第4話
ついつい声が裏返ってしまう。いや、そりゃそうだろうよ。
一千万円。
たった今、この爺さんは俺の原稿を一千万円で買い取ると言ったんだ。
「えっ……は? マジ……すか」
「ええ、マジです。それとも、当方の査定にご不満が?」
「い、いやいやいやいや! 不満なんてそんな! いえ、そうじゃなくてその、まだ連載も取れてない新人漫画家の原稿ですよ? 将来売れるかどうかもわからない……そんな奴の原稿に、その、い、いっせんまんえん、なんて大金……」
嬉し、くはない。むしろ怖い。むちゃくちゃ怖い。この査定は明らかにおかしい。いくら金に窮している俺でも、その程度の嗅覚はまだ何とか働いていた。
とくに昨今は闇バイトだの口座の売買だの、リスクとリターンのバグった話が横行している。旨すぎる話はとにかく突っぱねるのが吉だ。
ところが爺さんは、やはり真剣な表情でケースを差し出してくる。
「いえ。あなたのお持ちした品には、間違いなく、それだけの価値が含まれています。融資額として一千万円は妥当な金額です」
「いや、でも……」
答えに窮する俺を、しかし、爺さんはどこまでも真面目な目つきで見上げている。冗談だとか、俺を担ごうとしている風には見えない。
え、要するにマジってこと? 俺の原稿が一千万円で売れるってこと?
そういえば……と、俺の脳裏を古い面影がよぎる。
地元の友達、夏木と高梨、あと、田村に金を借りてるんだった。田舎から東京に出てくるとき、引っ越し費用やら何やらでまとまった金が要った。親はそもそも俺の上京に反対していて、なので仕方なく、仲の良かった友人たちに縋りついたのだ。
今となっては、それをひどく後悔している。
すぐに返すつもりだった。何ならちょっと色もつけて。まさか二年以上も連載が獲れず、底辺のままくすぶり続けるとは思ってもいなかったから。おかげで連中とは、今ではすっかり没交渉になっている。金のことが後ろめたくて(それに、話を蒸し返されたところで返せもしないし)、こちらから連絡を取る気には、どうしてもなれなかったのだ。
友情は金じゃない、と人は言う。
が、実際は、金が絡むと友情を保つのは難しい。新人漫画家として上京し、惨めなこと、情けないことはうんざりするほど経験した。けど、あいつらとの縁が切れたこと以上に辛かったことなんて、多分、ない。かといって、漫画を中心に切り回す今の暮らしでは、大きな金を作るチャンスもなく……
どうせ燃えるゴミとして捨てるだけだった原稿だ。
だったらいっそ、ここで。
「……じゃあその、それでお願いします」
「かしこまりました」
すると爺さんは、今度はレジ台の引き出しから一枚の紙を取り出し、応接テーブルに戻ってくる。紙には『契約書』と書かれ、原稿の買い取りに絡むものと思しき契約内容が箇条書きで記されている。
「一つ一つ確認してまいりましょう。まずは一つ目。本契約はお客様と、それから当店との間に結ばれるものとします」
「はい」
「二つ目。質請けの際にはご融資額と利息、それから、保管料としてご融資額の十%を頂戴いたします。こちらは、保管期間に関わらず一律十%とさせて頂いております」
「はぁ」
この項目に関しては完全にどうでもいい。こっちは捨てるつもりで手放すんだから。
「三つ目。流質期限は一生。お客様が生きておられる限り、質請け……質草をお手元に戻すことは可能です。その間、質草は当店で責任をもって保管いたします」
「はぁ。……って、一生? 俺が生きてる間、ずっと?」
「さようです」
どこか誇らしげに頷く爺さんに、俺は後ろめたさを覚える。こんなゴミ、さっさと処分してもらって構わないんだけどな……。
ともあれ契約内容に異論のなかった俺は、爺さんに言われるがまま契約書にサインし、その傍らにしっかりと拇印を押した。
その後、俺は爺さんの目の前で一千万円分の札束を数えた。一枚あれば半月は凌げる万札を、メモ帳か何かみたいにいち、に、さん、と機械的に数える作業はどこか現実味を欠いていた。まぁ……いきなり一千万円なんて大金が手元に転がり込んで、現実味を保つ方が逆に難しいか。
その現実味がようやく戻ってきたのは、店を出てからのこと。
手元には、さっき爺さんから受け取ったアタッシュケース。試しに薄ぅーく開いてみると、さっき数えた札束が確かに収まっている。別に、葉っぱや土くれに化けたりはしていない。
にもかかわらず俺は、狐につままれたような据わりの悪さに襲われていた。
何か……とても、とても大事なものを置き忘れてきた感じがする。
「俺は一体、何を売って―ー」
何とはなしに振り返る。
瞬間、俺は茫然となった。見慣れた住宅街が広がる代わりに、あの目立つはずの昭和レトロの建物は影も形も見当たらなかった。
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