〈第二話〉『豪邸の主』

「うわ、すっげぇ家」

 後部座席から運転席に身を乗り出した隼が、賑やかに声を発する。本心がそのまま出た、という調子の声音に、彼の隣に座っていた愛は、思わず笑いをこぼした。

 舗装のなされていない山道をひた走る四駆は、地面の凹凸にその車体を揺らしながら、四人を目的地へといざなっていた。うっそうとした木立を抜けた瞬間、フロントガラスの全面に広がったのは、地上五階、左右は車中から見渡せないほどの大きさを持つ、豪邸と呼ぶにふさわしい邸宅で、愛の目から見ても、「すごい家」であることに違いはなかった。

「家人の前では口調に気をつけるんだよ、隼」

 運転席で四駆のブレーキを踏む長身の男性が、真後ろの隼に向けて、厳かに釘を刺す。凡人の備えていない威厳をまとった彼は、齢三十にも届かぬ身でありながら、自身の名を冠す個人事務所を持つ所長であり、その名を豊という。まだ高校生である愛と隼が、この『黒川調査事務所』でアルバイトとして所員を勤めているのも、彼の「粋な取り計らい」と奇縁による。

 助手席では鈴村が、地図を畳みつつ携帯電話を耳に当て、ええ、間もなく到着致します、と淡々と通話を行っている。無口ながらも常に冷静で、サポート役に徹している彼女は、事務所の中でも、豊の右腕と言える存在だった。

 所長直々の戒めに対して、へいへい、分かりました、とふて腐れて座席にぼすりと腰を落とした隼の口調は、一向に改まる気配がない。その言動に愛は苦笑し、豊は、やれやれ、先が思いやられる、といった様子で溜め息をついた。


 彼らの元に依頼が舞い込んだのは、ちょうど一週間前のことだった。もっとも、事務所に現れたのは屋敷の主人、金子かねこではなく、その代理人である青木あおきという名の秘書だった。

「近頃、私どもの屋敷で、妙な事が立て続けに起こっておりまして」

「妙な事態、とは?」

「夜間に、美術品の類だけが荒らされて傷付けられるのです。それも、侵入者の形跡は全くなしに」

 苦労のせいか、年齢にしては数多くの皺をその顔に刻んだ青木は、いやはや参りました、と呟いて、ハンカチで額の脂汗をぬぐった。

「警察には、届け出ておられるんですよね?」

「勿論ですとも。しかし、犯人の証拠というのが全く出てきませんでね。どうにも当てにならないものですから、こちらに調査をお願いしたく出向いた次第でして」

「分かりました。詳しい話は現地でお伺いしましょう」

 そうして豊の言葉通り、一行は邸宅へと招かれた。わざわざ遠く、県外の個人事務所に依頼が持ち込まれた経緯までは、一介の所員に過ぎない愛には分からなかったが、彼らの事務所が「ある分野」でそれなりに名を揚げている事実自体は、愛自身も、己の経験からよく知っていた。

 一般企業や個人の家屋における、原因不明な事象の調査。そして、『合成獣』だ。


 * * *


 彼ら四人と大量の機材を乗せた四駆は、事務所のある都会から高速道を走ること約二時間半、国内でも有数の避暑地にある邸宅の前で停車した。遠目からも雄大に見えていた屋敷は、眼前にすると圧迫感のあるほどにそびえ立ち、十九世紀の著名な建築家の手によるという建物は、これまでに経た歳月を感じさせつつも、細部まで手入れが行き届いていた。

 車を降りると、愛は深呼吸をし、高原地帯の涼やかな空気を胸の奥まで吸い込んだ。青々とした木々が天に向かってめいっぱいに背を伸ばし、邸宅に夕方の木陰を落とし始めていた。

「この時間からでは、屋外の調査は無理そうですね。明日に回した方がいいでしょう」

 助手席から降りた鈴村が、スケジュールの確認を取ると、豊は、そうだね、と頷いて、屋敷へと歩みを進めた。邸内から現れた青木が豊に頭を下げ、一行は応接間へと招き入れられる。

 到着から半時間以上も待たされたのちに、ようやく応接間に現れた依頼人の金子は、年の功を頭ではなく腹に溜め込んだような風貌をしており、とにかく困っている、何とかしてくれたまえ、といった趣旨の言葉だけを連発し、早々に隼を辟易させた。豊は、それらを失礼に当たらぬよう、丁重に受け流してから、さっそく調査をしたいと申し出て、意味のない挨拶が無用に長引くのを切り上げた。

 金子が応接間を引き揚げ、青木も席を外した隙に、「これだからおっさんは」とぶちぶち文句を垂れる隼の頭を、豊が無言のまま鋭く小突いた。戻った青木が手渡してきた、被害を受けた美術品のリストには、相当な数が名を連ねており、美術展の一区画は請け負えそうな量の品々が、原因不明の傷を負っているというのが実情だった。

「これは一筋縄ではいかないかもしれないね」という豊の呟きを聞きながら、愛は夏休みの宿題を思い返し、数泊の滞在になるようなら、休憩時間用に持って来てもよかったかな、などと考えていると、昨日もテレビを見て夜更かしをしていたという隼が、彼女の隣で場違いな大あくびを発し、豊から早々に二度目の鉄槌を受けていた。


 * * *


 四人は青木に連れられて邸宅の中を案内され、まずは各階の構成を把握した。大広間、会議室、果ては室内プールまで備え、これほどの広さが必要なのかと疑いたくもなる屋敷の内部には、至る所に美術品の類が飾られていた。とりあえず一通り様子を見て周るだけでもかなりの時間を要し、隼は「これ全部調査すんの?」と早くも音を上げ始めていた。

 続けて、被害を受けた美術品の集められた部屋へと案内される。豊は調査用の手袋をはめ、品物を取り上げて順番に検めていく。美術品それ自体の種類や制作された年代、状態といった区分から、被害を受けた日付、傷の大きさや破損具合など、細かな情報を手分けして確認しながらリストアップしていき、ようやくデータベースが完成した時には、もう夕食によい頃合という時分だった。

 豪奢な食堂でそれに似合った食事を済ませてから、美術品の部屋に戻ると、先ほど作成したデータをノートパソコン上で集約する鈴村の横で、豊が並べられた美術品のうち一つを取り上げ、とくと眺めながら、何やら黙って考え込み始める。そうして暫く経ったのち、ノックの音と共に青木が現れ、お休みになる部屋の用意が整いました、と彼らに告げた。

「ここ数日の被害状況は、どうなっていますか?」

「昨晩は二件、一昨日は三件です。始まってから一月、被害のない日はございません」

「それでも、美術品をそのまま邸内に飾っているんですか?」

「主の意向でして……」

 青木は、言葉尻をしぼめて肩をすくめた。その様子は、美術品の状態を毎日確認して報告するのは私なのに、困ったものです、と言いたげにも感じられた。

「では、調査の間だけで構いませんから、全ての美術品に覆いを掛けましょう。運べる物はケースに入れて、一箇所にまとめて下さい」

「げ。今からやんの?」

 青木の心中を代弁したような(しかし幾分品のない)発言をする隼を、豊は視線だけで黙らせ、青木の方に向き直って、簡単な覆いだけでいい、なるべく多くの者の手を借りたい、と頼み込んだ。仕事の増えた青木はそそくさと部屋を出て行った。

 初日から働きすぎだよ、と文句を垂れる隼を愛はなだめ、大勢の使用人と共に、邸内の美術品に覆いを掛けた。壁一面を占める絵画から繊細な壺まで、作業を終えた頃には午後十時半を迎え、今日はこれで終わりだろう、と全員が思った時に、豊は所員を集め、次の作業を開始した。

「所長。もう明日にしたらどうっすか? 俺眠いんですけど」

「なるべく早く片付けて帰りたい、と言ったのは隼だろう?」

 勘弁して下さいよ、と言ってオーバーな身振りをする隼の仕草に、愛もくすりと笑いはしたものの、実際、多少の疲れは持ち合わせていた。それでも四人は、壊れた美術品の中から、豊の指示に従って、ちぎれたキャンバスの切れ端や、割れた陶器の破片などを選び出し、厳重に梱包して箱に詰めた。青木を呼び出し、翌朝に速達で送るよう小包を託すと、一同はようやく眠りについた。


 * * *


 翌日は真夏にも関わらず、肌寒さの感じられるような薄曇りの気候だった。朝食を済ませて屋外に出ると、愛たちは屋敷の外観を検分した。建物は、所々にひびが入りつつも、綺麗に清掃がなされており、泥棒や動物の入れるような抜け道は見当たらなかった。

 広大な邸宅を外側から点検する作業に午前中いっぱいを割かれ、涼しいながらもうっすらと汗をかくほどの運動量だった。着替えを兼ねて屋内に戻ったところで、嬉しそうな顔をした青木が彼らを待ち構えていた。

「昨晩の被害はどうでしたか?」

「今しがた見回りを終えたのですが、今日は一件もありませんでね。えぇ、初めてのことですよ」

 いやあ助かります、と言った彼の語気には、これで今日は主人に怒られなくて済む、といった意味合いが明らかに窺え、愛は内心で彼に同情した。

 午後は、邸内の各所にセンサーを設置する作業に移る。四駆に積んでいた大量の機材を降ろし、手始めに一階への配置を終えた所で、皆さまお疲れでしょうから休憩を、と紅茶の用意をした青木が一同を呼び止めた。

 夏の日差しが入り込むガラス張りのテラスに、ベルガモットの華やかな香りが広がる。ここぞとばかりに糖分補給をする、隼のがっつき具合に顔をしかめている豊に向けて、愛は遠慮がちに質問を投げかけた。

「あの、センサーですけど。あんなに限られた所だけでいいんですか?」

 この広大な邸宅の隅々にセンサーを設置するとなれば、とてもではないが人手も機器も足りない。豊は人目もつかないような廊下の隅や家具の隙間など、かなり絞られた地点にのみ設置するよう指示を出していた。

「あれでいいんだ。明日には反応があると思うよ」

「……豊さんには、もう犯人が分かっているんですか?」

「見当だけはついている。それも明日にははっきりするだろうね」

 目を丸くする愛と隼をよそに、豊は自身のカップに紅茶を注ぎ足し、その隣に座る鈴村は、普段と変わらぬ様子で上品に茶を飲み続けていた。

 休憩を終えた四人は、センサーの設置を再開した。二階から五階まで邸内をくまなく歩き回り、足元を中心に機器を取り付けていく。相変わらず部屋数の多さには閉口するものの、豊の指示通りピンポイントに配置していく分、幾らか楽だとは言えた。

 それでも作業が完了した時には日が暮れており、ちょうど夕食を提供される頃合となった。階段を下りて食堂へと向かう途中、大広間の手前に差し掛かったところで、一同は金子に出くわした。

 昨晩は被害がなかったそうだが、このまま解決するのかね、と大声でわめく依頼人に、明日には犯人が分かるでしょう、と豊が請け負った。満足げに自室へと戻って行く金子の後ろ姿に、「おっさんは楽でいいよな」と隼が呟く。

 夕食を済ませると、豊は再び美術品のリストをめくり、昨夜に覆いを掛けた美術品のうち一点を選び出すと、その品を小さな空き部屋に移すよう、青木に頼み込んだ。愛たち三人は、残りのセンサー類の全てを、部屋中に入念に配置するよう指示される。

 豊は部屋の中央に机を運び入れ、壁際に暗視のビデオカメラを設置すると、ちょうど卓上の映像が撮影されるように、カメラの向きを調整した。最後に、選び出した美術品を机の真ん中に乗せ、昨日の簡易な覆いを取り外すと、替わりに、小さな穴が多数空けられた丈夫なケースを被せた。

「これって……囮ですか?」

「そうだよ。被害は受けないから大丈夫だ」

 どうしてそう断定できるのか、分からぬまま愛が首を傾げていると、今日の作業は終わりだ、と豊が宣言した。明日までセンサーとカメラの反応を待つらしい。

 各人に用意された客間の自室にて、就寝の支度を終えた愛は出窓を開き、窓辺に肘をついて濃紺の夜空を見上げた。朝とは違って、空はすっきりと晴れ渡り、視界を遮るものは何もない。南に低く輝くのは中央にアンタレスを抱いた大きなさそり、天頂に浮かぶのは夏の大三角。都会では味わえない天の川を仰ぎ、愛はゆっくりと大きな深呼吸をした。夏の夜風を受けて、カーテンの裾がはためいていた。


 * * *


 翌日の青木は、傍目から見ても明らかに上機嫌だった。二晩連続して美術品に被害が出なかったためだ。

 いやはや、これも皆さんのおかげです、と小躍りしかねない雰囲気で礼を言う彼を尻目に、「だったら最初から覆っとけばよかったんじゃねぇの」と身も蓋もないことを呟く隼を、それでは根本的解決にならない、と豊が一刀両断した。

 まずは、昨日設置した機器の仕事ぶりを確認する作業となった。鈴村がパソコンを操作して、邸内の各地点に配置したセンサーから、無線でデータを収集する。続いて専用のソフトを立ち上げ、捕えられた反応を順々に解析していく。空き部屋のビデオカメラが撮影した映像も取り入れ、収集したデータの解析結果が全て出揃った頃、豊の携帯電話に着信があった。

 豊は数分間話し込んだのちに、そうか、よろしく頼む、と言って通話を切った。それから振り返ると、所員たちと青木の四人に向けて、犯人はほぼ特定できたと言える、と告げた。

「特定できた、って。誰なんすか、所長」

「答えは、昨晩のデータを見てからだ」

 合図を受けた鈴村がパソコンの画面を切り替え、ビデオカメラが一晩に渡って録画した映像を早送りし始めた。モニターの中央には、穴空きのケースが被せられた囮の美術品が写っている。再生を始めてから暫くの間は、目ぼしい変化も起きなかったが、映像の時刻が午前三時を回ったところで、明らかな異変が生じた。

「これ……。合成獣……?」

 画面内に現れた、見たことのない生物の姿に、愛は目を凝らした。体長十センチ弱と見える害獣は、艶やかな体表と前方に突き出た目玉を持ち、針金のような前足に、鋭い爪を備えていた。後ろ足の水かきで器用にケースに張り付くと、箱の表面を舐め回すように動き回り、ついには前足の爪を穴に掛けたまま静止した。一連の行動は、まるで中の美術品から花のように匂いでも発せられ、その芳香に引き寄せられているかのようでもあった。

「オカガエルの派生種だ。……人間の生活圏内で見るのは珍しい」

 鈴村が座す椅子の隣に腰を落ち着けながら、豊が害獣の種別を判じた。この所長は、合成獣に関して、莫大な情報量のデータベースを、その脳内に有していた。

「これが、今回の犯人なんですか?」

「オカガエルは夜行性で、人前にはなかなか姿を見せないが、ある種の鉱物を非常に好む性質がある。その成分が、邸内の美術品に多く付着しているんだ」

 今まで被害を受けた美術品には、種類や作製された年代といった点に共通項はなかったものの、どの作品にも、近代になって同様の防腐処置が施されていた。その処置で使われる薬品の材料に、件の鉱物が含まれているため、品物に付着して残っていた成分に惹かれたオカガエルが、美術品を傷付けていたのだろう、と豊は言う。

「その成分が含まれているって、どうして分かったんですか?」

「昨日の朝、新田にったに傷ついた美術品の破片を送った。大学で解析してもらったんだ」

 青木は複雑に表情を歪ませた。彼らが美術品の一部を邸外に送付したのが無断だったためだ。

 新田は、彼らの事務所に所属する科学分野専門の所員だ。自身の出身大学でも教授の助手を務めており、事務所にはたまにしか顔を出せないほどに多忙なのだが、豊の依頼には、必ず最優先で取り組んでいた。

「一ヶ月ほど前、何か新しい物品を屋敷に納入しませんでしたか?」

「そういえば、屋内の改修のために珍しい床材を……」

「恐らく、その時に紛れ込んだのでしょう。この辺りにはまず生息していない合成獣ですから」

 豊の言葉に、ああ、と嘆きの声を漏らしてへたり込んでしまった青木を、大丈夫ですか、と鈴村がなだめた。彼は恐らく、主の叱責に怯えているのだろう。あの金子の様子では無理もない、と愛は気の毒に感じた。

「他の地点のデータにも、合成獣の反応が多数あります。既にかなりの個体が棲み付いているようです」

「この広い屋敷では、薬剤を散布して駆除するのは無理だ。例の鉱物を新田に発注してもらったから、今夜には届く。罠を作って捕えるんだ」

 方針が定まったところで、まずは解析されたデータの検証に入る。オカガエルの探知数の分布を確かめ、特に件数の多かった地点を洗い出す。一階の大広間を取り囲むように反応が多く、今までに美術品の破損が多くあった区域とも一致していた。

 それからは罠を作る時間となった。一度入った生物が出られないよう工夫した箱の片側に、鉱物を取り付ける場所を用意し、反対側には合成獣を弱らせる薬剤のアンプルを設置する。

 後から鉱物を取り付けられるよう、苦心しながら箱を組み立てる愛の隣で、鈴村がてきぱきと作業をこなしていく。何事も卒なくこなす彼女の手際の良さに、愛は心中でいたく感心した。口数の少ない鈴村は、いつも冷静さを保ち、表情を大きく変えることも稀だったが、決して冷酷な人間ではなかった。

「大丈夫ですか、愛さん」

 その鈴村が、珍しく口を開き、更には告げた内容が自分のことであると理解するのに、愛は数秒の時間を要した。愛の手が自然と止まっていたのを、彼女は心配したのだった。

「あ、はい。すみません、ぼーっとしてしまって……」

「単調作業ですからね。根をつめると良くないですよ」

 気付けば、豊と隼は所用を足しに外へ出ており、部屋には鈴村と愛の二人きりだった。彼女と一対一で話すというのは、愛にとっては珍しい状況だった。

「……鈴村さんは、この事務所、もう長いんですよね」

「そうですね。愛さんも、半年でいくらか慣れたように思えます」

 愛は、自身が持ち込んだ依頼をきっかけに、豊の元で働くこととなったが、その頃には既に、新田、鈴村、そして隼が、所員としてこの事務所に勤めていた。

「それでも、隼に比べると、同い年でもまだまだ、分からない事が多いです」

 恐縮する愛の返答に対し、隼も今でこそ一人前の仕事をしますが、最初に来た頃は、何事も詰めが甘く所長によく怒られていました、と言って鈴村が微笑んだ。彼女が笑みを見せるのも、特定の誰かについて言及するのも珍しいことだった。

「豊さんは、すごいですよね。あの歳で自分の事務所を持っていらっしゃるなんて」

「ええ。私は所長に全幅の信頼を置いていますよ」

 きっぱりと言ってのけた鈴村は、一点の曇りもない瞳をしていた。いつでも客観的な視点を持ち合わせている彼女に、そこまで言わせるとは、豊さんはやっぱり凄い人だ、と愛は感じ入る。他の所員たちとは半年近くの付き合いになるとはいえ、愛はまだ、同い年でよく喋る隼以外については、それほど多くのことを知らなかった。

 雑談を終えて、また作業へと没入していき、十分な数の箱を作り終えると、時刻は既に夕暮れ時となり、窓からは強烈な西日が差し込んでいた。

 休憩を挟んで、夕食を採りに食堂へ向かうと、昨日、一昨日の晩にも劣らない豪華な食事が並んでいる。愛は、日常では味わう機会のないような料理を堪能しながらも、もしかして、この部屋の陰にもオカガエルがいるのだろうか、という考えが拭い切れず、どこか上の空になってしまう。

 夕食を終えた所で、例の鉱物が届きました、との知らせを青木から受けた。日中に作成した箱に取り付け、罠を完成させると、先日のセンサーと同様に、邸内の各地点に配置する作業となる。

 愛と隼は、最後に大広間の周辺を担当し、廊下の足元に罠を設置していった。今までの被害とセンサーの反応数が多かった分、この辺りは特に重要な区域だといえ、取り付ける罠もかなりの数となった。今夜も反応待ちか、と言って、設置を終えた隼が背伸びをした、その時だった。彼らが立つ廊下の先、暗闇の中に、愛は、得体の知れない違和感を覚えた。

 彼女が目を凝らすも、怪しい気配は既になく、そこにあるのは寒々と広がる廊下だけだった。「おーい、置いてくぞ」という隼の声が後ろから聞こえてくる。愛は、違和感を振り払うように背を向けると、明かりの照らす方向へと駆けていった。


 * * *


 意外なことに、罠に掛かったオカガエルの個体は数えるほどしかなかった。

 二晩目となるセンサーの探知も、検出数は前の晩と比べて明らかに少なくなっており、特に多かったはずの大広間の周りでは、罠に掛かったオカガエルはほとんどおらず、まるで急になりを潜めたかのように、反応が激減していた。三日目の夜も被害がなかった分、青木はそれほどまでに落胆の色を見せていなかったが、所員たちはこの不可解な現象に首を傾げていた。

 ただ一人、所長の豊だけが、何も言わずに落ち着いたまま、解析されたデータをパソコンで俯瞰していた。それは、憶測が外れた原因を探っているというよりも、この現象までが予測の範囲内だった、という様子に見え、愛は不思議そうに彼の背を見つめていた。

 そもそも愛が気になっていたのは、屋敷に来た当日から、今回の事件の犯人は合成獣である、と豊が見当づけていた点だった。美術品の破片を、翌朝に一番で新田へ送るため、初日の夜に梱包を行ったのだから、そういうことになる。前日の作業の合間に、どうして分かったんですか? と尋ねてみたものの、「美術品に付いていた痕跡と、あとは勘」という素っ気ない答えが返ってきただけだった。

 不意に、豊がパソコンの前から立ち上がった。どこに行くのかと愛が訊けば、昨晩、彼女が怪しい気配を感じた辺りだという。愛は、豊に着いていくことにした。

 日光の届かない屋内は、夜間の冷気をそのままに保っており、大理石の廊下は、真夏の日中にも関わらず、冷え冷えとした空気を漂わせていた。愛は、背筋がひやりとする感覚に襲われ、昨日の嫌な感覚をまじまじと思い出す。

 と、例の地点に差し掛かったところで、豊は立ち止まった。そのまま、どこを見るともなしに、思索に耽り始める。長く伸びる廊下の中には、遠く蝉の鳴き声だけが反響し、その中に佇む二人の姿を浮き彫りにしていた。

 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。沈黙に居たたまれなくなった愛は、豊の思案を遮る申し訳なさを感じつつも、あの、と声を絞り出し、昨夜の違和感について述べた。

「……そうか」

 話を聞いた豊の目が、鋭く光った。見間違いか、と愛が思う前に、彼は唐突に歩き出し、突き当たりにある大広間の扉を開け放った。

 豊はさっさと中へ踏み入ると、そのまま部屋の最奥まで進み、暫くの間、まるで眼前の壁と対話でもするかのように向き合っていた。それから息を吐き出すと、おいで、準備がいる、と愛の方を振り返り、鈴村と隼の待つ部屋へと踵を返していった。


 * * *


 隼はぶつくさと文句を言いつつも、的確に作業を進めていった。その辺りが、口の減らないこの少年が、豊の事務所で長年の所員である理由だった。現場での作業は、割合、きちんとこなすのだ。

 豊の指示通り、囮の部屋で用いていた機材をすべて大広間に運び込み、壁沿いを中心に設置していく。機材の他に、特殊な化学成分が入った箱を部屋の隅に置き、準備が済むと、一同は早々に部屋を引き上げた。大広間に来る前、室内ではなるべく口を利かないように、という謎の指示が、豊からなされていたためだ。

 そのまま夕方までは待機、と告げられたので、愛と隼は、ぶらぶらと中庭を散歩することにした。木漏れ日が柔らかに影を投げかけ、時折そよぐ風が心地よく感じられる、避暑地らしい夏の午後だった。

 恐らく、あの大広間には、オカガエルに関する特別な何かが在るのだろう。だが、それが何なのかは、まだ事務所に勤めて半年ほどの愛には、まるで見当も付かなかった。それは、彼女よりもよほど長く勤めている隼にとっても同様のようで、二人は木陰を歩きながら、揃って首を傾げていた。

 今回のように、豊だけが一早く合成獣の動向を掴む、というパターンは、愛は以前にも幾度か経験していた。どうして豊は合成獣の気配にあれほど敏いのか、と隼に問うも、さぁな、としか隼は言わなかったのだが、そのあとで腕を組むと、自分でも答えを探しているようだった。

「やっぱりさ、経験値の差じゃん? 俺だってさっぱりだからな」

「豊さんはこの業界、そんなに長いの?」

「っていうよりもさ。元々が付属の施設で育ってるだろ?」

 国が運営していた合成獣の研究所は、敷地内に児童の保育施設を有していた。研究所の最高責任者である博士が、私費を投じて併設した物で、所属していた研究員たちの実子の他に、不遇な子供たちを博士が直々に引き取って養育していたという。豊と新田は後者に当たる、その施設の出身だった。

「中でも、所長は特に博士と親しくて、こっそり研究所にも出入りしてたらしいからな。しょっちゅう合成獣を見てりゃ、それなりに分かるようになるんじゃねぇの」

 そうだったのか、と愛は感じ入った。豊の合成獣との付き合いは、彼女が思っていた以上に長いようだった。

「博士はもともと、医療への応用を目指してバイオ研究をやってたらしいから、合成獣の品種改良の促進は、本当は反対だったんだってさ。『人間が責任を取れない生物を生み出すもんじゃない』って、所長にもよく言ってたらしい」

 結局、本来の意図からは外れた偶然の重なりと、一部の研究員による過激な実験の暴走によって、多種多様な合成獣が生み出されてしまった。そして、研究所の爆発事故を経て、それらは国が責任の取れない領域にまで拡散し、今回のように、生みの親であるはずの人間たちを悩ませている。

 邸内へ戻ると、来たね、と豊が二人を待ち構えていた。鈴村も交えて、日中にセッティングした大広間の作戦について説明する、と言い、これまでに解析したデータの推移をモニターに映し出した。

「作戦って。いったい何なんすか?」

「オカガエルは、そう知能の高い合成獣ではない。その割に、一晩で反応が急変し、罠への掛かりが鈍ったのには、何か別の原因があるはずだ。彼らの行動を牽制するような外部要因が存在している、と考えるのが妥当だろう」

「それって……」

「合成獣は、種類が違っても互いに『共鳴』しあう。――邸内に、より強い力を持つ合成獣がいるんだ」

 豊の見解に、愛と隼は息を呑んだ。『共鳴』というのは、合成獣の人工細胞が持つ特性の一つだったが、その性質が実際に挙動する様を計測したのは、二人にとっては始めての経験だった。

「美術品の破損件数や、センサーでオカガエルの探知数が多かったのも、昨夜、その反応が急激に鈍ったのも、全て大広間の周辺だ。愛も怪しい気配を感じた、と言っていただろう?」

 愛は、自分の感覚に自信はなかったが、豊が日中に大広間の近辺で取っていた行動を思い出した。あれは、付近にいる合成獣の気配を探っていたのか。

「大広間の最奥、あの正面の壁には、裏に空洞があるようだ。……潜んでいる可能性は高い」

 今晩、部屋の中央に誘き出す、と豊は断言した。


 * * *


 時刻は午後十一時を回り、冷え込んだ空気が一階へと降りてきていた。薄暗い大広間の中央、天窓から射す月明かりの下では、四人が息を潜め、静けさの中に時計の音だけが響き渡っていた。

「今だ」

 豊が簡潔な指示を出し、鈴村が装置の蓋を開けた。合成獣を刺激する化学成分が入った箱は、独特の臭いを発し、それはやがて部屋全体へと充満していった。

 一分、二分と時を数えるうち、愛は、自分の心臓の音がいつもより大きく聞こえているのを感じた。呼吸さえもはばかられるような沈黙の中、どこからか、目に見えない気配が近づいてくる。

 ずるり、ずるりという音が、確かに聞こえた気がした。大広間の正面、壁の中央にある古い暖炉の隙間から、まずは頭が覗き出る。続けて、鱗に覆われた長い胴体が姿を見せ、ぐねぐねと身体をうねらせながら、蒼い絨毯の上に全貌を現した。その姿はまるで、背びれを持つ巨大なコブラだ。ふたつの眼の色は緑の体躯に映え、存在感をもって怪しく光っている。アンタレスのような強い赤。

「――久々に、ランク持ちの合成獣と対面できたね」

 言葉の端に高揚したような色を含ませた豊に、シャー、と合成獣が威嚇の声を上げた。その様子は、彼の発した一声に反応したかのようだった。

「気をつけな。奴は人語を解す」

「人間の言葉が分かるんですか!?」

「もっと上のランクになれば、喋る奴もいるさ」

 あっさりと言ってのけた豊は走り出し、下がってな、と愛に告げて、太さ二十センチ、全長三メートルはあろうかという相手の元に駆け寄った。戦闘開始だ。

 合成獣が長大な尾をはたき、近付こうとする豊を撥ねのけた。跳んで間を空けた豊に代わり、隼が横から駆け寄るものの、合成獣が鋭い頭突きを食らわせて、彼をよろめかせる。その隙に後ろから間合いを詰めた豊が、右手で胴体をつかみ、左手で尾を押さえ込もうとするものの、頭は自由を得たままの合成獣が、彼の左腕にガブリ、と噛み付いた。

「豊さん!」

「大丈夫だ。毒はない」

 確かに合成獣には大きな牙もなく、豊は目立った外傷も負わなかったのだが、さも問題なさげだった声音に反発したのか、合成獣は力いっぱいに全身をうねらせ、彼の両手を振り払った。豊は、やっぱり滑るね、と呟き、手袋を外して床にうち捨てる。

 まさか素手で、と愛が思う間にも、豊は合成獣の懐に飛び込み、頭に近い部分を、上手いこと両手で掴みこんだ。反対側からは隼が駆け寄り、合成獣がしならせた尾をギリギリの所でかわすと、胴体の太くなった部分に蹴りを喰らわせる。身悶える相手の尾を、隼が両手で押さえ込み、二人に動きを抑制された合成獣は、大きく鳴き声をあげた。

 これで済んだか、と愛が思ったその時、合成獣に異変が起きた。

 胴体の中ほど、太くなっている部分の背びれが変形を始め、体内から伸びていくように、巨大なトゲとなって左右に伸びていった。それまでには無かった両足が、胴体から見る見るうちに生え始め、一本だった尾は二股に割れていく。全ての変異を終えると、不恰好な翼のようなものを持つ、双つ尾の竜がそこに居た。

 二本になった尾で、合成獣が力任せに隼を振り払う。吹っ飛ばされた隼は、床を滑って背中から壁にぶつかった。大丈夫、と駆け寄る愛に、平気平気、とは答えるものの、背骨を強く打ちつけている様子だ。すぐには動けそうもない。

 合成獣が体をくねらせ、翼の先端で豊の頬を引っかく。薄い切り傷から血を流した豊は、両手で握っていた頭を右手だけに任せ、左手で胴体を掴もうとするが、合成獣の尾が、彼の身体をはたいて邪魔をする。

 合成獣が這い出てきた隙間を塞ぎ、退路を断つ作業を終えた鈴村が駆け出し、死角となる方面から近づくと、豊と格闘する相手の両足が床に付いた所で、手にしていたスタンガンを的確に押し当てた。強烈な電撃に、すさまじい鳴き声をあげる合成獣。

 動きが鈍ったところで、豊が両手で頭を掴みなおし、鈴村が両足を封じる。再び立ち上がった隼が、中央の胴体を押さえ込もうとするも、翼のような突起が邪魔をして上手くいかない。愛は思い切って、じたばたと悶える合成獣の尾に飛びついた。

 尾の付け根を両腕で抱きかかえ、両脚も使って全身で尻尾にしがみつくと、重しを科された合成獣が、すさまじい力で振り落とそうともがいてくる。その機を逃さず、胴体に生えた翼を隼が両手で掴み、全体の動きを封じ込んだ。

 合成獣の胴体、翼の生えた太い部分に向かって、豊が左脚をしならせた。空気を切る音がしたかのような、鋭い脚さばきで蹴りを入れると、合成獣は痺れに全身を弱々しく振るわせた。豊は、両手で掴んでいた頭を左手に持たせると、その付け根に右手で素早く手刀を放った。愛には、彼の手が、月光を浴びて青白く輝いたように見えた。

 脳震盪を起こしたのだろう、合成獣の動きが鈍ったところで、豊はその頭を床へと押し付けると、鱗を数枚むしり取った。懐から取り出した注射器をそこに突き立て、一気に薬剤を注入する。

 合成獣はその巨体を大きく痙攣させたのち、やがて力なく横たわり、完全に動きを失った。激闘の余韻が大広間の壁に吸い込まれると、室内には、ようやく静寂が取り戻される。

 おいしいとこ全部持っていくんだから、と隼は意味不明なぼやきを述べ、大きな溜め息とともに緊張感を吐き出した。


 * * *


 翌朝になると、以前に探知したオカガエルの総数のうち、大半は罠に掛かっていた。この調子なら、あと二、三日ほど設置しておけば大丈夫でしょう、という豊の言葉に、青木が繰り返し頭を下げる。

 彼らが大広間で退治した合成獣は、〔B〕ランクに属するものだった。一体どのような経緯で、いつからこの屋敷に棲み付いていたのかは分からずじまいだったが、広大な邸内の屋根裏を移動して潜み続け、他の害獣や小動物を捕食して生き長らえていたらしい。

 幸いにも、ランク持ちの合成獣は全て、繁殖防止のために生殖機能を除去されていたので、増殖している心配はなかったが、高い知能を駆使して人間から身を隠しており、爆発事故から十数年を経た現在、どこに潜んでいるのかわからない分、厄介な存在だと言えた。

 また、研究所が保持していた合成獣のデータは、爆発事故の際にその大半が失われていたため、事故ののちに駆除された例のない種類については、具体的な情報に乏しく、今回の合成獣も、存在自体がほとんど知られていなかった。

 まぁ、ついでに退治できてよかったんじゃねーの、と言って身体をさする隼の腕には、擦り傷の痕が残っている。彼も、ランク持ちの合成獣を相手にするのは、まだ今回が二度目ということだった。

 午前中いっぱいをかけて、屋敷内に設置した機器を回収し、午後には事務所に引き返す用意を始める。支度が済んだころには日が傾き始め、邸内を吹きぬける風の温度は、秋のように涼しくなっていた。お帰りになられる前に、という青木からの茶席の申し出を断り、撤収した機材を車に積み込んでいった。

 実に世話になった、また何かあれば君たちに頼みたい、と褒めちぎる金子に、豊は社交辞令を返し、とうに十分前には用意の完了を告げた鈴村の元へ歩み寄る。四駆の後部座席で彼らを待つ隼は暇を持て余し、チューインガムを膨らませていた。くちゃくちゃと汚らしい音を立ててガムを噛みながら、おっさん話長ぇよ、と言って、窓から身を乗り出している。

 隣に座る愛は、ランク持ちの合成獣をその身に匿っていた屋敷を窓越しに見やった。ここにやって来た四日前が、はるか遠くに感じられた。

 豊が運転席に乗り込み、エンジンを掛けると、四駆が体を震わせて、彼らが帰る時刻であることを告げた。アクセルが踏み込まれ、バックミラーに映る邸宅の姿がどんどん小さくなっていく。揺れる葉の下を駆ける車の後ろを、緑色の風が吹き抜けていった。

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