第7話

 冗談みたいに派手なシャンデリアが、頭上で燦燦と煌めいている。

 新宿。歌舞伎町。

 ここも、昨日までの俺には無縁の街だった。札束が羽根を生やして飛び交う街。漫画やドラマ、ゲームで描かれる歌舞伎町は概ねそんなイメージで、その札束の一枚すら大事にだいじに使う俺は、そもそもお呼びではなかったのだ。

 貧乏人には用のない街。

 逆に言えば、大金を持つ―ーむしろ、それを使うことに身体を慣らしたい俺からすれば、これほどうってつけの街もない。

 結局、今日も今日とて値札に怯み散らかした俺は、服の一枚も買うことができなかった。

 これはもう、所持金の額の問題じゃない。節約が骨の髄にまで染みてしまった身体が、浪費めいた消費行動に拒絶反応を示しているのだ。

 だったらいっそ、強制的に金を使わざるをえない環境に身を置いてしまえばいい。俺、天才!

 そう思い立った俺は、渋谷で買い物(という名の彷徨)を終えたあと、山手線でこの街に向かうことにしたのだった。だが、仕事を終えて駅に向かう人の流れに逆らい、いよいよ例の『歌舞伎町一丁目』と掲げた電光の看板を見上げた時、俺は、高揚感を得るよりも先に、『今夜だけで何万飛ぶんだろうなぁ』と身構えた。

 ぶっちゃけ……めちゃくちゃ怖い。

 それを何とか堪え、ひとまず店に足を踏み入れただけでもまずは自分を褒めてやりたい。


「ようこそ『ミューズ』へ。あら、こちらのお店は初めて?」


 入り口で、ガードマンと思しき黒服とともに俺を出迎えたのは、鏡餅みたいな頭をした和服姿の女性だった。ぱっと見は四十代くらいに見えるが、よく見ると、分厚い化粧の下に細かな皴がいくつも透けて見える。実際は五十か六十代だろう。ただ、表情や仕草には妙な色気があって、何というか、ものすごく〝女〟という感じがする。そして、それ以上に強烈なのが山のようなどっしり感。いや、体形がじゃなくて何というか、多少のトラブルでは動じなさそうな雰囲気。

 ひょっとして……この人がいわゆる、ママ、ってやつ?


「ちなみに、どなたのご紹介?」


「……紹介?」


 えっ、紹介とか要るの? そんな……大学病院じゃあるまいし。


「いえ……飛び込み、っすけど」


「あら、そう」


 ママのぶっ濃いアイラインの奥から、ふ、と歓待の光が失せる。代わりに浮かぶのは警戒の眼差し。あからさまでこそないが、うっすらと、だが確かに拒絶の気配を感じる。なるほど、おそらく経験豊富な彼女がこうして客を品定めし、厄介そうな客や金払いの悪そうな客をあらかじめ弾いているんだろう。

 その意味で、彼女の審美眼は正しい。

 いまだ売れる見込みのない、無職も同然の底辺漫画家。さすがにシャワーは浴びたし服も一張羅に着替えている。が、いくら身綺麗にしても貧相な素体は変わらないし、服もGUの値下げ品。そんな人間が、まさか札束を浪費しに来たとは思わないだろう。

 この街では、望めば誰でも客になれるってわけじゃないのだ。


「あー……いや、正式な紹介とかじゃないんですけど、前に園田……征一郎先生がこの店のことをお話しされてて、あ、俺、園田先生と同時デビューなんですよ。その関係で、一緒に飲むことがあって」


 すると今度は、ママの顔がぱあっと喜色に輝く。


「あらぁ園田先生の!? ごめんなさいね、ささ、どうぞこちらへ」


 そしてママは、いそいそと俺を奥にいざなう。

 ははっ……園田の名前を出しただけで、この態度の変わりよう。改めて、アイツすげぇなぁと内心で賛辞を贈る。まぁ……ぶっちゃけムカつくけどね!

 園田征一郎。

 今やオタクの間ではもちろん、一般人の間でもその名が知られつつある若手漫画家だ。デビュー作『サムライ・ゴーアヘッド!』がバカ当たりし、現在六巻まで出ているコミックスは、どの巻も重版に次ぐ重版。風の噂じゃすでにアニメ化の話も持ち上がっているそうな。

 その園田征一郎は、俺が佳作を獲った同じ賞で大賞を獲得、すぐに連載をスタートさせる。で、その雑誌が運営するアプリに、奴の大賞受賞作と一緒に俺の佳作も載ったのだった。……ので、同時デビューという説明は、まぁ、あながち間違っちゃいない。一応は。

 ちなみに、この店について話してくれたのがその園田だってことも事実だ。いい子がいるから落ち込んだ時はお前も行ってみろよ、と(行ける金があれば行ってたよチクショウ!)。

 それにしても、と、ママの後ろをコソコソ従いながら思う。

 えらく広い店だな。てっきりファミレスぐらいの広さを想像していたのに、ここはそれ以上、いや二倍はゆうにある。ただ、席数の方はそれほど多くはないようだ。というのも、ボックス席の一つ一つが俺のワンルームよりも広いスペースを取っているためで、それらのクソでかいソファでは、いかにも成功者って感じの身なりの良いオッサンや兄ちゃんが、お人形みたいな女の子たちと盛り上がっている。

 その光景にまたしても俺は緊張する。俺は……ちゃんと女の子を盛り上げられるんだろうか。

 やがて俺が案内されたのは、俺を含めても四人が囲めばもう一杯、という、店の中ではかなり小さなボックス席だった。ソファの感触はさすがに良い。硬すぎず、かといって身体が沈みすぎることもない。へぇなるほど、これがお高いお店のソファーか……


「こんばんはー」


「えっ!? あ……」


 慌てて顔を上げると、いつしかテーブルの傍らに女の子が立っていた。

 スレンダーな身体を纏うラメ入りのロングドレス。色は濃紺で、肌の白さを余計に際立たせている。結い上げた茶髪もキラキラ光っていて、多分、そういうワックスかスプレーを吹きつけているんだろう。他にも目元や唇、それに爪と、デコれるパーツは惜しみなくきらめかせている。ただ、不思議と浮いて見えないのは、同じだけ煌びやかな店内装飾のせいだろう。おそらくヴェルサイユ宮殿をイメージしたと思しき店内は、壁といい天井といい、目が痛くなるほどにギラついているのだ。

 ただ、浮いていないからといって目立たないわけじゃない。

 むしろ、彼女の姿はどうしようもなく俺の目を引いた。ただ、一目惚れとかそういうんじゃなくて、何というか、目を離したら何されるかわかんないな、という……いや、俺だって「何だそりゃ」って思うよ。女の子相手に、まして、こんな店で身構えてどうすんだよ童貞かよと。

 でも本当なのだ。彼女に見つめられる俺の気分は、完全に、蛇に睨まれるカエルのそれだった。

 そんな威圧感も、しかし、彼女が頬を綻ばせると嘘のように消えてしまう。……何だったんだ、さっきの感覚は。


「リリアでーす。お隣よろしいですかー?」


「えっ? ええと、はい、どうぞ」


「ふふ、失礼しまーす」


 そして、リリアちゃんと名乗る彼女は俺の隣にちょんと腰を下ろす。一瞬、え、近い、とビビり、ああそうだ、ここはそういう店なんだと遅れて思い出す。女の子とイチャコラしながら楽しくお酒を飲む。思い出せ、さっき見たガハハなオッサンや兄ちゃんたちを。アレだ、俺もアレでいくんだ。

 ふわりと漂う香水の甘い香り。わぁ、女の子の匂いだぁ。


「あ、何か飲まれます?」


「えっ? あー……うん、君に任せるよ」


「えー? 任せるとか言われちゃったら私、ガチでボトル入れちゃいますけど? ドンペリとか?」


「ドンペリ? あー……あるんだ、やっぱそういうの」


「えー? 何ですかそれおもしろーい!」


 そしてリリアちゃんは、コロコロと鈴が鳴るみたいに笑う。えっ今の笑うところだった? いや、多分これ、いわゆる男をいい気にさせるための〝さしすせそ〟ってやつだ。いかんいかん、危うく真に受けるところだった。

 それはそれとして、今までドラマや漫画でしか聞いたことのなかったものに現実で出くわすと、現実感がバグる感じで落ち着かない。


「ちなみに……やっぱりその、お高かったり、します?」


 つい訊ねてしまってから、俺はしまったと後悔する。今夜はゼロの数にビビらず金を使うのが目標だったはず。何より、こんな野暮きわまる質問でリリアちゃんに失望されるのは怖い。


「うーん、うちの場合ですと、一本につき三十万円頂戴しています」


「へぇ……さささ三十万!?」


 しまった、と慌てて俺は口を噤む。だからいちいち値段にビビるなと……いや、ここは普通にビビるところだろう! たかだがシャンパンが一本三十万円!

 うーん。正直、渋谷でお高いジャケットを買った方がお買い得な気が……


「ち、ちなみに……園田……先生は、いつも何を頼んでるの?」


「ソノちゃん? すっごいですよ! ドンペリ一本や二本はふつーふつー!」


「へえっ!?」


 うそでしょ。いや、最近のあいつの売れ方を考えたら、あながち嘘でもなさそうなのが怖い……


「ソノちゃんといえば……さっきママから聞いたんですけど、お兄さん、ソノちゃんと同時デビューの漫画家さんなんですよね? 筆名は何ていうんですか?」


「えっ? あー……ショータ、です。表記はアルファベットで、SHO-TA」


「ふーん、SHO-TA……えっ、ちなみに何描いてる人です?」


「何、というと?」


「いえ、だからタイトルですよ」


「えっ、あー……実はその、まだ連載は取れてなくて……短編ならいくつか……」


 いくつか? なに見栄張ってんだ俺。本当は、最初の佳作しか載せられていない。それも園田とは違い、本誌ではなくアプリの方でだけ。

 同時デビューなんて……やっぱ言うんじゃなかったな。


「そうなんですか? まぁ、新人さんは連載枠ゲットするまでがきついって言いますもんねー。あ、じゃあとりあず、アスティ入れちゃいますね?」


「えっ? アス……ティ?」


「ワインでーす。スパークリングの。あ、ドンペリほどお高くないんで、安心してくださいね」


「えっ……あ……」


 いや安心って。……ひょっとして、俺が底辺漫画家だってことがバレてる?

 いやいや、だとしても今の俺には金がある。俺自身の原稿で稼いだ金が。


「い、いいよいいよ! 頼んじゃおうよドンペリ!」


 するとリリアちゃんは、ふと、何かを言いたげな顔をする。からかっているような、窘めているような。


「アスティもおいしいよ」


 有無を言わせない声色に、俺は黙って顎を引く。リリアちゃんは「うん」と満足そうに頷き返すと、手を叩いて黒服を呼びつけ、アスティとやらを注文する。ほどなくテーブルに運ばれる深緑色のボトル。それをリリアちゃんは慣れた手つきで開栓し、一緒に運ばれてきた二本のシャンパングラスに手際よく注ぐ。


「はい、かんぱーい」


「か、かんぱーい」


 チン、と軽やかにかち合う二つのグラス。さっそく口に運ぶと、思いがけずフルーティーな匂いが鼻腔をふわりと抜けてゆく。よかった、酒に慣れない俺でも意外と飲みやすそうだ。


「ちなみにその短編、なんていうタイトルです?」


「えっ……え、ええと、『反逆のミトコンドリア』……です」


「ミトコンドリア!? あー、ひょっとしてSFですか? ミトコンドリアがストライキ起こしちゃって、生き物たちがエネルギー変換できなくなってヤバい、みたいな?」


「えっ、あー……そうです。はい」


「へーおもしろそー! 今度読んでみますね! ほかには?」


「ほかには……その、今のところ、それだけで」


 すると彼女は、一瞬、あれ? という顔をする。

 その顔に、改めて俺は惨めな気分になる。いつもそうだ。ここで「ほかには?」と聞かれ、何も答えられない俺に相手は「あ、ごめん」という顔をする。失望と憐憫。それから、売れないくせに何で漫画なんて描いてるの? という蔑み……いや、ぜんぶ俺の被害妄想かもしれないんだけど。


「なるほどー。ところで、漫画家さんって勉強のためのインプットも凄いって聞いたんですけど、SHO-TAさんは最近何を読まれてるんです?」


「えっ、最近……?」


 突然の話題の転換に俺は救われた気分になる。が、それも長くは続かない。というのも、ここ最近の漫画にほとんど目を通していないからだ。

 別に、最近の漫画つまんねー的な古参ムーブをキメたかったわけじゃない。

 単純に、金がなかったのだ。新しい漫画を買う金が。

 辛うじて、近所の図書館で借りる小説がインプットらしいインプットと言えなくもない。が、それも、昨今の激流じみた漫画のトレンドを追いかける役には立たない。最新の表現、最新のネームや物語のリズムを掴むには、やはり最新の漫画を追いかける必要がある。

 でも、それだってまずは金だ。金がなくちゃどうにもならない。


「え、っと……ちなみにリリアちゃんは、どんなの読んでるの」


「あたしですかー? えーと、『からくり少女は恋をしたい』、『転生マルクス、異世界で共産主義を唱える』、『ボクらは別にぱんつを見たいわけじゃない』、『サスペンスでラブコメするな、ハーレムに殺人鬼ぶち込むぞ』、あたりですかねー」


「へ、へぇ……」


 いずれもこの半年にSNSでバズりまくり、初版で即重版がかかったタイトルばかりだ。いいなぁそれだけの本を買える金があって……

 いや、待て。

 俺だって、金なら持ってるだろ、今は。


「ほかにも、長期タイトルの有名作品は大体追っかけてますよ。ていうか、ソノちゃんそういう話ばっかり振ってくるんで、話を合わせるためにも読んでないと駄目なんですよねー」


「園田が? ひょっとして、今のも全部、あいつ……」


「すごいですよねー。ソノちゃん自身すっごい売れっ子なのに、新しい漫画がバズるたびに悔しい悔しいって言いながら読み込んでるんですよ。絶対こいつより売れてやるって。いやソノちゃんの方が売れてるのにーって」


「……」


 もはや突っ込みを入れる気にすらなれなかった。

 そういうことなんだ。

 確かに俺は一千万円を手に入れた。でも、手に入れる前と後とで俺自身は何も変わっちゃいない。俺の中身は相変わらず底辺のまま。メンタルも、考え方も何もかも。

 園田は違う。あいつにとって、金なんてきっと二の次なんだ。とにかく漫画が好きで、だからこそ最新のトレンドを貪欲に咀嚼し、新たな作品を形にする。そうして生まれた作品は多くの人の心を揺さぶり、その報酬、いや余禄として、こういった店で豪遊できるだけの収入を得ているにすぎない。

 もし、あいつが今の俺と同じ状況に置かれたら、服よりもキャバクラよりもまずは漫画を買いに本屋へと走るだろう。


「ごめん、俺……これ飲んだらもう帰るよ」


 するとリリアちゃんは、面食らったようにアーモンド形の目を見開く。ああ、これはガッカリの顔だな。それもそうか、たかだか一本のワインで帰る客なんて。

 それでも俺は、これ以上、この手の店で油を売る気にはなれなかった。むしろ、どうして真っ先にそういう金の使い方を思いつけなかったのかと今は悔やまれる。

 ただ、遅きに失したとしても、思いついてしまった以上は、もう。

 やがてリリアちゃんは、ふ、と笑む。突き放すようでいて優しい、不思議な色あいの微笑だった。


「そうだね、その方がいいよ」


 その後リリアちゃんはすぐに会計を済ませてくれる。リリアちゃんの言ったとおり、アスティは少なくともドンペリに比べればずっと安かった。

 そのリリアちゃんは、律儀にも店の出口まで俺を見送ってくれる。この店にはもう、少なくともしばらくは来ないだろう。決してサービスが悪かったわけじゃない。今の俺にここへ通う資格がないだけだ。

 だから帰り際、リリアちゃんにLINE交換を持ち掛けられたときは慌てて断った。


「ごめん、多分、しばらく来れないから」


 するとリリアちゃんは、一瞬、面食らった顔をすると、やがて「ふふ」と声を出して笑う。春の日差しに似た、柔らかな笑みだった。


「わかってますよ。これ、営業じゃなくて」


「えっ?」


「あ、勘違いしないでくださいね。色恋うちNGだし。そうじゃなくて……私、何かをゼロから作ってる人が好きなんですよ。尊敬してるっていうのかな。なのでまぁ、困っているなら力になりたいなといいますか」


「あ……それは、どうも」


 一瞬、ほんの一瞬、あらぬ期待をしてしまった自分を頭の中で蹴り飛ばす。

 そりゃそうだよな。俺みたいな底辺をわざわざ好きになる理由なんてないもんな。まして彼女の顧客には、あの園田も含まれてるんだ。よしんば狙うにせよ、まずはそっちからだろう。


「そ。だから次は普通に喋ろうよ。漫画のこと」


「えっ……あ……はい」


 今度は、なぜかこっちが敬語になる。ただ何となく、俺にはこっちの方がしっくりくる感じがした。客とキャストという役割に目をつぶれば、俺にとって彼女は、大切なことに気付かせてくれた恩人なのだ。


「あ、でも、ソノちゃんの話はもうナシね。ていうか普通、他の客の話なんてベラベラ喋ったりしないよ。守秘義務とかもあるし……今回は特別。君、すごく行き詰まってたぽいから」


 マジか。そんなことまでバレて……ていうかこの子、キャバクラのキャストよりカウンセラーの方が天職だったりしない?


「今夜は、いろいろありがとうございました」


 万感の感謝を込めて頭を下げる。するとリリアちゃんは、真っ赤な唇をにっと左右に引く。普段の笑みもきっと可愛いんだろうなと思わせる、屈託のない笑みだった。


「漫画で稼げるようになったら、今度こそ一緒にドンペリ飲も?」


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