「うーん、入ってくるお金が増えていないのに、出ていくお金が増えている感じか……」


 それでも、結果がなかなか伴わないことというのは、間々あるのだろう。

 昨年の夏期講習中に体調を崩して入院してから、ナツキの担当する『キャンパス駅前教室』の業績は、黒字こそ維持しているが微減続きだ。

 ナツキに多大な負担を強いていたのだろうと悔いた社長が「ナツキくんが休めるように」と、アルバイト講師や新入社員を増やしてくれてはいる。

 が、ナツキの采配の仕方がまずいのか、せっかく社長が増員してくれたというのにまるで生かせていない感があった。


「うーん、入ってくるお金が増えていないのに、出ていくお金が増えている感じか……」


 その日はアルバイト講師のタナカに授業を任せ、ナツキは経営関係の書類とにらみ合っていた。

 塾業は「新入社員がすぐに店舗を任される」ことが多いため、経営実態が飲食業などに近いと称されることもある。

 が、飲食などとの決定的な違いはというと、飲食経営にとって一番頭の痛い食材廃棄などの問題が一切ないということだろうか。

 その分、経営学的には、ずっと易い業種のはずなのだが――実態は何故か、廃業率がやけに高いのが塾業なのだった。

「駅前の好立地だから、テナント料が高い……っていうのは仕方がないか」

 サービス業は原材料費がかからず、濡れ手に粟などと思われがちだ。

 が、それは同時に「目に見える質を大きく取り繕う必要がある」ので、まずはそこに予算がかかる。

 駅前の好立地に目立つ看板を掲げていることなども、その典型だ。

「あー、そうだ。あとは、来月のシフトも組まないとだが……」

 さらに飲食の『原材料』に相当するのが『人材』、すなわち人件費で――実態の本質はさておくとしても、ここに一番費用がかかる。

 これが本当に頭の痛い問題で、人間の価値を客観的かつ公平確実に判断する方法というのは存在しないので、結果的にかなりのどんぶり勘定をしてしまう。

 最近は時間対効果タイムパフォーマンスが叫ばれているのも悩ましく、せっかく優秀な人材を得ても「効率悪いので」と辞めてしまうこともあれば、「この日は都合が悪いので」とシフト厳選されて「名簿上はたくさん人がいるのに誰もシフトに入れない」となってしまうことも非常に多い。

 結果的に、それでさらなる増員を強いられ、しかしシフトには限りがあるので「入りたいと思った日に他の人がいて入れなかった」となって、さらにシフト申し込みが先細るという悪循環に陥る。

「あとは、授業料の焦げ付き、か……」

 さらに塾業において一番厄介なのが、この授業料収入だった。

 業界関係者でないと信じがたいかもしれないが――この授業料を滞納する保護者というのが、存外多い。これが普通のサービス業ならば「金払わないのだったらサービス提供しない」となるのだが、塾業の場合は「金を払うのは保護者」で「サービスを受けるのは子供」なのだ。授業料を払わない保護者が悪いのは間違いないのだが、その悪事の報いを子供に向けるのは間違っている――などと考えてしまい、つい「子供に罪はないから」と授業を提供してしまいがちなのが、聖人君子たらんとするものが多い教育業関係者なのである。滞納の理由はさまざまだが、それが経済的困窮に根差すものであったのなら「なんとかしてやりたい」などと思ってしまいがちなのも、さらにこれらの傾向を加速させる。

 物質的なやり取りがないサービス業というのが、提供する方としても提供を受ける方としても、物質的な実感を欠きやすいというのも問題だ。「経済的理由で払えない」というのはまだマシなほうで、存外「特に理由もないけど払い忘れた」という保護者も相当数いる。これを「そういうこともありますよね」ぐらいで済ませてしまう教室経営者も少なくなく、これは「自分は教育者であって経営者ではない」という妙な自尊心を持っているものが多いためだろう。さらに、やはりここでも「金を払うのとサービスを受ける人間が違う」ことが問題となるわけで、「保護者に催促したくても連絡がつかない」のに「子供はちゃんと真面目に塾に来てくれる」などという状況が生じてしまうと、そのままズルズルと不払いが続く。他の業種の場合「不払いだけど教室にも来ない」ならば、いないものと扱ってサービスを提供しなければコストも発生しないのだが、塾業の場合はそうもいかない。ことに「授業料滞納しているけど真面目な生徒」と「授業料たくさん払ってくれるけど不真面目な生徒」だと、現場の講師らにとっては前者の方が印象が良く、就業意欲も刺激するので、経営者としては非情に切りづらいのだ。

 それがひとりふたり、あるいはほんの一ヶ月や二ヶ月ぐらいのことならば、確かに何とかなるかもしれない。場合によっては、教室長が慈善活動的精神で、ポケットマネーで負担するなどということもあるだろう。だが、それが半年一年、五人十人と増えていき――気が付けば一千万円を超す負債になることさえある。もちろん、それは極端な例ではあるのだが、それでも一教室で数百万円の授業料未納というのは割とよく聞く話なのだ。ひどい場合だと、そうしたあからさまな焦げ付きを放置しておいて「金がない」と、講師らへの給与を渋る例などもあるわけだが――その点、この『学習塾ふぁくとりぃ』はそこそこ以上の給与をしっかり払っているのであるし、新しい講師を積極的に雇うなどしている善良企業なのは間違いない。そして、そんな善良な社長(塾長)だからこそ、ナツキも赤字解消のために全力を尽くしたいと思えるわけだ。


「うちの塾長は、ほら、メンヘラだからさ」


 だから、とある日。

 講師のひとりがそんなことを口にしているのを聞いた日には、耳を疑ったものである。

「タナカ、先生……?」

 それは塾の授業中、講師と生徒との何気ない会話でのこと。

 耳を疑うような言葉を口にしたのは――つい最近入ってきたばかりの女性講師、タナカである。

 最初こそ塾業未経験だということで不慣れさは目立ったものの、最近だと色々と任せることができるようになってきた。

 人手が足りない中、ようやく入ってくれた希少な理系講師だったということもあり、シフト調整は重宝して出勤数も教室内だといつの間にかトップクラスの有望株だったのだが――

「ちょっと、頭がアレなところがあるからさ、塾長は」

 などと、生徒に話すタナカ講師は、まったく悪びれた様子もない。

 どころか、生徒からウケをとれたことがうれしいのか「あはは」と、声をあげて笑ってすらいる。

 生徒も生徒で、そんなタナカ講師の言葉に「やっぱ、そーだよねー」などと同調しているのだ。

「何が、そんなに面白いっていうんだ……?」

 その光景を見て、ナツキは文字通り、目の前が真っ暗になるような感覚に陥っていた。スっと脳内の血が音を立てて引いていく感触があったかと思うと、視界内に赤や青の光が明滅し、ほどなく視界の半分が黒く欠けたのだ――ちょうど、昨年の夏、体調を崩して緊急入院したときのように。

 昨年は立っているときにその状態となって、思わずバランスを崩して倒れてしまったものだが――幸い、今は教室長席に座っている状態だったので、ぐっとひじ掛けを強く握りしめ、掌を額に当て続けることで耐える。五秒、十秒――やけに時間が長く感じ、耳もおかしくなっているのか、教室内の生徒たちの声がわんわんと反響して聞こえるのだが、それも十秒、二十秒と耐えているうちになんとか回復してくる。「今回は、大丈夫だ……」と自分へ言い聞かせ、深呼吸をひとつ、ふたつ。それで、視界も少しずつ回復してくる。完全には治ったわけではなく、あくまでも小康状態ではあるものの、どんどん悪化して意識を失う――などというようなことは、とりあえずは防げそうだ。昨年と同じ轍は踏まないというナツキの強い意志と、失態を経験したからこその対処が功を奏した形だ。

 昨年に体調を崩してもなお、ナツキが身を削るような職務を辞めない理由のひとつは、もちろん塾業が好きだったからというのもある。ただ、それもあくまでも数多くある理由のひとつにしかすぎない。例えば、それと同じぐらい彼の中で大きな理由となっていたのが、学習塾ふぁくとりぃ社長への敬愛と恩義だ。様々な社会事情も重なり、大学を卒業した後すぐに就職先が決まらなかったナツキは、二年ほど就職浪人をして両親に心配をかけ続けてきたのだが――そんな彼を正社員として迎え、責任ある教室長の役を任せてくれたのが社長なのだ。その頃は運営教室もふたつだったのだが、社長は何と、そこで社運をかけた新規開塾の三教室目をまるっと任せてくれたのだ。「キミのような人材の力が必要なんだ」という台詞を、ナツキは今も覚えている。学生時代にこそ学習塾のバイト経験はあったナツキだが、それだけでしかない就職浪人の彼に、社長はそうまで言って引き立ててくれた。だからこそ、ナツキはその期待に応えるように精一杯だったのだし、実績を上げて結果が出てきて「さすがだよ、ナツキくん!」と社長に労われれば感動もした。自分がこの学習塾ふぁくとりぃを支えているという自負があったし、就職浪人としてくすぶり続けてきた自分に、こうして活躍できる場を用意してくれた社長への恩義も忘れることはなかった。自分の成功はあくまでも社長の采配あってこそのものであり、自分一人では決してなしえなかったものだと。

 だから、その大事な社長への「うちの塾長はメンヘラだ」などという侮辱は、彼にとっては到底、看過できるようなものではない。それを知って放置しておくようなことは、ナツキには決してできはしない。


「社長のことを、バカにするんじゃない! 社長は……社長は、素晴らしい人なんだ!」


 ゆえに、それは仕方がないことなのだった。

 教室長席を「バンッ」と、教室内の誰もが振り向くほどに強く叩いたのは、あくまでもふらつく体を支える必要があったから。決して、威圧することが目的ではなかったのだし、感情が制御できなくなったからだというわけでもない。大声を上げてしまったのも、先ほどのわんわんと反響していた名残があって、適切な声量を調整するのに失敗したからであって、これも決して怒鳴りつけようとしたわけではない。歯を食いしばり、目が血走っていたのも、ともすれば飛んでしまいそうな意識を懸命につなぎとめていたからだ。

 が、そんなナツキの内情を、いったいどれほどの人間が理解できただろうか。客観的に見れば、唐突に、塾の教室長が鬼気迫る形相で机を殴打して叫び出した形だ。それまでは講師の指導する声やそれに応じる声、あとは多少なりとも私語の類などが飛び交っていたのだが――それらが一斉に途絶え、しんとした静寂が教室内を包み込む。静かに自学自習をしていた生徒などは、突然の怒声に何事かと顔を上げる。

 ただ、よりにもよって、今一番の問題となっている講師と生徒――「社長はメンヘラ」などといっていたタナカ講師などは涼しい顔で、「さっ、それじゃあ次は……」などと、何事もなかったかのような顔で生徒への授業を続けようとする。ああ、これは良くない。きっちり指導してやらなければならないだろうと、ナツキがふらりとそちらへ向かおうとするわけだが――

「あの、ナツキ先生……?」

 と、そんなときに恐る恐るといったふうにナツキへ声をかけてきたのは、先日入塾したばかりの高校生女子だった。

 今の時間帯は小中学生が主であり、生徒の中では彼女が最年長なので、気をつかったのだろうか。

 そこまで認識したところで、スっと、ナツキはそれまでの熱が冷めて普段の冷静さが少し戻ってくる。

「……なんだい、半田さん?」

「ナツキ先生、具合、悪そうですけれど。……大丈夫ですか?」

 言いながら、その女子生徒はナツキの顔色を伺うように、覗き込んでくる。

 鳶色の瞳が、ナツキのことを見て、不安げに揺れていた。

 もしかすれば、このまま体調不良を疑われて、また入院なんてことになってしまうのではないか――ふと、ナツキの脳裏によぎったのは、そんなことだ。

「な、なんでもない……! 何でも、ないから!」

「で、でも……」

「そうだ、半田さん。次のテストの対策日程、考えてなかったよね。せっかくだから、今、やっちゃおうか」

 と、なおも食い下がろうとする女子生徒に、ナツキは話題をそらして対応する。

 そんな彼に、少女は不満がありそうな顔だったが――

「そう、ですね。……ええ、お願いします」

 すぐに何かを察したのか、存外、素直に応じてくれる。

 ナツキとしては、それで上手く誤魔化せたと思っていたものの。

 このとき既に、一部の生徒からは「最近のナツキ先生は少しおかしいよ」という声が、上がり始めている。

 それでもナツキは、なんとか現状を繕おうと努力したわけだが――


「お父さんが、倒れたの」


 悪い話というのは、存外、重なるものである。

 その日、ナツキがいつものように深夜に家へ帰りつくと、疲れ切った顔の母がそういうのだった。

「倒れたって……いつ?」

「今日、仕事場でね。それで……お母さんは、お父さんの入院のお世話しなくちゃだから」

 そういえば今日、晩御飯に出してきたのは「手作りの食事が一番だ」というこだわりがある母にしては珍しい、できあいの総菜だったなとナツキは気付く。

 それだって、わざわざスーパーで買ってくる手間をかけているわけだ。

 ナツキもいい歳した大人なのだから、ご飯の支度が難しいのなら、外で食べてくることだってできたというのに。

 人が好すぎる母は、疲れて帰ってきた息子に余計な手間をかけさせまいと、変に気を使い過ぎなのだ。

「父さんの世話って……。そんな、毎日見舞いに行かないといけないぐらい、悪いの?」

「うぅーん、そんなことはないんだけどねぇ。ほら、お父さんは……ああいう人だから」

 力なく笑う母は、やはりそこでも変に気をつかい過ぎなのだ。

 ナツキがいくら「そこまでする必要はない」といっても、疲れた顔で「そういうわけにもいかないもの」と言う。

 そういえば昨年、ナツキが倒れて一週間ほど検査入院したときにも、母は毎日見舞いに通ってきたものだったか。

「なら……うん、母さんは、父さんの面倒を見てやって。その代わり、俺のことは、いいからさ。晩飯とかは自分で済ませるし、他の家事もできる限り俺がやるから」

「でも、それだと……」

「だから、母さん、無理しないでって。……自覚があるかどうかは知らないけど、母さん、最近は顔色も悪いんだよ。そんなんじゃ、父さんだけじゃなくて……母さんまで倒れるって」

 もしも塾内の誰かが聞けば「それはあなたも同じだ」と言いたくなるだろう台詞だったが、幸か不幸か、この場にはナツキとその母しかいない。

 客観的に見て、疲弊しきっているのはナツキの母よりも、むしろナツキ自身のほうだった。

 あるいは普段のナツキ母なら気付けたのかもしれないが、彼女が疲れ切っているのも事実ではあったので、それを指摘できるほどの余裕はない。

 なので結局「なら、それで。おねがいね」と、彼女もナツキの提案を受け入れてしまうのだった。


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