「……夢、なのか?」


 結論からいってしまえば、ナツキは既に限界を超えて疲弊し、切羽詰まっていた。

 昨年の働き過ぎを反省して労働量を減らせば業務が破綻し、破綻した業務を立て直さんと新規人材が投入されれば育成や管理に手間を取られて業務が進まず。ナツキの過重労働は母の内助の功があったからこそギリギリ保てていたのだが、父の入院で、それも途絶えてしまった。上手くいかないことを上げれば、もっと他にも色々とあったが――ざっと思いつく限りで、そんなところだ。

 それでも父が倒れてからの最初の数日は、何とか回せていた。父の見舞いやらで忙しい母に代わって午前中に家事をし、正午に職場へ出て深夜十二時に家へ帰る。が、そんな無茶がそうそう続くはずもなく、次第に仕事中でのミスも増えて業務をまわしきれなくなってくる。「これはいけない」とバイト講師らへ業務をまわそうとするも、どうしたところでナツキがする時より効率も落ちれば質も落ちるので、結局は任せた仕事をナツキが点検し直したりすることになってむしろ業務量が増えてしまう。

 また、仕事中に感情的になってしまうことも増えた。少し前は「ナツキ先生、少し疲れてる?」「生理の日なのかな?」ていどに思われていたが、幾許もしないうちに「ナツキ先生、おかしいよ」「ビョーキなのかな?」「塾長もメンヘラだし」などという声も聞かれるようになる始末。ちなみに存外、教室内の内緒話というものは聞こえるもので、ナツキ当人もそれらの噂話をおおよそ把握していたわけだが――それがまた、彼にとっては辛いことだった。


「あなたに、悪縁が見えるわね」


 そうして疲れ切った心と体で深夜の住宅街を歩いていたとき、ナツキはその少女に遭遇したのだ。

 身の丈ほどもある巨大な握り鋏を小脇に抱えた、赤毛赤目の和装少女である。

 自らを『赤い糸切りのリナ』と称したその少女は「あんたのその悪縁……特別に、切ったげるわよ!」と、大ハサミをひとふり。

 ジョキンと、何か硬いものを挟み切るような音が響いたと思ったら、目の端には赤い何かがばしゃりとまき散らされ「もしかして、俺、首でも切られたんじゃ……」とナツキはありもしない想像をしてしまったわけだが――


「うわぁっっ!」


 と、次の瞬間には、ナツキは声を上げながら飛び起きていた。

 気が付けば、ナツキは自室のベッドの上。

 枕もとの目覚ましは朝六時を示し、いつもの起床時間であることを報せている。

 首元に手をあてがい、血の赤がついていないことを確認し――そこでようやく、ホッと胸をなでおろす。

「……夢、なのか?」

 まるでホラー作品の死亡フラグみたいだなと自嘲しながら、ナツキはつぶやく。

 が、そうと思うのが一番適切だろう。

 そうとでも思わなければ、あんな超常体験、説明がつかない。

 巨大な握り鋏を振り回した赤目赤毛の和装少女が、深夜に徘徊しているだなんて。

「今日もまた、忙しい毎日が始まるんだ……」

 そうして現実に戻され、疲れ切った体がついに悲鳴を上げ始めるわけだが――そんな折、彼は手を伸ばしたスマホの画面に見慣れぬメッセージがあることに気付く。

 ただ、よくよく見ると、メッセージの発信者は全く知らない相手ではない。

「これは、たしか……オンラインで外注授業をしたことがある、協力塾の社長さん?」

 画面をタップしてみると「ナツキ先生に是非ご相談したことが……」という書き出しの文面である。

 何だろうかと確認してみると、それはどうやら引き抜き(ヘッドハンティング)の話らしい。

 それまでの彼であれば、そういう話が来ても「今の社長には恩義があるから……」と断っていたはずなのだが。

 何故か、この時は「話を聞いてみるぐらいはするか」と思うようになっており――


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