Life of snow

カンジョウ

白い朝に、ほどけて、、、

 ぼくは、海の底でゆらめく水の子だ。ずっと、仲間たちと波間を漂いながら暮らしてきた。水平線からの朝日、満ち潮のやさしいリズム、深いところを通り過ぎるクジラの声――そういう当たり前の光景のなかに、ぼくらはただ溶け合っていた。


 ある日のこと、ぼくは小さな違和感に気づいた。海面近くで、仲間たちが静かに形を失い、ふわりと上空へ消えていくのだ。最初は「戻ってくるよね?」なんて気楽に見送っていたけれど、どうやら彼らはもう戻らないらしい。少しずつ少しずつ、海面がやわらかく痩せていくような、そんな感覚がした。


 ぼくは怖かった。離れるのがいやだった。変わるのがいやだった。ここはとても居心地のいい場所で、仲間たちも大好きだから。でも、心のどこかで「外の世界も、きっとすてきなんだろうな」とうずうずしている自分がいることに、気づいてしまった。


 その日、太陽の光がいつも以上にあたたかく、海面を照らす。ぼくも自然と浮力に導かれて、上へ上へとのぼっていく。まだ名残惜しくて、振り返った先に見えるのは、深く青いぼくの故郷。

「行ってくるね」

 そう言ったつもりだったけれど、仲間たちには聞こえたかな。いつも一緒にいてくれたみんなの顔を思い出すと、胸がぎゅっと苦しくなる。と同時に、新しい景色への期待に心がわくわくと波打った。


 海面に顔を出すと、ぼくの体はしずくの姿から、かすかな水蒸気へと変わりはじめた。透き通る陽射しに溶け込んで、見える景色がぐんと広がる。どこまでも伸びる空、遠くに連なる山の稜線、海原を吹きわたる風――こんなに世界は大きかったんだ。涙のようなものがふっとこぼれたけれど、それもすぐに風の一部になって消えてしまった。


 「さようなら、海。いつかまた、きっと帰ってくるよ」

 心のなかでそうつぶやいた瞬間、ぼくはもう、ひとつの“雫”ではなくなっていた。ぐるりとあたりを見回すと、見知らぬたくさんのしずくたちがぼくに声をかけてくれる。

 「はじめまして。ぼくも湖から来たんだよ」

 「わたしは大きな川の出身なの」

 そうしてすぐに打ちとけあったぼくらは、やわらかな雲を形づくりはじめる。ぼくの世界は、この先どんなふうに変わっていくのだろう。胸の奥の不安と期待が、同じくらいの重さでぼくをゆらしていた。


 空のなかで新しい仲間と出会ったぼくは、やがて冷たい風のなかでゆっくりと凍りついていった。生まれてはじめて感じる「固い自分」。ちくりとした痛みをともなうけれど、そのぶん清らかな静けさが心にしんと満ちていく。


 ぼくらは、雲のなかで結晶という形を与えられていた。六角形の繊細な模様をまとって、自分でもふしぎなほど美しい姿になっていたんだ。雫だったときの自分とは、まるで別人みたい。でも、どこか懐かしい感覚も残っていて、「ああ、これがぼくの新しい姿なんだ」と自然に受け止めることができた。


 雲がほどけて、地上がすうっと近づいてくる。夜の町はしんと静まり返り、街灯のオレンジ色に照らされた道路が見えた。人々は家のなかで眠りについているのか、窓だけがほのかに光を放っている。そのやさしい灯りを見下ろしたとき、なぜだか知らないけれど、ぼくは海の青さを思い出した。


 ひらひらと舞いながら、ぼくはしずかに着地する。コートを羽織って外へ出てきた人間が、夜空を見上げて驚いたように笑みを浮かべた。降りしきる雪を手のひらで受け止めて、「きれい……」と小さくつぶやいている。その声がぼくにまで届いてくるようで、心があたたかくなった。

「ぼくは、いまここにいるよ」

 そう言いたくても、言葉にはならない。だけど、ぼくの透明な結晶をじっと見つめる彼女のまなざしに、ぼくは確かに存在を感じられた。


 夜が明けて、空が白くにじみはじめると、ぼくら雪は少しずつ溶けだしていく。せっかく得た白い結晶の姿も、やがてまた水に戻ってしまうんだと思うと、正直ちょっと切ない。だけど、これはぼくらの宿命のようなもの。今までいろんな仲間たちと出会ってきたように、またどこかで別のかたちになって、新しい世界を知るんだろう。


 すっかり溶けて、小さな水たまりになったぼくは、とうとう地面に染みこんでいく。土の奥へ潜りこみ、細い流れをつくって、川の水脈へ合流していく。その先に広がるのは、あの懐かしい海かもしれない。もう一度帰ったら、あの日別れを告げた仲間たちと会えるかもしれない。


 さようなら、白い結晶だったぼく。ようこそ、新しい水のぼく。

 別れと出会いを抱えながら、ぼくはまた、ゆるやかに循環していく。これが“終わり”ではなく、“はじまり”なのだと、今ならはっきりと言える気がする。



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