、愛には許し難かった。傷心する彼女をよそに、豊は自らの生い立ちを語り続けた。

「ある日、所内の最高責任者である博士が俺を発見した。博士は俺の姿を見て驚き、それから研究員たちに激高した。一体何を行っているのかと」

 愛は、以前に隼から聞いた、博士は元々バイオ技術の医療への応用を目指しており、合成獣の品種改良には反対だった、という話を思い出す。『聖』を始めて目にしたとき、彼は一体何を思ったのだろう。

「翌日から、その研究員たちの姿は見えなくなった。博士は、俺の知能が人間と同等なことを見て取ると、手元に引き取って人の子と同じように育て始めた。文字を教えて知識を与え、所内のあらゆる物を見て回らせた。俺の世界を広げたのは博士だった」

 すまない、と、その中年の男性は言った。俺が気付かなかったせいで、お前のような存在を生み出してしまった。つらい思いをさせてすまない、無責任な俺たちを許してくれ、と。異形の生物である自分の肩を強く抱き、震える声で何度もそう言った。

 吹き渡る夜風が木々をそよがせ、豊の長い上着の裾がはためいた。空一面の星々は美しく瞬き、月明かりは眩しさを感じさせるほどだった。そんな景色を遠く見つめながら、豊は更に続けた。

「博士は俺の身体について念入りに検証したが、改造される前の状態には戻せないことが分かった。幸いにもメタモルフォーゼ能力があったので、変形して人間の身体に近付くことはできた。長時間、安定して人間の姿になれるようになると、博士は付属の施設に俺の籍を作り、人としての生活基盤を与えた」

 これからは、と博士は言った。お前も一人の人間として行動できる。行きたい所に行き、見たいものを見て、学びたいものを学べ。何をしたいかはお前自身が決めるんだ。そうして得られた世界の、どんなに輝かしく広かったことか。

 愛は、豊が以前に、博士について語っていた言葉を思い出した。博士には一生かけても返しきれない恩がある、と。それがどのような意味だったのか、その時の愛には真に分かるはずもなかった。

「それからの博士は、合成獣の駆除研究に全力を傾けるようになった。元々どんな生物にも慈しみを持って接し、研究のためであろうと殺すことは悲しんでいた。だが、〔S〕ランクの合成獣は能力が段違いすぎた。もし野に放たれるようなことがあれば、それこそ人間が責任を取れる問題ではなくなると」

 処分を受けた研究員たちが生み出していた合成獣は『聖』だけではなかった。特に〔S〕ランクの合成獣たちは人間並みの知能を備えていたが、『聖』以外のほとんどは、自分たちを勝手に生み出した人間への反発心が強く、いずれは人類の管理下から逃れようとする考えを持っていた。

「博士は、俺を育てながら合成獣駆除の研究をする、という矛盾を抱えていた。……憔悴する博士に、研究の手伝いをする、と、俺は自ら申し出た」

 僕も合成獣を駆除する研究を手伝います。拳を握りしめ、そう言い放つ豊に、博士は驚いて目を見開いた。

 だって、お前は、……

 博士は僕を人間として育ててくれました。何をしたいかは自分で決めろと言ってくれた。だから僕は人間として、博士を手伝います。合成獣は始末しなくちゃならない。でも、博士が一人で責任を負うことじゃないはずです。

 歯を喰いしばって涙を滲ませる豊の頭に、博士はそっと手を置いた。それから優しく彼を抱き寄せ、ほとんど呟くかのような小声で言った。

 すまないな。豊。

「こうして俺は今の道を選んだ。……何か、聞きたいことはあるか」

 夜空は雲一つなく澄み渡り、星々は冴え冴えと輝いていた。愛はすぐに言葉を口にすることはできず、鈴村は顔を伏せ、新田はどこか遠くを見つめていた。少しの間があって、愛は遠慮がちに問いかけた。一体何から尋ねようか、しばらく考えた結果はこうだった。

「豊、さんの。名前は、博士が付けたんですか?」

 想定外の問いだったのか、豊は一瞬、ぽかんと呆けたような顔を見せたが、ああ、と答えて、嬉しそうに柔らかく破顔した。

「俺の、人間としての名前は博士がくれた。名字は母親の旧姓らしい。――人として生きるこれからの生涯に、多くの実りがあるように、と」

 豊。これからはお前をそう呼ぶぞ。

 そう告げた博士の瞳は、どこまでも優しかったのを今でも覚えている。我が子を見つめる父親のようだ、と、そう分かったのはずっと後のことだった。

「新田さんは、前から知ってたんですね?」

「そりゃよ。お前、いつからの付き合いだと思ってるんだ」

 新田はぼやくようにそう述べた。こいつが飼育槽にいる時からだぜ、と言って、豊の方を顎でしゃくる。では、彼は出会ったときから『聖』の正体を知っていたのか。驚きに目を見開く愛をよそに、豊は笑って頷いた。

「新田を俺に引き合わせたのも博士だ。研究員以外の人間に会わせることも必要だ、と考えたらしい」

 何で俺かね、と言って新田はそっぽを向いてしまったが、恐らく照れ隠しなのだろうということは愛にも分かった。くすりと笑い、豊に問いを続ける。

「最近、出張が多かったのは……」

「勿論、と言っては何だが、各地でエネルギーを解放するためだ。怪しまれないようスケジュールを組むのはこれでも苦心した」

 本当の学会などの予定もあったが、その前後に移動を挟んで、事件を起こしに行っていたという。どうしても数年ごとに必要になる作業だが、今回はこれで仕舞いだ、と豊は告げた。

「先ほどは、すまないな。エネルギーの解放がてら、皆の実力を試させてもらった。――後は、俺の本来の姿と力を、ありのまま見せるべきだと思った。それだけだ」

 珍しく歯切れの悪い謝罪の言葉を述べた豊は、複雑な苦笑いの表情を愛たちに向けていた。

 先ほどの戦闘で、愛と鈴村にとっては、所員としての実力だけでなく、合成獣である彼の正体を受け容れる覚悟も、同時に試されていたことになるのだろう。だとすれば、人間とは比べ物にならない強大なその能力を、包み隠さずに示したこと自体が、彼なりの誠意なのだろうと、愛にはそう感じられた。やはり、豊の考えは自分などには図り知れないのだと、愛は改めて思い入り、夜風の中に、小さく感嘆の息をついた。

 その豊に向け、〔S〕ランクのお前に勝てる訳ないだろ、と新田が呆れたように横から軽口を叩く。事前に事務所で打ち合わせていたのだろうが、『聖』の正体と能力を知った上で、愛たちに同調してあの戦闘に付き合っていたのだから、彼もなかなかどうして侮れない人間だ。恐らくは、その口の堅さと懐の深さを買われて、『聖』の最初の友人として博士に選ばれたのだろうと、真相を知ったばかりの愛にも、すぐに察することができた。

「後は、聞きたいことはないかい?」

 次の問いを促す豊に、一瞬、愛は迷い悩んだ。研究所の爆発事故は、と言おうとして、なんとなく、いま尋ねるべきことではないと思い、やめた。その代わりに、最後の質問を口にする。

「……豊さんは。これから、どうするんですか」

「これから?」

 どうするって、決まっているさ。豊はそんな風に愛の言葉を繰り返し、彼女の方をまっすぐに見据えて言った。

「事務所に戻って次の依頼を請けるさ。――優秀な所員たちがついて来てくれるなら、だけどね」

 遠くの木立がさわさわと鳴り、月明かりに吹き抜ける風が涼しかった。少しの沈黙があって、初めに鈴村が、所長、と声を発した。

「私は、あなたを信頼しています。……例え、あなたが何者であっても」

 豊は鈴村に向けて目を細め、ありがとう、とだけ、優しく返事をした。

「腐れ縁だ。これからも付き合うに決まってんだろが」

 当り前だろう、と言いたげな口調の新田に豊は苦笑し、これからも頼む、と返した。

 鈴村が、新田が愛の方を見る。目の前にいる豊は、先ほどまでと違い、現実味を持った一人のとして存在を感じられた。愛は、言葉がうまくまとまらず、何と言うべきか考えあぐねていたが、小さく深呼吸をして落ち着くと、今の素直な気持ちを口にした。

「……私でよければ、手伝わせて下さい」

 豊は、ああ、と応え、口元にわずかな微笑みを浮かべた。


 * * *


 彼らが事務所に戻ったのは、翌日の夜のことだった。受付ですっかりだれていた隼は、『聖』に遭った、という豊の言葉をすぐには飲み込めず、数秒固まった後に、はあ!? とすっとんきょうな声を上げた。垣間見ただけで逃げて行ったが、という豊をものすごい勢いで揺さぶり、闘ったのか、どんな奴だった、と興奮した様子で矢継ぎ早に問いを繰り出した。

「機材を派手に壊して逃げてっただけだ。見た目はでっけぇ蜘蛛みたいなやつ」

 新田が事前に打ち合わせられた説明をすると、隼は表情を険しくし、まじかよ、俺、蜘蛛は嫌いなんだ、と言って身体を震わせた。その様子がおかしくて、鈴村と愛は顔を見合わせ、二人でこっそりと笑った。

 警察には隼にしたものと同様の説明をし、機材が粉砕されたため一切のデータはないと申し出た。『聖』を捕えることが出来た訳ではないので、世間一般に不安を広めないため、という大義のもとに、一連の事件は公にならず、合成獣対策本部と警察の一部隊だけが現地入りをした。これから対策本部と警察は慌ただしく仕事をするのだろうが、今回の事件で『聖』は十分にエネルギーを放出し、次に活動するのはまた五年ほど先の話だ。彼らの慌てぶりは滑稽にも思えたが、かといって愛たちにそれを説明できるはずはなかった。

 事務所は警察の聴取も終えて落ち着きを見せ、また新たな依頼を請ける日々が始まった。愛はふと、豊に聞けなかった事柄について考えることがある。博士に恩を感じ、合成獣を追う道を選んだ豊。その博士は、合成獣が野に逃げ出した爆発事故で亡くなっている。真偽は分からないが、研究所の爆発事故を起こしたのは『聖』だという説もある、と隼は語っていた。一体、事故の真相はどこにあるのだろう?

 また、今回の現場に隼ではなく自分を連れて行った理由については、愛は直接、豊に尋ねてみた。隼が非番の日、愛の質問を受けた豊は、姿を現すならば愛の方がいいと思った、と言い、それから遠くを眺めて付け加えた。

「隼を信頼していない訳ではないが、彼には事情がある。……また、いずれ分かるさ」

 豊は静かにそう告げ、それ以上の質問は受け付けなかった。愛は隼の事情、というものについて考える。両親を研究所の爆発事故で亡くしていると言った、彼。一連の真実はやはり、研究所の事故に深く結びついているようだった。

 これまでと同じように仕事をする中、愛は、自分が豊に接する時の気持ちが、少しだけ変わりつつあるのを感じ始めていた。以前は単に、仕事のできる上司とみそっかすの部下でしかなかったのが、今では、同じ秘密を共有する仲間として信頼されている。その事実は、彼女にとって何より、歳月をかけて培った信用の強さを感じられる証だった。

 真夏の暑さはようやく峠を越え、都会でも夜風が段々と涼しく感じられるようになってきた。愛は夕食を終えるとベランダに出て、星の少ない都会の夜空を見上げた。夏の大三角がかろうじて見えるほどだったが、愛は先日の夜と同じように、その中にあるアルビレオに思いを馳せた。街の明かりに隠されて見えないだけで、都会でも星は同じくそこに在るのだ。

 彼らの心に結ばれた煌めく絆が、夏の空から優しく彼女を見下ろしていた。

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