第9話

「って、昨日いい感じに別れたばっかじゃん!」


 待ち合わせた高田馬場駅のロータリーで俺の顔を見るなり、リリアちゃん、こと高木凛子さんは盛大に吠えた。


「えっと……昨日じゃなくて一昨日、です……」


「はぁあ!?」


「あ……いえ、すみません」


 慌てて頭を下げながら、どうして俺が謝ってるんだよと内心ぼやく。実際、店に行ったのは一昨日だったろ? ……まぁ、彼女が苛つく理由はそこじゃないと思うので、とりあえずここは謝っておく。

 何より、彼女にあれこれ文句を言う権利は俺にはない。出勤前の忙しい時間に、俺と会う時間をわざわざ取ってくれたのだ。

 凛子さんは、都内の某一流私立大に通う結構なエリートであった。そのことを知ったのはつい先ほど。俺が、「どうしても漫画を描けない」とLINEで泣きついたところ、授業が終わったら相談に乗ってあげる、と、彼女が通う大学の最寄り駅を待ち合わせ場所に指定してきたのだった。

 その凛子さんは、今日は先日のようなロングドレスではなく、白のサマーセーターに細身のジーンズという、いかにも最近の若者、といった格好をしていた。髪は明るすぎない栗色。もちろんラメはナシで、でも俺は、こっちの方が自然で好きだ。仕事中に比べると控え目なメイクも。

 周りを歩く女の子たちも似たような恰好をしている。なるほど、あれが最近のトレンドなんだろう。

 俺は、高校卒業後は地元の製パン工場で働きながら漫画を描き、そのさらに一年後に上京した。それから二年。年齢的には彼女たちとさほど変わらないのに、相手が大学生というだけで気後れしてしまう。別に学歴がどうって話じゃない。今という瞬間を心から楽しむそのキラキラ感だとか屈託のなさが、真逆の日々を生きる俺にはどうも眩しすぎるのだ。

 正直……もう帰りたい。

 そんな俺の鬱屈など知る由もない(別に知らなくてもいいけど)凛子さんは、先を促すように俺の肩をポンと叩く。


「まぁいいや。とりあえず場所移ろっか」


 向かったのは、駅近くのスターバックスだった。俺が相談を持ち掛けたのだから、当然ここは俺のおごりだ。俺はブラックコーヒーを、凛子さんは、ここぞとばかりにストロベリーラペチーノwithチョコソース&ナッツという見るからにハイカロリーなドリンクを注文する。当然、値段もなかなかにハイだ。まぁ……ドンペリに比べれば断然安くはあるのだけど。

 さいわい奥の二人掛けのテーブル席が空いたので、注文の品を手に向き合って腰を下ろす。席に着くなり凛子さんはずぞぞぞぞっとフラペチーノを吸い、一気に半分ほど吸ったところで「で?」と俺を見た。


「描けなくなっちゃったって? え、要はスランプってやつ?」


「あ、いえ……多分、違うと思います。スランプなら今まで何度も経験してる。でも絵だけは、どんなにひどいスランプでもちゃんと描けたんです。物語は浮かばなくとも、頭の中にあるビジョンを絵に起こすぐらいなら」


「でも今回は、それすらできない、と」


「はい。見たものを描き起こす模写だとかスケッチなら問題ないんですけど、その、イメージをゼロから形にする、ってのが全く……」


「なるほど。ってことは脳の異常でもなさそうだね。例えば脳梗塞とか外傷による脳の損壊で、物体の右半分、左半分しか描けなくなるケースってあるじゃない。あるいは、認知機能が下がって入力と出力がそもそもダメになっちゃう的な……そういう、脳のトラブルじゃないってことだね?」


「……おそらく。病院で診てもらったわけじゃないんで何とも言えませんけど」


「ふぅむ」


 凛子さんは、綺麗な指先を細い顎に添えながら考え込む。俺は女性のファッションについては正直あまり詳しくないが、凛子さんは全体的にとてもセンスがいい。爪のマニキュア……いや、最近はネイルと言うんだっけ、もカラフルで、なのに下品にならないのは、ピアスやネックレスなどのアクセサリーと上手く色を合わせているからだろう。配色が上手い、というか。


「ゼロから……つまり、オリジナルの表現そのものが駄目になってる感じかな。例えばだけど、詩とか俳句はどう? 試しにここで一句詠んでみてよ」


「えっ、俳句っすか。えーと……」


 瞬間。俺はぞっ、となる。

 でき……ない。語彙が浮かばないってレベルじゃない。何か言葉を編もうとしたそばから、掴みかけたイメージがするすると指の隙間をこぼれ落ちてしまう。

 その感覚に、俺は確かに覚えがあった。

 あの時と……昨日、どうにか脳内にあるイメージを描き出そうとして何も描けなかったあの時と同じだ。


「う、浮かばない、です。何も」


 すると凛子さんは、やっぱりねという顔で深く頷く。


「つまり君の場合、オリジナル表現……ゼロを一にして出力するプロセス自体が駄目になっている、と……なるほど。ふむ……だとすると、逆に厄介かもねぇ」


「厄介?」


「そう。例えば……PTSDって言葉は聞いたことがあるよね? 正式には、心的外傷後ストレス障害って言うんだけど……君さ、直近で何か大きなストレスを受けた覚え、ある? あ、いや、差し障りがあれば、詳細は言わなくていいから」


「ストレス……ですか」


 それを言えば、俺の暮らしは年中ストレスまみれだ。

 たまの日雇い仕事で食い繋ぐだけの貧しい暮らし。描いたそばからゴミの山と化す原稿。獲れない連載……底辺漫画家としてのうだつの上がらない日々は、むしろストレスと一蓮托生で、仮に今回の症状がPTSDのせいだったとして、俺に言わせれば何を今更、という感がある。

 それとも、あのクソ編集へのヘイトがついに我慢の限界を超えたか?

 いや、それも……何となくこじつけめいている。先日のダメ出しも、まぁ、こう言っちゃ何だが〝いつも通り〟ではあった。いつも通り、ひどい、という意味だが……逆に言えば、あれしきで発症するなら俺はとっくの昔に筆を折ってる。


「いえ、特に思い当たる節は」


「そう。じゃあ何だろうね……あ、ちなみに、最後に漫画を描いたのはいつ?」


「えっ? ええと、いつだったかな。前回、編集さんに原稿を見せに行ったのが五日前で、その日の明け方まで描いてたから……」


「つまり、この五日間に起きた出来事が関係してるわけだ。ちなみに、この五日間は何してたの? あ、差し障りがあるなら無理に話さなくてもいいよ」


「い、いえ、差し障りとかは別に……とりあえず今日は、家でスケッチとか、模写をやってました。今の自分に何ができて何ができないのか、一応確認しておこうと思って」


「ふむ。で、昨日は?」


「昨日は、一昨日の夜中からぶっ通しで漫画を読んで……で、夕方頃に漫画を描き始めようと思ったら、異変に気付いたって感じで」


「ぶっ通し? その疲労が祟って一時的に描けなくなった可能性は?」


「ないと思います。俺もそれを疑って、一度睡眠を取ってから今朝またトライしたんですけど、やっぱり駄目でした」


「なるほど……じゃあ一昨日は? あ、この日はあたしと初めて会った日だね。店に来る前は何やってたの?」


「えっと、渋谷で服を選んでました。結局、何も買えなかったんですけど……ちなみに、一昨昨日もそうです」


「渋谷? えっ、あー……」


 何かを言いたげな顔で俺のコーディネートをチェックする凛子さん。何を言いたいのかは概ねわかるので、あえて言葉にはしないでほしい。


「その渋谷でも、特に異変は起きなかったと。じゃあその前日……ああ、この日か。編集さんとこに原稿見せに行ったのは」


「あ、そうですね、そういえば。……えっと、その日は担当編集に原稿を見せて、帰りに質屋に……」


「質屋?」


「えっ? あー……はい、質屋です。そこで……売れたんですよね。ボツ原稿が。何ていうか、そこ、妙な質屋で、ガラクタとかいっぱい並んでて、ここなら俺の原稿も売れるかも、なんて冗談半部で査定に出したら、本当に売れちゃって……」


「ガラクタだらけの質屋に……ボツの原稿? 何それ。マニア向けの中古ショップか何か?」


「と、いうわけでもないんです。使い古しのグローブだとか、描きかけのノートだとか、本当に、ガラクタばかりをかき集めた店っていうか」


「ふぅん……あ、ひょっとしてウチに来たのって、そこで臨時収入をゲットしたから?」


「ひぎっ!? ど、どうしてそれを、」


 すると凛子さんは、そんなこともわからないのか、という顔をする。


「いや、どうしても何も。こいつ明らかにこの手の店に慣れてないなっていうか……なるほど、渋谷に行ったのもそのせいか。その臨時収入で何でもいいから贅沢しようとして、でも結局、何を買えばいいかわからなくて詰んじゃった的な。あー、あるある。金持ってない奴がいきなりデカいお金を手に入れたらやりがちなパターン! って……えっ、じゃあいくらで売れたの? いきなりドンペリ入れようとしたぐらいだし、結構おっきな額だったんじゃない?」


「うぐっ……」


 やばい、この子、想像以上の洞察力だ。ただ……さすがに一千万円で売れたとまでは見抜けないだろう。むしろ見抜かないでほしい。

 彼女に悪意はないし、むしろ尊敬している。

 だからといって、まだ二度しか会っていない相手に金のことをべらべらぶちまけるほど俺は不用心でもない。


「え、っと……百万円ぐらい、ですかね」


「ただのボツ原稿に百万円……」


 凛子さんはそこで、指を顎に添えたまま考え込んでしまう。ほっそりとした顎を支える、これまたほっそりとした指先。今がそんな場合じゃないのは承知の上で、綺麗だな、と改めて思う。


「これは、ほとんど私の妄想だから耳半分で聞いてね。……ひょっとして、ひょっとしたらだけど、その店が買い取ってるのは、モノそのものじゃないのかも。それに付随する何か……能力だとか、記憶だとか、そういう、無形の何かだったりしないかな?」


「能力……? いや、そんな馬鹿なことって」


 ぼすっ、とテーブルの下で脛を軽く蹴られる。どうやら気に障ってしまったようだ。


「だーかーら、耳半分で聞けっったろ? ていうか今のところ、ここ数日の出来事でおかしな点っったらその質屋での取引ぐらいしかないわけ。や、君の才能を貶めるつもりはないんだけどさ、ボツ原稿に百万なんて査定はやっぱおかしいよ。ねぇ、それどこの店? 取引内容は?」


「ええと、とりあえず『蓬莱質店』って店名で、場所は……覚えてないな。最寄り駅からアパートに向かって歩いてたら何となく見つけたって感じで、でも、取引自体はそこまで不自然でも……」


 いや、確かに妙だった。

 そもそも、保管期間一生、なんて契約を定める質屋がほかにあるだろうか。そうでなくとも、どうやって客の死を知るのだろう。俺の場合、とくに連絡先の類は聞かれなかったし……って、これも妙だな。例えばこれが古本屋なら、読み終えた本の買い取りを頼むときは必ず身分証の提示を求められる。少なくとも、今まで俺が世話になった古本屋はそうだった。

 なのに、あの日はそういったやりとりすらなかった。質屋の取引として考えても、今思えばおざなりが過ぎたように思う。……にもかかわらず、あの爺さんは一千万円もの大金を、さも当然のように俺に差し出した。

 凛子さんの想像が正しいかどうか、そんなことは俺にはわからない。

 ただ……確かめる価値はある。


「『蓬莱質店』……うーむ、それらしい店は引っかからないねぇ。サイトがないのは百歩譲ってわかるけど、グーグルマップでも引っかからないってのは……」


 スマホをポチポチと弄りながら、凛子さんがぼやく。俺のために店の場所を調べてくれているのだろう。


「あー……いいでえすよ。とりあえず最寄り駅はわかってるんで、気長に探します」


「いや、それじゃ困るんだって。あたしが」


「えっ?」


 すると凛子さんは、「だーかーら!」と、聞き分けのない子供を叱る顔をする。


「ついていくっってんの! ショータ君、中村橋だっけ? 今から行けば出勤には間に合うけど、さすがに探す時間まではないから」


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