「……もう、こんな時間になっていたのか」


 室内の電気は既に消され、デスクトップPCの灯りばかりがまぶしい室内。

 時計は、既に二十三時を示していた。


「……もう、こんな時間になっていたのか」


 うぅん、と伸びをしながら、カジュアルスーツ姿の男が呻くように言う。

 この『学習塾ふぁくとりぃ・キャンパス駅前教室』の教室長、ナツキだ。

 まだ二十八歳なのだが、疲れ気味の最近は生徒から「うーん、四十歳ぐらい?」といわれがち。

 そんな、業界内で見ればよくある男のひとりなわけだが――

「ああ、報告書が……まだ、これだけ積まれている。でも、俺がどうにかしないと……」

 実のところ、ナツキは既に、気力体力の限界だった。

 だのに、強い使命感と義務感さえあればできるはずだと、己を叱咤して無理にでも業務をこなそうとする。

 むしろ「少し忙しいぐらいの方がやりがいがある」「これをやり切れば間違いなく評価される」とすら、思っているほどだ。

 昨年の七月には過労から倒れ、一週間ほどの療養を要したのに――そんなことなどすっかり忘れ、自分はまだまだやれると心底から思い込んでしまっている。

「講師の先生たちに、負担をかけるわけにはいかないし……なによりも、仕事は楽しいしな!」

 言ってしまえば、典型的な仕事中毒(ワーカーホリック)だ。

 たしかに彼は塾業が嫌いではないどころか、むしろ生き甲斐だとすら感じていたのは間違いない。

 だが、過ぎたるはなお及ばざるとはよく言ったものだ。

 始業の前に仕事を始めたり、休日返上でオンライン業務をしたりと休む暇もなければ、それがどんなに好きなことであっても気力体力を削りに削る。

「栄養剤を飲めば、まだ、もう少しは……」

 と、ナツキは茶色の小瓶を開けて、最後のひと仕上げとばかりにキリの良いところまで報告書を書きあげる。

 昭和時代の企業戦士のように「二十四時間戦えるか」というと、現実的には無理だということは彼も分かっている。

 が、ナツキという人間の場合は「半分の十二時間ぐらならいけるだろう」と本気で思ってしまっている節があった。

 一般的に「過労死ライン」は残業月八〇時間といわれており、十二時間労働だと月勤務二十日でも余裕で越えてしまうわけなのだが。

「よーし、続きは明日、早めに仕事始めて取り戻すぞ!」

 疲れが頂点に達し、一転して空元気となりながら、誰もいない教室内でナツキは声を上げる。

 彼の勤める塾は大手ではない新興中小企業だったから、彼が良い成績を出すだけで会社の経営は目に見えて向上するわけで――それが楽しくて仕方がない。

 社長や同僚から称賛されて自尊心が満たされるというのもあるが、自分の指導で子供らの学業成績が好転していくのが、何よりもやりがいがを刺激するのだ。

 だから、時計は既に二十三時三十分を示していたが「終電にはギリギリ間に合うし、大丈夫だろう」と、今日もナツキは超過勤務を続ける。

 彼は実家からの通いであり、勤務教室から数キロメートル圏内にあるので、終電まではまだ余裕があるのだった。


「ただいま」


 と、ナツキが自宅へ戻るのは、いつもと同じ深夜十二時半。

 そっと玄関の戸を開けると、起きて待ってくれていたらしい母が深夜ドラマなど見ながら「晩御飯、温める?」などと聞いてくる。

「ああ、お腹空いてるからさ」

 塾業というのはその性質上、夕方四時に勤務に入ってからは休憩時間が皆無なので、就業までは飲料以外の一切を口にできない。

 だから、そこで否やと答える筈もない。

 それに、昨年はこういう場面で「食欲がないから」と何度か食事を抜いて、それで倒れたのだ。

 二の轍を踏まないためにも、食事はしっかりととっておきたいところである。

「そう。……無理、してない?」

 と、小じわの増えた母が気づかわしげに言うものの、ナツキは「無理はしてないよ」と淡く微笑むだけにとどめる。

 むしろナツキとしては、こんな夜遅くまで起きて待ってくれている母の方こそが、疲れてしおれているように思えるのだが。

 どうにも人が好すぎる母は、自分のことよりも、我が子のことばかり気にかけてしまうらしい。

「というか、母さんは、もう寝ていていいよ。あっためるぐらい、自分でできるからさ」

 だからナツキは、電子レンジで晩飯を温め直そうとする母の背を押して、寝室へと促す。

 母は「でも……」と渋ってはいたものの。

「俺も、もう二十八なんだからさ。兄貴だって、同じ歳の時にはひとりで海外暮らしとかしてたんだし。俺ばっかり、過保護だよ」

 と、ナツキは半ば無理矢理に、母を居間から追い出してしまう。

 事実、彼の母は相応に無理して起きていたらしく、寝室へ行ってからはすぐに寝息を立てて寝入ってしまったようである。

 それを確認してから、ようやくナツキは晩飯を温め終え、八時間ぶりの食事につく。

 いや、彼の場合は積もった報告書を消化するため、本来の始業の四時間前――十二時から教室に入っていたので、実に十二時間ぶりの食事だ。

「うん、昨年よりは、ずっと健康的でいい傾向だよ」

 などと、ナツキは半ば本気で信じていたものの。客観的にこの状況を判断するならば、それは実に危うい状況だった。

 彼の場合「偶々、勤務地と近い住居」で「偶々、実家暮らし」で「偶々、親が朝晩の食事を含めた家事全般をやってくれる」だけだ。それでギリギリなんとか回っているが、そのいずれかが欠けていれば、彼の生活は一切が成り立たない。どころか、それでもなお「報告書が溜まっている」のだ。「タイムカードを通す時間を誤魔化す」ことでギリギリ残業時間が規定を超過しないようにしているが、実際には既に労働基準法違反水準。加えて、ナツキが担当している教室の経営はギリギリ黒字ではあるが、会社全体での収支を見るとまだ赤字だから業務に余裕はない。

 ナツキとしては「もっと頑張らないと」と、心の底から思っている。「偶々、勤務地と近い住居」で「偶々、実家暮らし」で「偶々、親が家事全般をやってくれる」という恵まれている環境にある自分だからこそ、他の社員らよりも働かなければならないという強い義務感さえも抱いてしまっているのだ。そして、彼の勤める『学習塾ふぁくとりぃ』の多くのものたちが、そんなナツキのことを頼りにしている。そうして頼りにされているからこそ、また、ナツキはさらに「俺が頑張らないと」という思いを強くしてしまう。

 傍目から見れば、明らかに歪で不公正な悪循環だ。だのに、そのことに当事者であるナツキ自身は気付かない。いや、気付けないからこそ、そんな悪循環の渦中に至ってしまったのかもしれない。その意味では、あるいはナツキの自業自得という見方もあるのかもしれないが、こうした状況というのは塾業に限らず多くの職場で見られることなのだ。だからおそらく、それで切って捨ててしまえるほど簡単な問題ではなく、もっと広い視座でこの手の悪循環を防ぐ方策が必要なのかもしれないが――残念ながらそれが徹底されていないのが、現代社会の抱えた問題なのかもしれなかった。


「えっと、タナカ先生は、授業に入るのは初めてだったよね? なら、今日はまず、雰囲気をつかむとこからやっていこうか」


 あくる日は、いつものように十二時に教室へ入って溜まった授業報告書を仕上げ、それが終わった午後三時半からは新人講師の実地研修だった。

 新人のタナカ講師は近くの大学に通う生物学科の二年生女子で、塾業未経験。

 とはいえ人手不足が深刻な『学習塾ふぁくとりぃ』では貴重な新戦力に違いなく、この新人をいかに育て上げるかが、ナツキの手腕の見せ所だ。

「四時ぐらいになると、小学生の子が来たりするから。まずは、そこから対応学んでいこうか」

 と、できる限り親しみやすい笑みを作っていうと、初々しい女性新人講師は「はい!」と元気の良い返事を返してくれる。

 これは悪くない人材かなと思いながら、ナツキは「今日くる予定の子は、このアプリに表示されている子たちで……」と、業務フローの説明をする。

 最近の若い子らしく生真面目で「ええ、なるほど」と、頷きながら応じてくれる講師タナカ。

 ほどなく小学生の塾生が「こんにちはー」とやってくると、多少のぎこちなさはあれど、悪くない応対をしてくれてナツキは内心安堵する。

「このタブレットを使って、顔認証で出席を取るから。誰が来ているかとかは先生側のこっちのアプリにも反映されているし、顔認証の時に撮影された顔データを参照すれば、生徒の名前の把握とかもしやすいと思うよ」

「へぇー、なるほど。わかりました!」

「あと、できれば生徒のことは、下の名前で呼んであげるといいかな? そういうのが苦手な子もいるし、先生ごとの得手不得手もあるから、全部が全部それでいいともいえないけど……少なくとも、俺はできるだけそうしている」

 この学習塾の場合「基本は自学自習」「開始時と終了時、あとは適時に指導する」という方式だ。講義形式の集団塾やマンツーマン塾の類とは少しやり方が違う。が、それでもナツキは学生バイト時代からマンツーマン方式に慣れていたので、そのやり方を少し取り入れていた。

 もっとも、そういうやり方をしてしまうからこそ生徒がいる間は報告書の作成時間がまったくとれず、教室を閉めたあとなどに業務が溜まってしまうわけなのだが。それらのやり方を取らない他教室の場合、ナツキの担当する『キャンパス駅前教室』ほど業績が上がらず、場合によっては赤字を垂れ流してしまっているというのも事実なのだ。なら、ナツキとしては、マンツーマン式をやめるわけにはいかなかった。

 無論、塾全体の方針とは少し違ってしまっているからこそ、アルバイト講師らへそのやり方を無理強いすることはしない。だからこそ「俺はそうしている」という言い方にとどめたのであるし、仮にタナカ講師がそれにならわなかったとしても、ナツキとしてはとがめるつもりもない。タナカ講師にそれができなかった場合、自分がフォローに回ってマンツーマン的指導をすればよいだけのことだとナツキは思っていたし、事実、これまでもそういうやり方をしてきていた。

 そうして新人指導をする傍ら、「こんにちはー」と続々とやってくる生徒たちに「ああ、こんにちはー」と応じ、授業開始時指導や適時のマンツーマン指導などをこなしていく。その間にも突発的にかかってくる「今日、うちの子をお休みにしたくて……」という保護者からの連絡や「うちの教材使いませんか?」などといった営業などへ対応し、あるいは教室にやって来る教材の宅配に印鑑を押したりする。集中力を切らして遊びだしてしまった小中学生へ「ちょっと静かにしようかー」と指導を入れに行ったりもし、うたたねをしてしまった子を揺すって起こしてやったり。いつも通りの、目まぐるしい業務だ。


「あのー。今日から授業を見てもらうことになった、高校一年の半田ですけどぉー……?」


 極めつけは、この時期に珍しい、新規入塾者の子への対応だ。

 これには少し迷ったものの、新人のタナカ講師へ任せるのも酷だろうということで、ナツキが直接対応することにする。

 一応、この塾は自学自習が前提ということになっているので、慣れている子たちはある程度放っておいても大丈夫なのだ。

 くどいようだが、それを放っておかずにマンツーマン的な指導をしているのは、あくまでもナツキ個人の主義主張でしかない。

「あー、この子への対応は、俺がするから。タナカ先生は、他の子のこと見てて? 何か問題がありそうだったら、俺にまわしてくれればいいけど……まあ、やり方は、生徒たちの方が分かっているだろうから大丈夫だよ」

「は、はい! 頑張ります!」

 という調子で、ナツキは新規入塾者の少女へ向き直り。

「さて、席は好きなところ使ってくれればいいけど……今日は、俺のすぐ傍の、そこにしとこうか?」

 と、その少女を、教室長席のすぐ傍へ案内する。

 先ほどは「できれば下の名前で」などと指導していたナツキだが、高校生女子の場合は少し難しいところがあるので――

「えっと、ハンダさんは高校一年生で……『東高校』に通っているっていうので、間違いないよね?」

「ええ、そうですね。東高校に入ったのはいいんですけど、中間テストの出来が、あまりよくなくて……」

「あはは、なるほど。東高校は、ちょっと学力高めだしねー。それで、この時期の入塾希望……と」

 この地域で一般的に『東高校』と略されるその高校は、学力高めの進学校で、この『学習塾ふぁくとりぃ』でも高校受験時の花形志望校のひとつだ。

 半面、無理して東高校に入ったは良いものの、授業についていけなくなるという話もよく聞く。

 この『キャンパス駅前教室』でも、そうした理由で入塾してくる例は今までもあったのだし、その意味ではこれも典型例のひとつだ。

「テストの結果で一番不安そうなのは、何だったかな? やっぱり、数学とか?」

「はい、因数分解とかが、ちょっと……」

 本社(本教室)側で行なわれたという事前カウンセリングによると、塾に通うのは初めてらしいので、多少の緊張をしているのだろう。

 気恥ずかし気に、肩ほどの長さの栗色髪をいじりながら少女は言う。

「高校になると、数学が急に難しくなるからね。中学ぐらいだと公式暗記して、当てはめて解く練習をみっちり時間かけてやり込めばなんとかなるけど……高校数学は『理解』して解くようにしないと、ちょっと厳しい。偏差値五〇を割るぐらいの高校で使う『簡単な教科書』レベルだと、それでもなんとかなるけど、東高校レベルだと特にそれが顕著さ」

「はあ、なるほど……?」

「あはは、まあ、なかなかピンとこないよね? 要は『ひたすら時間をかければその分だけ結果が出た』中学生の頃とは違って、高校生の勉強は『上手いやり方』をしないといけないということさ。その『上手いやり方』を自力で見つけて、できてしまう人もいるけれど、そうでない人も多い。そして、そういう『上手いやり方』を教えるのが、俺たち塾の先生ってわけだ」

 などと講釈を垂れながら、ナツキは少女の反応を観察する。

 東高校に受かっている以上は相応に賢い子なのは間違いなく、全部が全部といわないでも、ナツキの言葉を大筋で納得している様子だ。

 同じことを言ってもまるで響かない生徒も多いのだが、この半田という少女は『理解』する力が既にある。

 今は単純に、そのとっかかりをつかみ損ねているだけなのだろう。

「『上手いやり方』……ですか?」

「ああ、そうさ。努力は裏切らないとか、努力には値千金の価値があるなんていう人もいるけれど、俺は少し違うと思う。時間には限りがあるのだし、努力したくても体力にだって限界はある。努力なくして何も為せないのは事実だけれど、努力の方向が根本的に間違っていたら、やっぱりそれも何にもならないんだ。だから、半田さんにはぜひとも『上手いやり方』を身につけていってほしいな」

 ナツキは新規の少女に言うも、ふと、自分はどうなのだろうかと思う。

 今自分がしている努力は、時間や体力に見合っているのだろうかと。

 答えは――もちろん、イエスだ。

 少なくとも、彼は、心からそう信じ込んでいる。


 信じていなければ、こうして生徒たちに向き合って、指導することなどできやしない。

 それを否定してしまうのは、生徒たちへの裏切りだ。

 だから、そう信じていなければならない。


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