第5話



「よ……よう。えっと、お久しぶりです。俺のこと覚えてる?」


『あー、オレオレ詐欺なら間に合ってますけど』


「違ぇよ! 翔太だよ! 加納翔太! ……えっと、ほら、二年前、漫画家になるっって東京に出て行った……」


『あはははは冗談だって! おー翔太久しぶり! 生きてたか!』

 

 生きてたか。その、おそらくは悪気のない一言に不覚にも俺はぎょっとなる。確かに……この二年間、ほとんど連絡を取ってなかったもんな。

 俺の高校時代の親友こと高梨に電話をかけたのは、かれこれ約一年半ぶりになる。

 にもかかわらず高梨は、まるで昨日も会ったような口調で会話に乗ってくる。その気安さをありがたく思いながら、一方で俺は、うっすらとだが恨めしさを感じてもいた。こっちは借金のことが後ろめたくて、この電話だって、お前の番号をタップするのに随分と勇気が要ったんだ。

 なのに。

 そうやって何でもない口ぶりで返されると、何というか、自分がひどく間抜けに見えちまうんだよ。


『え、どうした急に。ひょっとして、こっちに帰ってくる?』


「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……ええと、ほら、お前に借りただろ、その、十万円……やっと返せる目途がついたんで、その、振込先とか教えてほしいかな、って……」


『は? ああ……うん。了解』


 その、どこか釈然としない口ぶりに俺はまたイラッとくる。

 なんでだよ。貸した金がようやく返ってくるんだ。頼むから少しは喜んでくれよ。……もちろん、そんなイラつきを俺はおくびにも出さない。そもそも俺は金を借りた側であって、こいつの態度にいちいち文句を言う権利などありゃしないのだ。


『えーと、振込先は後でLINEするわ。……つーか、んなことより漫画の方は調子どうよ。連載獲れた?』


「えっ? い、いや……一応、担当編集には何作か見せてるんだけど……」


 けど、全然チェック通らないし掲載の目途すら立たないんですけど――などとぼやきかけて、それを俺はぐっと飲み込む。

 高校卒業後、地元の工務店に入社した高梨は、上京する俺に、いつか一級建築士になりたいと夢を語ってくれた。空き家まみれで寂れた地元を、自分が設計した建物で蘇らせたいのだと。そして、その夢は今も変わっていないだろう。あいつのまっすぐな声色からもそれは伝わってくる。

 誰の役にも立たない夢を抱く俺とは真逆の、真っ当な夢に向かってひた走る親友。

 その親友に、俺なんぞの悩みを悩みとして打ち明けるのは、何というか、ひどく居た堪れない感じがしたのだ。


『すげー。つか、何作も描けるのがもうすげーわ。いいよなぁ、昔から絵上手かったもんなぁお前、俺もお前ぐらい上手かったら絶対漫画家目指してたわ。んで印税ガッポガッポでウハウハでさ』


「ははは……」


 だったら目指してみろよ。絵なんか下手くそでも売れてる漫画は腐るほどあるしよ――という文句も、俺はきちんと噛み殺す。そもそも、この手の能天気なリアクション(主に非業界人のそれ)には慣れている。

 普通の人間は、イラストさえ描けりゃ漫画なんてチョロいと思っている。

 だが実際は、漫画家にはほかにも多くのスキルが要る。例えばネームのそれ。読み手の視線を効果的に誘導するコマ割りはもちろん、多すぎず、それでいて必要な情報を盛り込んだセリフを書くスキルは、余程の天才でもない限り、努力で身に着けていくしかない。

 そうしたセンスを肌感覚で掴むためにも、ひたすらインプットを繰り返す必要がある。具体的には多くの漫画を読み、とくに感銘を受けた漫画は模写し、リズムやセンスを血肉に取り込む。その蓄積こそが漫画のレベルを決める。単にイラストが上手いだけでは漫画なんて描けやしないのだ。

 ……なんて。

 偉そうに講釈を垂れる俺自身、その蓄積が足りているかと言われると答えに困る。……いや、足りていないからこそ担当から延々ダメ出しを食らい続けているんだろう。


『なぁ、諦めるなよ』


「……え?」


『俺さ、楽しみにしてんだぜ。お前の漫画が連載されるのをさ。そしたら「あいつ俺のダチなんすよー」って合コンで自慢できるじゃん』


「いや、自慢にならねーだろそんなの……」


『ははは、まぁ、金の方は別に急がねーからよ。自慢じゃねーけど俺、同年代の中じゃ結構貰ってるほうなんだ。だから、金銭的にもまぁまぁ余裕あるし、それに、あの十万はあげるつもりで渡したやつだから』


 その最後の言葉に、俺はまたカチンとなる。


「は? いや、あげるつもりって、何」


『まぁ、返してくれるぶんにはいいけど、別に急がないよってこと。じゃ』


 そして電話は一方的に切られる。電子音とともに突き放される俺の疑問。……あげるつもりだった? あの十万円を?

 ふざけんなよ。

 つまり、端から俺の成功なんざ期待していなかったってことじゃねぇか。応援するふりして、内心じゃ俺を馬鹿にしてたってことじゃねぇの。


「……いや」


 事実、売れていない俺に何が言える。

 築四十年は下らない木造ボロアパートは、今日もうんざりするほどの隙間風に晒されている。涙が出るほど慎ましい六畳一間のワンルームには、近所のゴミ収集場で拾ってきたコタツと、こちらは自腹で買った作画用の机と椅子が一つずつ。家賃は管理費込みで四万二千円。地方出身の俺からするとケツから火が出るほど強気な設定だが、このへんじゃこれでもかなりお安い方なのだ。

 その、安いお家賃すら慢性的に滞納しがちで、引き落とし日前後は通帳の数字を見るのも嫌になる。

 俺の生活は一事が万事この調子で、誰かの憐れみに文句を言える権利なんてない。

 いや……正しくは、なかった。


「そうだ、今の俺には……」


 何となしに奥の押し入れに目を移す。押し入れには、昼間貰った一千万円がアタッシュケースごと押し込まれている。

 そう。今の俺にはアレがある。

 今ある借金を全て片付けてもなお、今後数年は遊んで暮らせるだけの大金が――それだけじゃない。一方的な気遣いや施し、憐れみを跳ねのける権利が。これまで俺に施された有形無形の憐憫。それらは時として、俺の暮らしを大いに助けてくれた。でも一方で、俺はどうしようもなく惨めだった。才能どころか努力ですら自活できない自分の無力さを、そのたびに思い知らされたから。

 そんな惨めな日々も、だが今日限りでおしまいた。


「そうだ、俺はもう……!」


 今の俺にはあらゆる贅沢が許されている。オシャレな服を買い、旨い飯を食う。何なら、このボロアパートも引き払ってやろう。そんで、もうちょっとマシな部屋に……いや、ここは思い切ってタワマンに住み替えてやろうか。それも米が炊けないほどの高層階に。俺を憐れむ〝普通〟の連中が這いずり回る下界を、高層階のバルコニーから見下ろすのはそりゃもう爽快だろう。

 夏の綿雲のようにむくむくと広がる未来のイメージ。数年ぶりに味わう希望やワクワクはいっそ懐かしいほどで、改めて、感覚すら忘れるほどそれらの感情と無縁だったことが悲しくなる。

 その悲しみも、しかし、一千万円がもたらす希望に呆気なく押し流されてしまう。

 さて……明日は何をしようか。 

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