第8話

「はぁーーーーづかれたーーーー!!!!」


 俺が腕を下ろすと、抱えていた荷物たちがアパートの床をズシリと揺らす。

 二つある特大紙袋の中身は、全て大量の漫画本。それを意地で持ち帰ったおかげで腕の筋肉はすっかりパンパンだ。が、そんな疲れも、胸を満たす充実感が全部打ち消してくれる。

 店の前でリリアちゃんと別れた後、俺はその足で同じ新宿にあるブックオフに駆け込んだ(これは貧乏根性の発露ではなく、単に紀伊国屋が営業時間外だっただけ)。

 早くも蛍の光が流れる閉店間際のブックオフで、俺は、以前からチェックしていた長期シリーズや最新の話題作を手あたり次第買い物かごにブチ込んだ。その後、仕事帰りの乗客で混みあう下り電車に揉まれながら、ようやく、本当にようやくといった感じでこれだけの荷物を持ち帰ったのだった。


「……マジで疲れた」


 玄関に倒れ込み、雨染みだらけの天井をぼんやり見上げる。

 改めて俺は、ここにはいないリリアちゃんに胸の内で感謝を捧げる。彼女も言ったように、ほかの客との会話をバラすのは相当リスキーな行為だったはずだ。にもかかわらず彼女は、園田との会話や、そこから覗く奴の人となりを詳しく教えてくれた。行き先もわからずフラフラする俺の頬をひっぱたくみたいに。

 でも、おかげで目が覚めた。

 この数日、大金を抱えて途方に暮れていたことが嘘のように、今は、おのれが何をすべきかがはっきりと見える。


「よし」


 気合を入れ直し、さっそく漫画を取り出す。

 さっきリリアちゃんも挙げた『サスペンスでラブコメを~』の一巻。SNSで最初にタイトルを目にしたときは、正直、最近流行りのバズ狙いかと鼻白んだ。が、試し読みの一話に目を通した俺は、その安易な印象をすぐに捨てた。

 一見するとゆるラブコメな日常。なのに終始不穏な空気が消えない。やがて主人公たちの通う学校で一人の生徒が殺される。そして、その容疑者としていきなり主人公がマークされてしまう。事実、彼には犯行を行なうに足る動機があり、しかも、間の悪いことに事件当時のアリバイを欠いていて――と、なかなかハードなスタート。

 その後、主人公の推理によって、実は主人公周りのヒロインたちが事件に関わっているのではとの疑惑が深まる。それも一人ではなく、全員。

 一方で、ゆるラブコメの日常はなおも続いている。そのギャップも不思議と心地よく、最新話が公開されるたびに読者の悲鳴や考察がSNSに溢れる。おそらく……この作者は最新のラブコメを摂取しながら、同時にアガサ=クリスティーなどの古典ミステリも嗜んでいるのだろう。派手な話題性とは裏腹にミステリの構築はしっかりしていて、最近では本格ミステリファンにもファンが増えているそうだ。

 秀逸なのは物語だけじゃない。最小限の文字数で効果的に情報を伝えるセリフ。メリハリの利いたコマ割り……漫画としてもレベルが高い。俺のとは段違いに。

 ああ、くそっ。

 こんな面白いものを、俺は、今までスルーして……

 そうして夢中になってページを捲り、最新刊を読み終えた時にはすでに時刻は夜中の三時を超えていた。

 文字通り、時間を忘れるほど読みふけっていたわけだ。が……無理もない。こんなに面白い漫画を途中で止められるわけがない。

 続いて今度は『転生マルクス~』を手に取る。これも、奇抜なタイトルとは裏腹に物語も考察もかなりしっかりしている。それもそのはず、作者は某有名私立大学で経済学を修めていて、資料の読み込みや考察は完璧。学習漫画として読んでも遜色はないんじゃなかろうか。その上で、エンタメとして押さえるべき点は漏れなく押さえているのがエグい。

 ふと窓を見ると、すっかり夜が明けている。

 今度は昔の長期シリーズを手に取る。昔、友達に借りて読み込んだ冒険もの。最強の剣士を目指す少年が、仲間やライバルと時にぶつかり、時に協力しながら強敵と戦う。設定自体はシンプルながら、時に過去や未来、宇宙にすら広がる舞台にガキの俺はワクワクしたのだった。

 ただ、ガキの頃の俺は小遣いが足りなくて、そして今の俺は収入が足りなくて、全巻揃えるには難しいアイテムだった。

 そして今。

 ようやく買い揃えたそれをブッ通しで読んだ俺は、ただただ打ちのめされていた。

 おもしれぇ。何だこれ超おもしれぇ! これが十年以上も前の漫画とか絶対ウソだろおい! 何なら今でもアンケ一位獲れるぞ!? ……ああ、そうだった。この漫画をきっかけに、俺は漫画家になろうと決意したんだった。この漫画みたいに、誰かの心を揺さぶってやりたいと。

 どうして忘れていたんだろう。

 漫画を描くのに、おそらく最も大切な気持ち。なのに俺はいつしかそれを忘れ、とりあえずあのクソ編集のチェックを通ればいいやと、前回食らったダメ出しに場当たり的に対処するだけの出力マシーンと化していた。

 ああ、描きたい。

 あいつに媚びるための漫画じゃない。俺が、心から描きたいと思う漫画を。それは最新のトレンドからは外れているかもしれない。けど、今はそこに立ち返らなきゃ駄目な気がする。

 とにかく、俺の原点を確認するんだ。

 窓を見ると、長いはずの夏の日が暮れかけている。ふと強烈な空腹を覚え、そういえば朝から、いや、何なら昨晩から何も食っていないことを思い出す。……腹減った。でも今は、飯より何よりまず描きたい。買い貯めておいたカロリーメイト(の、どこぞのプライベートブランドが出した廉価版)を口に押し込み、いざ作業机へ。

 今なら描ける。描ける気がする。

 つーか、今を逃していつ描くんだ!

 そう自分に活を入れ、下書き用の鉛筆を手に取る。いつものように百均の落書き帳を開き、まずは主人公のイメージをラフで―ー


「……あれ?」


 違和感には、すぐに気付いた。

 形に……ならない。イメージなら頭の中に仕上がっている。あとは、それを指先から出力すればいい。それだけの話だ。……なのに、どうして。いくら鉛筆を動かしても、その軌跡は何のイメージも結ばない。濡れた手で綿菓子を掴むみたいに、掴んだそばからするすると溶け落ちてしまう。

 何なんだ、これ。

 漫画を描き始めの頃でさえ、こんな無様なことにはならなかった。拙くとも、俺の描く線は何かしらのイメージを捉えてくれた。

 それが今は。

 まるで、事故で身体の一部をごっそり失ったみたいに。


「な……何なんだよ? 何なんだこれ何だどうして!?」


 その後も必死に鉛筆を動かしたが、結局は無駄な足掻きに終わった。

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