第10話
中村橋駅に着いた時には、すでに時刻は六時を回っていた。夏なので空はまだ充分明るいとはいえ、駅前商店街にはすでに夕刻ならではの雑然とした、どこかノスタルジックな雰囲気が漂っている。
あの日は……どういうルートで質屋に辿り着いたんだったかな。
少なくとも、駅の北側ではあるのだろう。俺のアパートは駅の北、の、さらに目白通りを超えた先にある。そこは昔ながらの古い住宅街で、俺のような貧乏人向けの安アパートも多い。
その途上、いくつか角を曲がる必要があって、でもあの日は、あくまでもいつも通りの角を曲がったはずで……と、ひとまずいつもの帰宅ルートを辿り始めた俺だったが、ほどなく目白通りに行き着いてしまう。
「この先?」
「……いえ」
目の前を横切る片側二車線の幹線道路を眺めながら、俺は小さくかぶりを振る。店は、確かに目白通りの南側、つまり駅側にあった。それだけははっきりと覚えている。ただ、ここまでのルートでそれらしい建物は一つも見つからなかった。昭和期から建っていそうな古いビルやアパートならそこらじゅうにある。が、あの、古いながらもどこか瀟洒な風情の建物だけは、どれだけ探しても見当たらなかったのだ。
「少なくとも、目白通りの南側だったはずなんです」
「じゃあ、とりあえず駅方面に引き返してみよっか。ルートを変えて」
「はい……」
その後、俺と凛子さんはルートを変えつつ何度も駅と目白通りとの間を往復したが、結局、目指す質屋はどこにも見つからなかった。それらしい跡地すら見当たらない。
「次は、北側を探してみる?」
「いや、確かに南側だったはずなんです。ええ」
あの日、俺は一千万円の入ったアタッシュケースを抱えて目白通りを渡りながら、ここで車に跳ね飛ばされたら、キューブリックの『現金に体を張れ』のラストみたいに派手に札束が散らばるのかな、なんてアホなことを考えていた。なので質屋は、通りの南側で間違いないのだ。
その後も捜索を続けたが、結局、例の質屋は見つからず、凛子さんはぐやしいいいと歯ぎしりしながらバイト先の新宿へと出勤していった。
その凛子さんは別れ際、「見つけたら絶対に報告してよね」と何度も俺に念を押した。あんなガラクタばかりの質屋の何が彼女をそこまで惹きつけるのかはわからないが、俺みたいな貧乏客にわざわざプライベートのLINEを教えるような人だ。あれこれ動機を詮索したところで無意味だろう。
そんな感じで凛子さんとは中村橋駅の改札前で別れ、俺は一人、アパート方面へと向かう。
彼女には捜索を続けると言ったが、俺は正直、どうでもよくなっていた。そもそも、原稿と一緒に創作スキルを売らされた、なんて話自体が俺にしてみれば眉唾だった。
古いおとぎ話じゃあるまいし……。
むしろPTSDと言われた方が俺としてはしっくりくる。担当のダメ出しには慣れているものと思っていた。けど、やはり先日のあれは決定打だったのだ。
実際、あのボツ原稿を質屋に差し出した時は本当に爽快だった。もう二度と、こんなものに関わらなくていい。漫画なんか描かなくていい。あのクソ編集のダメ出しで心を潰されなくていい。
己の無力さに打ちひしがれなくていい。尊敬はされなくとも見下されもしない、ごく普通の暮らしを、真っ当な人生を。……今にして思えば、あの時の俺は、一千万円もの査定額を提示されたことより、あのボツ原稿を手放すことのできた喜びの方が勝っていたように思う。
……ああそうか。
あの時、俺は確かに望んだのだ。創作そのものとの決別を。……でも結局、俺は創ることを捨てられなかった。服を探して渋谷を歩いている間も、俺の粗末な脳味噌はいつだって漫画のことを考えていた。ここで見たもの感じたことを、次の作品にどう活かすべきかと。
結局、俺はそういう奴なんだ。だから。
「……描かせてくれよ、頼むから」
試しに一句、頭の中で俳句を編んでみる。何とかそれを口にしようとして、ほろほろと崩れるイメージに愕然となる。
どうして。
一度でも手放したいなどと願ったことが悪いのか。確かに、あの時の俺の気持ちは嘘じゃなかった。けど、もう一度描きたいと願う今の気持ちだって本物だ。二つの相反する感情の中で揺れて、迷って、そんなの人生じゃよくある話だろう。
だから、なぁ、頼むよ。
もう一度、俺に漫画を描かせてくれ。そのための力を返してくれ。身勝手なのは百も承知だ。それでも俺は、やっぱり漫画を描いていたいんだよ。もう一度、いや何度でも、俺だけの物語を紡ぎたい。俺だけの漫画を描きたい。
俺は……漫画家だ。
誰にも名の知られない、金だってろくに稼げない、毎度毎度編集に原稿を突き返されるだけのド底辺。それでも俺は、漫画家なんだ。その漫画家が、漫画を描けないでどうする。
だから、なぁ――
「……えっ」
一瞬、俺は目の前の光景を疑う。
とある角を曲がった瞬間、それは忽然と現れた。……おかしい。このルートなら、さっき凛子さんと一緒に何度も歩いたはずなのに。
俺の疑問をよそに、その、やけに見覚えのある建物は相変わらず何食わぬ顔で路地に佇んでいる。
昭和レトロの二階建て。
そして、入口の頭上には『蓬莱質店』の文字が。
「マジかよ……」
くそっ、凛子さんと別れた矢先に……だが今は、理不尽さへの憤りよりも、この不可解な現象に対する戸惑いの方が強かった。確かに俺たちは、この一帯の路地はくまなく調べ尽くした。ここの路地にしても例外なく。
なぜ、今更。
まるで、俺が一人になるのを待っていたみたいに……
「……いや」
本当に待っていたのだろうか。俺が一人になるのを? 馬鹿な。そんなことのために店ひとつが消えたり現れたりするか普通? ……ありえない。でも俺は、というより俺の心は、そのありえない可能性を何故だか認めている。
やっぱりそうだ、あの店は……
思えば、初めてあの店を見つけたときもそうだった。いつものルートを歩いているつもりで、いつしか見覚えのない路地に迷い込んでいた。で、気付くとあの店の前に立っていて……
ひょっとして。
あの店は、迎える客を選んでいるんじゃないのか。店主の爺さんが、じゃなくて、店そのものが……それだけ奇妙な店だから、凛子さんの言うように無形のもの、例えば、創作し表現するスキルそのものを買い取ることだってできるかもしれない。
だとすると、本当に俺は、あの店にスキルを奪われて……
「……あのクソジジイっ!」
そういうことなら最初から言え!
腹の底からふつふつと湧き出る怒り。その怒りに急き立てられるように、俺は大股で店に向かう。
とにかく今は、事情を確かめるのが先決だ。
凛子さんの読みは正しいのか。本当に俺は、あのボツ原稿と一緒に漫画を描くスキルそのものを売ってしまったのか。
そして……俺は、そのスキルを取り戻すことはできるのか。
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