第35話
宝良高校は文武両道をモットーに掲げているためか、県立高校の割に芸術関連施設が充実している。
俺が向かう音楽室予備室もその一つで。
校長の計らいで、音大受験を目指す環にのみ解放されている。
普段使ってないとはいえ、公立の施設を丸ごと貸し切りってすげーよな。
いつものように防音扉の小窓から中を覗くと、環の横顔が見える。
一心不乱に。
ピアノから生まれる鮮やかな音の世界に絡まり溶け合う環。
上気した頬。
潤んだ瞳。
力強くしなやかな指先。
いつ見ても扇情的で、色香に誘われ邪な気持ちになる。
こんな気持ち抑えるとか無理だろ普通に。
今日何回目かのため息をついて、ズボンのポケットから携帯を取り出し、
〈これ読んだら返事しろ〉
と環にLINEを送った。
そのまま扉の脇に座り込む。
練習の邪魔はしたくない。
熱情を宥めるような床の冷たさが心地よかった。
それからしばらくして。
ガチャッ!
「…えっ?大ちゃん??!」
勢いよく防音扉が開いて、パーカーを着て携帯を握りしめた環がこちらを見つめている。
お、終わったか。
「どこ行くの?」
環を見上げるなんて、いつぶりだろう。
俺がここにいるなんて思いもしなかった環は、想定外の出来事にアワアワしている。
「へ?いや、あたし、LINEあって、大ちゃんのとこ行こうと、あれ?でも大ちゃんここにいる??ありゃ?」
軽くパニックな顔も可愛いと思う俺はかなり重症だ。
「どうせここだろうと思って。
さっき教室出てきた。」
「そ、そっか!
床冷たいでしょ?
とりあえず中入ろ?」
はい、と差し出された手。
その手を思いっきり引っ張って環を抱きしめる。
そんな妄想を頭から打ち消して。
一拍置いてから手を取った。
「よ、っと。
お前力弱すぎ、立たせる気あんの?」
憎まれ口を叩く俺。
「大ちゃんが大きくなり過ぎなんだよ〜」
環はけらけら笑いながら俺を音楽予備室の中へと連れていく。
足元のカーペットに慌てて靴を脱いだ。
中央に黒く艶やかなグランドピアノ、
脇には折り畳み式のパイプ椅子、
左側一面に立てつけられた書架棚にあるのはファイリングされた楽譜だろう、ロッカーに収まりきらずに側に山積みになっている。
「課題曲がこう、どうもしっくりこなくてさー。
こんにゃろーっ!て弾いてたらLINE気づかなかった。ごめんね?」
困り顔で笑う環。
こいつがピアノでこんな表情するの珍しい。
煮詰まってんだな。
「難しいのか?その課題曲」
環はピアノ用の椅子に腰掛け、落ち着きなく足をぶらぶらさせる。
「ゔーん…
作曲者曰く『愛の目覚め』がテーマなんだけど。
『目覚め』には程遠い激しさと曲調なんだよねー」
いつもならこう、ぐわぁっ!と作曲者の気持ちがきて、うおぉお〜!ってなって、ばすんっとピアノの音にハマるんだけどなー。
と大きく腕を振り回して課題曲へのもどかしさを伝えてくる環。
ぜんっぜん分かんねえ…。
芸術家の表現は時に意味不明だ。
俺なんかが役に立たないかもしれないけど…。
「弾いてみろよ?
1人で悩んでるより建設的だし。」
「へ?いいの?」
頷くと、環はパァッと顔を輝かせて鍵盤に飛びついた。
俺は壁際のパイプ椅子を取り出し、環の後ろ側に陣取る。
「じゃあ、よろしくお願いします」
息を吸って、吐いて。
次の瞬間、重低音が空気を切り裂き白と黒の鍵盤の上を環の指先が流れるようにすべる。
歪な旋律。
繰り返し繰り返し、その不安定さを刻み付けるように。
時折可憐な表情をのぞかせて。
激しさと柔らかさ。
強さと弱さ。
あぁ、『目覚め』ってそういうことか。
めくるめく世界に浸りながら俺は笑い出しそうになる。
音階を変え、テンポを変え、
同じ旋律が奏でられながら、突然音に鮮やかさがなくなり失速して。
音符が水面に沈むような最後の一音が部屋を満たす。
しん、とする室内。
ゆっくりと足元にカーペットの感触が戻ってくる。
ほう、と満足げなため息をついた環。
ポニーテールからのぞく項の白さがやけに目に付く。
ちょっと、ヤバいかも。
俺は人差し指を立てて音もなく環に近寄る。
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