高嶺の花5/犬飼さん【中編】
私は昔、犬を飼っていた。
ゴン太という可愛らしい子犬だ。
何にでも噛みついてしまうクセが当時子供だった私には、気に入らなくて、よく叱っていたのを覚えている。
ゴン太との日々は楽しかった。
毎日のように散歩して、公園に遊びに行って、一緒にお昼寝なんかしたりして。
噛み癖がなければ完璧なのに、と幼い私は思ったけれど、今の私はそうは思わない。だって噛み癖含めてゴン太なのだから。自分が気に入らないからといってその子の個性を尊重しないで自分の考えを押し付ける行為は、ただのエゴでしかない。
私にとっては完璧。じゃあゴン太からしたら?
大きくなった私は、ついそんなことを考えてしまう。
ずっと続くと思っていたゴン太との日々はある日、唐突に終わりを告げた。
ゴン太が殺されてしまったからだ。
悪い男の人から私を守ってゴン太は死んだんだ。
門限を破って散歩に出かけたのが悪かった。
「あっ、あまねちゃん。デュフフッ、直ぐにお兄ちゃんと一緒になれるからねッ!」
「なんでそんな目をするんだッ! そんな目で僕を見るなあッ! あまねちゃんは僕の妹なんだからさあッ!」
男の人は挙動不審で、優しく声を掛けてきたかと思うと次の瞬間には激昂していて、とても怖かったのを覚えている。
訳のわからない人だった。私には兄なんていないし、その男の人とは初対面の筈だった。それなのにどうして私の名前を知っているのか。どうして無理やり私を車に乗せようとしているのか。
ゴン太は私を守るために男の人に噛みついた。
当時、私が嫌っていた噛み癖を武器にして。
でも体格差は歴然で、ゴン太は男の人が車に乗せていた金属バットで殴られた。何度も何度も殴られた。
私は怖くなってゴン太を見捨てて逃げ出した。
助けを呼ばないと……そんな言葉を免罪符にして。交番に行ってお巡りさんを呼んで来た時にはもう遅かった。
ゴン太は死んでいた。力なく地面に横たわって。
男の人はそんなゴン太を見下ろして……笑みを浮かべていた。まるで嘲笑うかのように。
あのあと男の人は逮捕された。
後から聞いた話によると、男の人は心療内科に通院する元サラリーマンだったらしい。仕事で精神を壊してフリーターになって、妄想にふける日々を送っていたそうだ。それでいつしか妄想と現実の区別が付かなくなって、癒しを求めた彼は町で見かけた私を妹だと思い込んだらしい。あのまま車に乗せられていたらどうなっていたのか、考えたくもない。
私はゴン太に助けられた。
そして、そのことをずっと後悔している。
どうして私は、逃げてしまったんだと。
◇◇◇
「待ってください! 金城さん!」
私の手を取って廊下を進む金城さんに、私は止まるように声を荒げた。
「どうしましたの犬飼さん? まさか……戻るなんて言い出しませんわよね?」
金城さんの声音が少し怒気を帯びている気がした。きっと気が立っているのだろう。私の考えていることは金城さんの言う「まさか」だったので、少し気後れてしまう。
……それでも私は言葉を吐き出す。
もう後悔したくないから。
「戻りましょう! あの子を置いて行けません!」
「完全にこのまま逃げる流れだったではありませんの! 空気を読んでくださいまし」
空気って……そんな空気は読みたくもない。
白髪の子は今、ゴブリンと二人っきりだ。頭のおかしな異常者と狭い教室で二人きりでいるんだ。このままでは殺されてしまう。あの棍棒で、何度も何度も殴られて。
「あなたも見ましたわよね? あの身のこなしを! ただ者ではありませんわ。きっと軍人にも引きを取らない戦闘力を兼ね備えたスーパー女子高生なのですわっ!」
金城さんが何を言っているのかわからなかった。
私は目をつむっていたから白髪の子の身のこなしなんて知らない。でもこれだけは言える。
ここはゲームや小説の世界じゃない。
ましてや妄想なんかじゃない。現実だ。
「なに馬鹿なことを言ってるんですか! そんな女子高生がいる訳ないじゃないですか!」
私がそう言うと、金城さんは「でも……」と言い淀んでしまった。こんなところで言い争ってる場合じゃない。早く戻らないと手遅れになってしまう。あの子が地面に横たわる姿を、得たいの知れない怪物に嘲笑の笑みを向けられる姿を見るのは……もう嫌だ。
「待ってくださいましっ!」
きびすを返す私の手を金城さんが掴んだ。
振り返ると金城さんの瞳が涙で潤んでいた。
「もう戻りたくありませんの。やっとの思いで逃げ出したというのに……」
金城さんの膝はガクガクと笑っていた。
金城さんはすがるように私の背に身を寄せてくる。
「どうか私と逃げてくださいまし。それが罪だと言うのなら、私と罪を被ってくださいまし」
なんでそんな酷いことを……。
金城さんは今、見捨てろと、はっきりそう言った。そんなことを言う人だったなんて思わなかった。私は一緒に戻ると言って欲しかったのに。
「私、金城さんのこと好きだったんですよ?」
「え?」
だからだろう。私の口は私の意に反して本音を話し始めた。もう、止められそうにない。
「何にでも張り合おうとする姿勢が、決して逃げないそんな性格が、好きでした。それなのにどうして肝心な時に張り合おうとしないんですか?」
「それは……」
「空気を読め……でしたっけ? それは金城さんの方じゃないですか! あの時、金城さんは私と一緒にあの女の子に加勢すべきだったんです。いつもみたいに胸を張って肩を並べるべきでした。なのに私の手を引いて……逃げ出した」
金城さんは私から目をそらしてしまった。
その反応を見て私は少し安堵する。
金城さんには迷いがある。目をそらすということは心の何処かで助けたいという思いがあるからだ。金城さんは自分の選択が間違っていると自覚している。理解した上で迷っている。
私の言葉で彼女が心変わりしてくれるならーー。
「私はーー」
私が言葉を続けようとすると、金城さんがハッと思い付いたかのような顔をして私に視線を戻してきたので、私は言葉を飲み込んでしまった。その顔は活路を見いだしたような顔だった。
ああ……駄目だ。嫌な予感がする。
「そうですわっ! 助けを呼びませんと。私たちは逃げてる訳ではありませんの。そうですわね、ここは大人の力を借りましょう。幸い、ここは東校舎。職員室が丁度この下にーー」
案の定、嫌な予感は的中した。
「……っ」
私は言葉を失った。
まるで鏡を見ている気分だった。
金城さんは自分を正当化し始めた。
自分が逃げ出したい一心で、ベラベラと免罪符を並べ立てて、これじゃあまるで、まるで……昔の私だ。ゴン太を見捨てた忌々しい私だ。
「これは冷静な判断に基づく最善策ですわ! さあ、そうと決まれば早く下の階にーー」
ああ、駄目だ。
手に力が入ってしまう。
奥歯を噛みしめてしまう。
目の前にいる金城さんがしょうもない人間に思えてきた。保身から土壇場になって平気で手の平を返す人間。あんなに愛してた愛犬を見殺しにしてしまう昔の私のような人間。
今の金城さんは……嫌いだ。
「……私の知ってる金城さんは、そんなこと言いません。もういいです。一人で助けに行きます」
私は金城さんの手を払って廊下を走り出す。
知らなかった。金城さんが、彼女がこんなにも、弱い人だったなんて。
「あなた一人で何ができると言いますのっ! 私をっ、私を置いて行かないでくださいまし……」
彼女の声が遠くなっていく。
私はその声を無視して廊下を進む。
あの子が待ってる教室へ。
ああ……、ああっ、気に入らない。
『経験値が一定数に達しました。それに伴い
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