合成獣の棲み処 (キメラのすみか)

卯月 慶

〈第一話〉『女子高生の依頼人』

 ――こんな日に訪れる依頼人は大抵、一癖ある難題を持ち込んでくるものだ。

 そんな予感が、ゆたかの胸中で音もなく膨らんでいた。乾いた空気をかき回す強風が、葉の落ちた街路樹の梢にその身を絡ませ、薄雲を目指して空へと駆けていく、芯から冷え込んだ真冬の午後だった。

 彼がこの調査事務所を開いてから既に数年が経っていたが、時折今日のように、妙な予感を携えた日が訪れるものだった。風の悪戯のように、どことなく心が落ち着きをなくして遊び回っている。長年の経験に裏打ちされた勘が、彼の脳内で厄介な依頼の来訪を予告していた。とはいえ今日に限っては、その予報も外れたのかもしれなかった。電話で予約された三時のちょうど五分前に現れたのは、頑固を絵に描いたような老爺でも、こちらの説明に食い下がる婦人でもなく、まだ高校生の物静かな女の子だったからだ。

 豊は窓ガラス越しに冷気をよこした旋風を見送ると、厚いカーテンをざっと閉め、二人分のカップを載せたトレーを持って、応接室のテーブルへと足を向けた。どうぞ、と声を掛けながら客人に紅茶を出すと、緊張の面持ちで俯いていた少女は、ありがとうございます、とぎこちなく頭を下げた。向かい合わせのソファに座っている相手は、まだよわい十五、六といった風情だ。三原みはらあいです、と丁寧に名乗った彼女は、制服を着崩しもせずきちんと身を包み、その身なりと言動は慎ましいものだった。

「俺はここの所長を務める黒川くろかわだ。まずは依頼の内容について、詳しく聞こうか」

 着席した豊の促しに、はい、と返事をして愛は居ずまいを正した。普段は学生など迎えるはずもないこの事務所に、一介の女子高生でしかない彼女が訪ねてきたのには、勿論、相応の理由があった。愛が、強張った声色で用件を切り出した。

「自宅の、火事の原因が知りたいんです」

「二週間前に起きた火災だと言っていたね?」

 予約時に聞き取った、依頼の概要を書いた用紙をめくりながら、豊は愛に問い返した。自宅で不審な火災が起きたが、警察による現場検証の結果に、どうしても納得がいかないんです、と必死な声音で彼女が語っていた、三日前の通話を思い出す。彼の真正面に座る少女が、いやに神妙な顔で頷いた。

「そうです。……両親が、亡くなりました」

 影を帯びて消え入るような言葉に、豊は眉をひそめた。依頼の大まかな内容は電話で聞いていたのだが、その件は初耳だった。

「……お悔やみを言おう。君だけが無事だったのか」

「そうです。夜中だったんですが、私は、叔母の家に外泊していたので……」

 愛は力なくそう答え、自身の足元へと視線を落とした。

 豊は溜め息をついて中空を仰ぎ、彼女が付き添いもなしに応接室を訪れた訳を悟った。この個人事務所が専門にしている分野を考えれば、まず愛のような年頃の依頼人はいないからだ。恐らく叔母は今頃、傷ついた未成年の彼女に代わって、忙しなく役所を飛び回っているのだろう。

 事情を飲み込んだ豊は、再び愛に向き直り、柔らかく声を掛けた。

「原因について、警察は何と?」

「……ガスストーブの、配管の。破裂事故だと、言われました」

 苦々しげに、愛はそう答えた。寒さの最も厳しいこの時期、特に今年の冷え込みはなかなかのもので、全国各地で毎日のように、史上最低を更新する気温が観測されていた。都心部でも、暖房器具を常時稼働させているのはごく普通の状況で、警察の見解は一概に、全くの見当違いとは言えそうにもなかった。だが。

「君は、その結果に納得できなかった」

「だって、おかしいんです! ストーブはまだ新しかったし、清掃だって、きちんとしていました。……それなのに、破裂なんて」

 感情に任せて張り上げられた愛の声は、次第に力を失ってしぼんでいくと、最後には悔しげな色を滲ませて途切れた。その視線は机に落とされ、瞳はどことなく潤んでいるようにも見えた。

 豊は黙ったまま、小さく息を吐いた。彼が営むこの事務所は、慢性的に人員不足ではあったが、幸いにも、今は急ぎの案件が立て込んではいない。新規の依頼が一つ入っても、所員と分担すればこなしていけるだろう。頭の中で予定を反復すると、豊は身を起こした。

「確かに、何らかの外部要因があった可能性は高い。――分かったよ、調査をしよう」

 承諾の返答を聞くや否や、愛は弾かれたように顔を上げ、声を高くして礼を述べた。

「いいんですか? ありがとうございます……!」

 まだ調査も始めていないうちから、感謝しきりといった彼女の語勢に、豊は思わず頬を緩ませた。全く、どの依頼人もこう素直であれば、苦労は少なくて済むのだが。

「礼を言うことはないさ。仕事だからね。……君の都合さえ良ければ、今から現場に行こうか」

 はい、と愛ははきはきと返答し、紅茶を丁寧に飲み干してから席を立った。屋外では寒気が渦を巻き、玄関を出ようとする彼らを待ち構えていた。電線に停まる雀が、一羽また一羽と飛び去っていった。


 * * *


 愛は現在、近隣の市に住む叔母のもとに厄介になっている、と豊に告げた。件の家を目指して大通りを歩む二人の脇を、車が次々と通り抜け、一際冷たい風を起こして吹き付けていった。コート越しにも寒さが伝わるような厳しい気候だった。

「あの、所長さんは……」

 愛は、隣を歩く豊の方を振り向き、自分よりも頭一つ分ほど背の高い相手を見上げながら、恐る恐る声を掛けた。

 豊は、長い黒色の上着と漆黒の長髪を風になびかせ、吹き抜ける寒風など意にも介さぬように堂々と歩みを進めていた。深い闇を纏ったような出で立ちと、その端正な容貌は、余人を寄せ付けぬような静寂のオーラを携えていた。今なお緊張の抜け切らない愛の様子を見て取ったのか、彼は気さくに言葉を返してきた。

「『豊』でいいさ。俺は黒川豊という」

 え、と小さく驚きの声を発した愛に、豊は前方を見据えたまま、構わない、と答える。愛はつかの間、逡巡したのだが、相手の気遣いを無用にするのも気が引け、厚意に甘えて名前で呼びかけることにした。

「あの、豊さんは。いいんですか?」

「何がだい?」

「こんな依頼で、所長さんがわざわざ、自ら現場を見に行くなんて」

 ああ、と言って、豊は軽く笑った。確かに、所長がたった一人で直々に現場へ出向くなど、依頼人である愛にとっては想定外の事態だろう。彼女が必要以上に恐縮しているのも無理はなかった。

「構わないさ。他の案件は、所員に聞き取りと資料集めを頼んでいる最中だ。俺自身は暇人だよ」

「そうですか……」

 豊は自分を暇人だと称したが、横から見る愛にすれば、とてもその言葉通りとは思えない、並々ならぬ風格が彼には備わっていた。

 まだ二十台の半ばを過ぎた辺りという豊が、小さくも自身の名を冠した事務所を持つという事実は、それだけで彼の力量の一端を感じさせる。実際、豊の事務所は分野の依頼を得意とし、その専門性と仕事の正確さにおいては類を見ない評価を持つことを、愛はインターネットの情報で知っていた。

「そういえば君は、どうしてうちの事務所を選んだんだい?」

 豊は雑談のつもりで、何気なくそう問うてみたのだが、その言葉に傍らの依頼人は、ぴくり、と身じろぎした――ような気がした。彼は、不思議そうに隣の少女を見下ろす。

 一瞬、歩みを止めた愛は、豊の方を見ぬまま、小さな声で答えた。

「……どうしても。こちらの事務所に、お願いしたかったんです」

 彼女の硬い声音は、それ以上の追求を受け付けない雰囲気を湛えていた。豊は、そうか、とだけ答え、後は何も言わずに着いて行くことにした。寒風が、沈黙する二人の頭上を舞っていった。


 * * *


 住宅街の一角にある、全焼は免れた戸建ての家に案内され、豊は外観を見やった。人の亡くなる火災が起きた割には、建物自体は大方、今でも支障なく機能しているようだった。

「家全体は、それほど被害を受けなかったようだね」

「そうですね。……火元の部屋だけ、酷いですけど」

 火元は両親の寝室ということだった。屋内に入ると、炎に焼かれた建物に特有の、焦げた臭いがつんと鼻をつく。恐らく両親は逃げ遅れたのだろう、寝室の方に向かって、火災の跡が酷くなっていた。そちらを見ようとしない愛を気遣い、豊はそれ以上の言及を避ける。

 と、廊下の隅にカササ、と何かが動く気配があった。無人の家にはとかく、害獣の類が棲み付きやすい。豊はすかさず反応を示した。

「ツノネズミか」

 害獣の姿さえ、目視で確認せずに種類を判じた豊の様子に、愛は驚いて問い返した。

「足音だけで分かるんですか?」

「専門だからね」

 主の不在となった家に棲み着いたのは、すっかり住宅地の害獣と成り下がった、合成獣ごうせいじゅうのツノネズミだった。一昔前で言うところの新しい鼠は、全身を固い藍色の毛に覆われ、長めの前足と小さな角を持つ。屋根裏にあっという間に群れを成してコロニーを作り、腐食した建材や残飯を食い荒らす。小さな身体で人目の届かない隙間に生息し、駆除が厄介な害獣の代表格でもあった。

 合成獣、それこそが豊の専門分野だ。約二十年前、より優れた医療技術を目指して促進されたはずのバイオ研究は、最終的にろくな成果を残さず、偶然の重なりによって生まれた人工細胞は、本来の目的や用途などお構いなしに独自の進化を続け、より強力に変化へんげしていった。

 そして、人類がかつて目にしたこともない、様々な異形の生物へと変貌を遂げた末に、十数年前に起きた、研究所の大規模な爆発事故で野に拡散し、大から小まで、人間生活のあらゆる場所に棲み付いて現在へと至る。人工細胞に有効な薬剤が開発され、駆除の方法が確立されたのは、ごく近年のことだった。

 それら『合成獣』の関わる事件を専門に扱っているのが、豊の率いる黒川調査事務所なのだ。

「では、寝室を中心にあちこち見せてもらうよ」

「はい。よろしくお願いします」

 鞄から必要な道具の一式を取り出し、調査用の手袋をはめた豊は、手始めに火元である両親の寝室を調べ始めた。落ち着いた風合いであっただろう室内は壁中がすすけ、天井の梁の一部はむき出しとなっていた。出火の要因となったガスストーブの配管は、途中で荒々しくちぎれ、箇所によっては黒く焦げて悪臭を放っている。

 豊はまず配管を丁寧に検め、続けてストーブの本体を精査した。引き続いて寝台、飾り棚と手際よく周囲を検分していく。たった一人でてきぱきと調査を進めていく彼の見事な手腕を、愛は遠目から感心して見つめていた。

 そうして豊は、部屋中を次々に検めていったが、作業中にふと手を止め、彼の邪魔にならないようにと、離れた所から見守っていた愛に声を掛けた。

「この家には、以前から合成獣が多く棲み付いていたようだね」

「そう、ですか……?」

 判然としない愛の返答をよそに、豊は手の内に収めた、薄汚れた黄土色の毛を見つめていた。


 他の部屋も見せてほしい、と言う豊を、愛は居間、台所と続けて案内した。部屋の隅を重点的に検分していった豊は、各所で合成獣の毛を採取した。常人ならまず見落とすような、微細な体毛だ。この腕前が、合成獣の関わる事象の調査を専門としている豊ならではだった。

(各部屋に共通するのは……オナガウサギの毛か)

 オナガウサギは、一般家庭での愛玩用を目的として、品種改良を施されていた合成獣だ。研究所は、本来は副産物であった合成獣を研究対象の主軸に切り替えたのち、外来種の駆除用や愛玩用など、様々な用途に向けて品種の改良を試みたが、結局、どの生物も手に負えなかったというのが実情だった。

 オナガウサギはなかなか人に懐かず、研究所の爆発事故による流出の後は、鋭い牙であちこちを齧り回る厄介な害獣として、一般に定着した。全身に黄土色の体毛を持ち、夏の自然繁殖期には頭頂部だけが紅色に生え変わる。人が手を掛ければ、季節を問わず繁殖が可能なのだが、性質ゆえに上手くいった例はほとんど無かった。

 豊は最後に、愛の私室を調査したい、と告げた。予想外の申し出に一瞬、戸惑いつつも、はい、と承諾した彼女は、彼を自室に案内すると「お茶の用意をします」と言って、足早に台所へと消えた。

 年頃の女の子にしては調度も少なく、装飾も控えめな部屋に足を踏み入れると、豊は室内を一望した。必要最低限の荷物だけを叔母の家に持ち出しているのだろう、大半の私物は、手付かずのまま残されているようだった。木製のシンプルなベッド。整頓された机と椅子。小さめのクローゼット、小説が多めの本棚、そして……隅に積まれたクッション。

 豊は長身を屈め、床に置かれたクッションの一つを手に取った。じっくりと裏表を眺め、表面に付いたほこりを丁寧に摘み取る。クッション自体のけばだった羽毛の合間に、細い紅色の毛が挟まっていた。


 * * *


 一通りの調査を終えた豊が台所に向かうと、愛は、ちょうどお茶の支度を済ませたところだった。仕事が一段落した様子の彼に、遠慮がちに声を掛けてくる。

「お疲れ様です。あの、お茶にしませんか?」

「ありがとう。頂くよ」

 豊はそう答えると、部屋ごとに採取したサンプルを分類して鞄にしまい、食卓の椅子を引いた。丁寧に淹れられた緑茶の香りが漂う中、彼はひとり思索に耽った。

 目の前には依頼人である愛が座り、不安げな面持ちでこちらを見つめている。――さて、今回の結論を、一体どう説明したものか。

「……調査の結果だけれど」

「あ、はい」

 すぐに報告をなされると思ったのか、緊張を強めて身を乗り出した愛を、豊は手で押しとどめた。

 確かに、探し求めていた物はすべて見つけ出した。だが今この場で、真実を告げることは、恐らく最善ではないだろう。数多の現場をこなしてきた彼だからこそ、今回の依頼の裏には、多分に思う所があった。

「事務所で説明をしたいんだ。……手間だろうけど、明日、もう一度来てくれないか」

「分かりました……」

 なぜ時と場所を改めるのだろうかと、愛はやや不思議そうに表情を歪めたが、それでも理由を問い返さずに承諾の返事をした。言葉少なげに茶器を片付ける彼女の様子を、豊はそっと窺い見る。

 互いに帰り支度を済ませ、愛が自宅の鍵をかけると、二人は屋外に出た。時刻は既に夕暮れ時となっており、一層の冷え込みが彼らを襲った。自身の事務所に戻る豊と、叔母の家に向かう愛との間に、無言の風が吹き付ける。明日の約束を再確認し、頭を下げて帰路に着く依頼人の背を、豊はただ、黙ったまま見送った。

 豊が事務所に帰り着くと、受付で彼を出迎えたのは、最年少の所員であるはやとだった。愛と同じ年頃の少年は、幼い頃に両親を亡くし、現在はこの事務所でアルバイトをしている。天然色の明るい頭髪を持った彼は、豊の元にバタバタと駆け寄り、賑やかに声を掛けた。

「所長! 早かったっすね」

「頼んでおいた資料だけれど。明日の夜までに仕上げておいてくれるかな」

「了解っす」

 明快な返答に頷くと、豊は受付を後にして事務室に入った。室内では、落ち着いた雰囲気を纏ったショートヘアの女性が、パソコンに向かって黙々とデータの解析作業を行っている。鈴村すずむらという名の、豊とほぼ歳の違わぬ彼女は、事務室に現れた彼に素早く反応し、モニターから面を上げた。

「所長」

「聞き取りの結果は?」

「一通りの成果は得られました。ファイルにまとめてあります」

「ありがとう」

 再び作業へと没入していった彼女の横を通り抜け、豊は所長室の戸を開いた。執務机の上に鞄を開き、椅子を引いて静かに腰を沈める。

 彼は、鞄からサンプルのケースを三つ取り出すと、黙ったまま、それらを机の上に並べていった。両親の寝室から採取したツノネズミの藍色の毛、ほぼ全ての部屋から見つかったオナガウサギの黄土色の毛、そして、愛の部屋で採取した紅色の毛。

 出先から戻った所長に差し入れようと、豊のカップに紅茶を淹れた隼が所長室を訪れると、部屋の主は何やら考え込みながら、三つのケースを見つめ続けていた。

 敏腕の所長が、あの短時間で、たった一人で調査を済ませた依頼ならば、そう難解な事件ではないはずなのは、一介のアルバイト員である彼にも目に見えていた。だからこそ、複雑な表情を浮かべる豊の姿は、隼にとって意外に感じられた。

「お疲れっすか」

 マグカップを差し出しながらそう声を掛けると、ああ、すまない、との言葉とともに、豊はそれを受け取った。そして、重たげなその口から発された返答は、如何いかんともはっきりとしない内容だった。

「難しい事件ではなかったよ。ただ、伝え方の問題があってね」

「……?」

 隼がその意味を理解するのを待たずに、豊は自身の椅子に背を預けると、半ば独り言のように付け足した。

「明日の朝、もう一度依頼人が来る。……その時に、おのずと答えは出るさ」

 そうっすか、と相槌を打ったきり、会話は途絶えたので、隼はそっと所長室を後にした。扉を後ろ手に閉めながら、相手はいったいどんな依頼人なのだろう、と隼は考える。いつもビジネスライクにてきぱきと仕事を進める所長が、簡単な事件の真相を伝えるのに躊躇するというのは、いったい背後にどんな事情があるのだろうか。

 所長室に残った豊は、隼に手渡された紅茶を一口だけ啜ると、椅子に深く座りなおし、静かにカップを机の上に置いた。まだ幼さの残る依頼人の顔を思い浮かべながら、先ほど一列に並べたケースの一つを、ゆっくりとその手に取る。

 事件のあらましは、既に頭の中に描き出されていた。ただ、導き出した結論をどう伝えるか、それだけが最も重要な点だった。取り上げたサンプルのケースを、手の中でゆっくりと弄ぶ。その中身は、夕日を映したような、鮮やかな紅色の毛だった。


 * * *


 翌日は、よく晴れた穏やかな気候だった。この時期には珍しい暖かな風が、街路樹の枝を優しく揺らして吹き抜けていく。

 事務所の玄関前に立った愛は、少しの間、その戸を叩くのをためらったが、柔らかな追い風に勇気を後押しされ、深呼吸をすると、思い切って重たいノブに手を掛けた。

 扉に取り付けられていたベルの音に振り返った少年と、室内を覗き込んだ愛の目線が合う。ちょうど受付の横にある応接室の支度を終えた所だった隼は、どんな依頼人なのだろう、と勝手にあれこれと想像を巡らせていた相手が、自分とほぼ同じ年頃の少女であることに、内心、酷く驚いた。

「おはようございます。あの……」

「所長っすね。ちょっと待っていて下さい」

 彼が、所長を呼ぶべく慌てて駆け出そうとしたところで、豊の方が、自ら応接室に現れた。

「ああ、おはよう。座っていてくれるかい」

 着席を促された愛は、昨日と同じく、ソファに腰を下ろした。豊は、隼が用意した二人分の紅茶と共に、現場で採取したサンプルのケースを机の上に並べると、隼を他の部屋へと追いやった。テーブルを挟んで反対側の席に着き、真向かいに座る愛の姿を見つめる。

 まだ、あどけなさの残る顔立ちだった。大人しく飾らない雰囲気、素直で純朴な受け答え。それら全てが、両親から深い愛情を注がれてきたのであろう、彼女の育ちの良さを物語っているようだった。

 どこか沈痛な面持ちで自分を見つめ続ける、豊の複雑な表情に気付いた愛は、遠慮がちに彼に声を掛けた。

「豊さん……?」

 豊は心中で、小さく息を吐いた。緊張しているはずなのに、こちらを気遣っているのだろう、控えめな問い掛けの言葉。心優しい彼女が傷付くことは分かっていたが、それでもこの事実を突き付けるのは、他ならぬ愛自身の望みであるはずだった。

 豊は覚悟を決め、決然とした声音で語り始める。

「結論から言おう。君は」

 ぴくり、と愛が身を震わせる。今度は気のせいではなく、明らかに身を硬くした彼女の姿があった。

 豊は改めて、眼前に座している依頼人に、真正面から相対した。

 まだ高校の一年だという、育ての親の庇護を少しずつ抜け出していくはずの年頃。そしていつかはその両親に、自分に注いでくれた愛情の恩返しをしたいと願う。そんな未来が訪れることを、疑いもなく信じてきたであろう彼女が、その全てを失って、今ここに座っている。

 だがそれは、ある意味では彼女自身が招いた事態であることを、豊はとうに見抜いていた。

「両親を殺したのは自分だと思っている。そうだろう?」


 * * *


「大丈夫っすかね」

 応接室を追い出された隼は、事務室で鈴村と共に書類仕事をしていた。と言っても、順調に業務を進めているのは鈴村だけで、隼はどこか落ち着かなげに、応接室の方をちらちらと窺っていた。

「依頼人が心配なのですか」

 いつでも冷静な物言いをする鈴村は、振り返りもせずに自身の作業を続けたまま、さらりと返事をした。問われた隼の方は、うーん、と考え込むように首を傾げると、次の言葉を探し始めた。

「なーんか、心配っていうか……。『訳あり』、って感じがするんすよね」

 普段の鈴村であれば、仕事を進めておかないと、後で所長に怒られますよ、と忠告して会話を切り上げたのだろうが、今回はそうしなかった。隼の発言の一点に、特別な感情を覚えたためだ。

「私たちと同じ、ですか」

 そう言ってから、鈴村は作業の手を止め、机から顔を上げてまっすぐに隼を見据えた。滅多に見せることのない、彼女の微かな笑みは、彼の目にはどこか意味ありげに映った。

 その表情を正面から受け止めた隼は、まあ分かんないっすけど、と言い訳のように返事をして、そっと視線を移した。応接室のドアの先、彼らと似通ったを持つはずの依頼人が、そこには居るのだった。


 * * *


「……どうし、て」

 呆然とした愛が、それ以上の言葉を口から紡ぎ出す前に、豊は机の上のサンプルを二つ、手に取った。火元となったストーブの近辺で見つけた、薄汚れた黄土色の毛。そして、愛の部屋で採取した、紅色の毛だった。

「君はあの家で、両親に隠れてオナガウサギの世話をしていた。そうだね?」

 責めるでもなく、ただ淡々と述べられた確認の問い掛けに、返事は無かった。事実を問いただす彼を直視できないかのように、正面から外された愛の視線は、やや俯いて中空を見つめていた。その沈黙を肯定と取り、豊は言葉を続けた。

「オナガウサギは害獣だ。――現在ではね。しかし、元々は愛玩用の合成獣として改良された」

 そう言って、手に取ったサンプルを二つ、愛の前に並べた。向かいに座る彼女は、それを見たくないとでもいうように、視線は更に下を向いた。

「品種としては明らかに失敗作だった。ほとんどの人間に懐かなかったんだ」

 俯く愛の表情は窺えないままだ。豊はそれに気付かないふりをし、更に話を続ける。

「だが、ごく稀に、飼い馴らそうとする人間に、多少は懐くことがある。君も、その一人だった」

「……わたし、」

 それまで沈黙を続けていた愛の、やっとの思いで絞り出したような声音は、震えていた。昨日、両親の死を告白した時と似つつも、全く違う意味合いの、悔しげな色を含ませて。それはまるで、懺悔のような述懐だった。

「可哀想だと、思って。人間の勝手で、生まれた生き物が、今度は害獣だって、勝手に駆除されて。……もし誰かが、飼えれば、そうじゃないって、言ってくれる人もいるって……」

「そうだね」

 対する豊の返答は、驚くほど素っ気なかった。愛は反射的に面を上げ、目の端に浮いた涙にも気付かず、必死になって言葉を続けた。

「私の、せいなんです。世話をしてたから。……両親が、死んだのも」

「――君が世話をすることで、オナガウサギが繁殖期に入ったから」

「……、はい……」

 一般的に、繁殖期に入った生物は警戒心を強める。既に飼い慣らされた個体であっても、マーキングやストレスによる物齧りといった行動の頻度が増加する。そうして、オナガウサギは、ストーブの配管を齧り取った。

「今回の件は、自然に起きた事象であれば、ただの事故に過ぎない。……でも、害獣が繁殖期に入ったのは、君の責任だと言える」

 繁殖期に入ったことを示す、紅色の体毛。そして、オナガウサギの自然繁殖期は、夏。

「だからと言って、両親が死んだことまで、君の責任にはならないさ」

「でも……!」

「君はこのあと、あの家で自殺するつもりだったんだろう?」

 豊が初めて発した厳しい声に、びくり、と愛は大きく身震いした。硬直して言葉も継げないまま、目の前の相手を見つめ返す。彼女に向けられていた表情は、とても、険しかった。

「君の部屋の押入れから、ロープと練炭を見つけたよ。……女の子の部屋にしては、似つかわしくない持ち物だ」

 愛はただ、黙って深くうなだれるしかなかった。

 両親が死んだ責任は、例えまだ誰も知らなくとも、自分にある。あの火災の原因が、ちぎれたガスの配管だと分かってから、ずっと、その事実を内に抱え続けてきた。そう思い詰めてきたし、そうだ、と誰かに認めて欲しかった。――そして、周囲から真相を責められれば、自分はようやく死ぬことができる、と。

 誰かに暴いて欲しかったはずの真実は、だが容赦なく彼女の心を責め立てた。これだけの苦しい思いをするなら、いっそ、誰に気付かれずとも、もっと早く両親の後を追ってしまえば良かったのだろうか? そんな思考に取り憑かれるほど、愛の胸中は深い自責の念に囚われ、瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れだした。

 そんな愛の様子を無視するかのように、豊は立ち上がると、唐突にその宣告をした。

「明日から、ここに来るんだ」

 突然なされた宣言に、愛は何も考えられないまま顔を上げ、潤んだ視界でぼんやりと豊を見つめた。言葉の主は彼女に背を向けており、どのような表情をしているのか、窺うことはできなかった。愛の苦悩を知ってか知らずか、豊は更に続けた。

「両親の死を自分のせいにして、命を絶つのは簡単だ。――君がうちの事務所に依頼したのも、この真相を誰かに気付いてもらうためだろう」

 豊は、窓辺に向かって二歩、静かに歩みを進める。屋外から応接室に差し込む日差しは、この場に似つかわしくないほど優しかった。まるで、いたたまれない愛の心中を労わるかのように。

「だが、その事実を背負ったまま生き抜くのが君の責任だ。死なせて楽にはしないさ」

(……そう。僕でさえ、まだ生きているのだから)

 心中の独白は、誰の耳にも入らないが。それでも。

「だって。……私、生きてる意味なんて、」

 涙をこぼしてかぶりを振る愛を振り返ると、豊はただはっきりと言葉を続けた。

「だから、明日からここに来るんだ。事務所の人手は足りていない。君がここを手伝うんだ」

 一方的な口調による、命令にも近い言葉。だがそれは、彼女の救いとなるはずの道標しるべ

「――死なせはしないさ」

 最後に呟いた一言は、誰に向けたものだったか、判別はつかない。


 * * *


 泣き腫らし続けていた愛が、ようやく落ち着いた気配を見せると、隼はほっとした表情で紅茶のおかわりを差し出した。愛は、マグカップを両手で受け取り、ゆっくりとその中身を飲み干していく。

 隼が我慢しきれずに応接室を覗き込んだとき、声も上げずにむせび泣いていた愛をよそに書類をしたためていた豊は、彼女は明日からここの所員になる、後はよろしく、とだけ事務的に隼に告げて、所長室へと引き上げてしまった。

 泣きじゃくりながら自身の事情を吐露した愛に、隼は、そっか、とだけ言葉を掛け、その後はただ黙ったまま傍にいて、彼女が落ち着くのを待っていた。もっとも、愛にとって何よりも必要だったのは、その無言の優しさだった。豊が調査の結果を昨日、説明しなかったのも、あの家に彼女を独り残さないための計らいだった。

「まぁ、ここの所員なんて、みんな事情持ちばっかりだしな。……そう人数がいるわけでもないけどね」

「……隼さんも、ですか……?」

 愛はようやっと涙をぬぐうと、長い時間をかけて自分を慰めてくれた相手を見つめ直す。隼は飄々とした雰囲気で、彼女にあっさりと自身の『事情』を告げた。

「ああ。俺の両親、二人とも研究員だったからさ。あん時の爆発事故で死んでんの」

 隼はあっさりとそう告げたのだが、とんでもない内容に、思わず愛はぎくりと身構え直した。「研究所の爆発事故」といえば、当然、合成獣が市井に棲み付くきっかけとなった、十数年前のあの惨事のことに違いなかった。彼の年齢からすれば、両親を失ったのは、ほんの赤ん坊の頃ではないか。

「俺はほとんど覚えてないからさ、気にしようも無いんだけど。だからこっちにも気ぃ使うなよ、事故じゃあしょうがねぇし。この話も、皆に言ってるしさ」

 隼は、聞く側の異論を挟ませぬような口振りでそう括ると、向かいのソファにどっかとあぐらをかいて座り、ずずっと音を立ててカップから紅茶を啜った。言葉を失っていた愛は、はっと我に返ると、隼が先に告げた内容を思い返し、控えめに彼へ問いかけた。

「……豊、さんも。何か、事情があるんですか……?」

 所長ね、と曖昧に答えると、隼はいったん彼女から視線を外し、ぽりぽりと頬を掻いた。その様子は中身を言うべきかより、どう説明するかを考えているようだった。

「所長はさ、研究所の付属施設で育ったんだ」

「! あの、付属の保育施設で……?」

「そう。俺は、じーちゃんとばーちゃん家で育ったから、あそこの出じゃないんだけど。博士がさ、虐待に遭った子供とか、孤児を引き取ってたっていうじゃん? 所長も肉親が居なかったから、博士が自分の親みたいなものだった、ってよく言ってるよ」

 研究所の責任者であった博士は、その暖かい人柄で知られ、半ば私費で併設した保育施設で、よく子供たちの相手をしていた、という話は、愛も以前に聞き及んでいた。

 だが、博士も職員も子供たちも皆、研究所の爆発事故で死んだ。驚異的な生命力を持つ合成獣の一部だけが、生き残って野外に逃げ出し、化学物質の汚染と共に周囲へと拡散していった。事故を期に、バイオ研究はすっかり廃れてしまい、特殊な薬剤が合成獣に有効であることが判明したのは事故から数年後、すでに合成獣が一般市民の生活圏にまで棲み付いた後だった。

「だから、豊さんは、あんなに合成獣に詳しいんですね……」

 隼は、一人納得する愛に頷いてみせると、そろりと周囲の様子を窺ってから、とっておきの話をする、といった風情で人差し指を立て、小声でこっそりと話を続けた。

「まぁね。それからもう一つ」

「……?」

「こっちは、本当に内緒だけど。所長は、指定〔S〕ランクの合成獣の行方を追ってるらしい」

 驚くべき内容を聞かされた愛は、そんな話を自分などにして良いのだろうか、という考えよりも、興味心が上回ってしまい、思わず息をのんで問い返した。

「〔S〕ランクって。特殊危険レベルの」

「そそ。研究所から脱走した中でも、一等危険な奴ら。幸い、一般人が巻き込まれるような事件はまだ一度も起きてないけど、それも単なる偶然かもしれないしね」

『ランク』というのは、身体構造・知能・特殊技能などが特に上位である、と判断された合成獣にのみ付与されている等級だ。研究所で培養されていた往時にも、とりわけ厳重な管理下に置かれていた、とされている。片手で数えるほどしか存在しない〔S〕ランクを筆頭に、それ以下は〔A〕から〔C〕ランクまで増えていき、その総数は三十種を超える。

 そして、ランク付けがなされた合成獣の中でも、最上級の〔S〕ランクに位置付けられているのは、特殊危険レベルに指定されている数個体のみだ。愛のような一般人の耳には、その情報も、都市伝説とも評されるべき噂話程度しか入ってこない。

 豊が世話になっていたという研究所の博士は、それらの最高責任者でもあったはずで、生き残った豊は、博士への恩義から、野に拡散した合成獣の始末を請け負っているのではないか、というのが隼の見解だった。不確かな話とはいえ、関心を惹かれる内容に、愛もつい、我を忘れて聞き入ってしまう。

「こうやって、合成獣絡みの事件が専門の事務所をやっていれば、その筋から極秘レベルの情報も入ってくるかもしれないだろ。本当はそっちが目的なんじゃないか、と俺は睨んでる」

「また、俺の話でもしているのか」

 所長、と情けない声を発した隼をよそに、アルバイト員の契約書類を携えて現れた豊が苦笑を覗かせた。とはいえ、その語気は柔らかく、すっかり落ち着いた様子の愛に優しげな表情を向けていた。隼のお喋りにはもう慣れっこだ、といった雰囲気でもある。

「酷いっすよ、話の途中で入ってくるなんて」

「俺が昨日頼んだ資料はまとめたのか? 今日の夜までに、と言っておいたはずだが」

 やっべ、と言って急に慌てふためく隼の仕草に、愛もつい笑みを浮かべた。その姿を見て安堵した豊は、隼を資料室に送り出すと、愛にアルバイトの説明を始めた。まだ遠い春を思わせるような、穏やかな昼前の空気が、彼らを温かく包みこんでいた。


 * * *


 新緑の木々が青空に映える、爽やかな風が心地よい初夏の午後。愛が豊の事務所に依頼を持ち込んでから、既に四ヶ月が過ぎようとしていた。

「こんにちは」

 学業を終えた愛が朗らかに戸を開けば、カラン、と扉のベルが軽やかな音を立てた。応接室の豊と隼が、振り向いて彼女を出迎える。鈴村は恐らく事務室にいるのだろう。

「来たね。テストは無事に終わったかい?」

 愛は一学期の中間試験のため、一週間ほど事務所を留守にしており、今日がテスト明けの日だった。鞄を下ろしながら頷き、笑顔で返答をする。

「はい、何とか。隼はもう終わったの?」

「俺は通信制だからいーの。……って耳引っ張らないで下さいよ、所長」

 通信制の高校だろうと、試験の結果によって落第する事に変わりはなく、いつもと同じ調子の隼に豊が釘を刺した。へーい、と返事だけはするものの、実際にどの程度勉強するのかは、全く分かったものではない。

 相変わらずの遣り取りを続ける二人に愛は笑うと、豊から今日の予約リストを受け取って机に着いた。受付での応対業務は、すっかり彼女の役割になっていた。

「四時過ぎに藤村さんが見える予定だ。その前に昨日の資料を片付けておきたい」

「分かりました。事務所に来られたらお知らせします」

 頼むよ、と言って豊は所長室へと足を向け、ふてくされた様子の隼も資料室へと消えた。全員分のお茶を淹れ、予約のリストをめくっていた愛の元に、今日も新たな依頼の電話が掛かってくる。

「はい、黒川調査事務所です」

『もしもし。ご相談したい事があるんですが……』


 ――合成獣が引き起こす依頼の数々が、今日も舞い込んでくる。

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