高嶺の花6/犬飼さん【後編】
『経験値が一定数に達しました。それに伴い
頭の中で声が響いた。
それは無機質な女性の声だった。
「……いや」
でも今はそんなこと気にしてる場合じゃない。
早くあの子を助けに行かないと。
「ゲッホ、げっほ、おえっ……」
それにしても、酷い匂いだ。
鼻が曲がりそうな程に濃い鉄の、血の匂い。
私はハンカチで口元を押さえる。
でも息を荒げて廊下を走っているせいで、嫌でも血の臭いが鼻と口を通して身体に入ってくる。
どろどろとした死臭が私の感覚を狂わせていく。
気をしっかり保たないと確実に正気を失ってしまう。
「あと少し……」
彼女がいる教室が見えてきた。
私はそのまま教室へーー
「…………ンーンーンーンーンーンー」
ーー行けなかった。
思わず足を止めてしまった。
教室から
さっき聞こえた無機質な幻聴とは違う。
酷く冷たい凍てつくような声音だった。
「……っ」
ブワッと鳥肌が立つのがわかった。
静かに響く
「……あ、れ?」
廊下が赤く染まり、伸びていくような錯覚を覚えた。近づいていた筈の教室が、遠く思える。さっきまで騒がしかった周囲はいつの間にか静まり返っていて、唄が、唄だけがはっきりと耳に入る。
この唄は、『かごめかごめ』だろうか?
自然と脳内で歌詞を補完してしまう。
「…………かーごーめーかーごーめー」
唄が頭に焼き付いてく。
立ちくらみのような目眩がして、私は壁に手を付いて足を踏ん張った。
視界が揺れる。足元が
地震でも起きたのだろうか?
いや、違う。世界が震えているんじゃない。
私が震えているんだ。
身体が、脳が警告している。
これ以上、教室に近づいてはならないと。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
動悸がして過呼吸になる。
入ってくる空気はもちろん血に満ちた淀んだ空気だ。だからだろうか。より一層、気分が悪くなる。
私は震える足で一歩、また一歩、歩みを進める。
震える身体に鞭を打つ。
もう逃げないと決めたから。
ーーーーそして、恐る恐る教室を覗いた。
「……あっ、ああっ」
私が見たのはおぞましい光景だった。
血に塗れた教室で、血に塗れた白髪の女が楽しそうに黒く濁った緑色の物体を解体する姿。
それはついさっきまで、ゴブリンだったものだ。
血塗れの女はゴブリンの腕をへし折り、足を畳み、嬉々としてそれをゴミ箱に詰め込んでいた。
分別のために並べてあった3つのゴミ箱。その全てが燃えるゴミに変えられてしまっていた。ゴミ箱からはそれぞれ手足が生え、血で満たされているのか、ボタボタと黒い血が溢れ出る。
血塗れの女が笑みを浮かべて気の棒でゴブリンを、緑色の肉塊をゴミ箱に押し込める。鼻唄を歌いながら。楽しそうに。
「……かーごのなーかのとーりーはー」
どうして……怖がってたんじゃ……。
わからない。あの女のことが何も理解できない。
どうして、こんな酷いことをできるの?
どうして、笑っていられるの?
私は絶句してその場に立ち尽くしてしまう。
何処か他人事のように呆然と。
……ふと、この光景に既視感を覚えた。私は何処かでこの光景を見たことがある。あの女と会ったことがある。そんな気がした。
「……いーつーいーつーでーやーるー」
何処だ。私は何処でこの血塗れの女と会った?
その目は、その笑みは、確かに何処かで見たことがある。いや、正確にはこの女ではない。この女と同じ存在。同じ何かに取り憑かれた同類。
「……よーあーけーのーばーんーにー」
……ああ、そうだ。あの男だ。ゴン太を殺したあの男っ! ゴン太を笑顔で撲殺したあの、妄想に取り憑かれた異常者。
「……つーるとかーめとすーべったー」
この血塗れの女はあの男と同じ目をしている。
同じ笑みを浮かべている。
「は、はは、は……」
私の口から渇いた笑い声が漏れた。
まるで、悪い夢を見てるかのようだった。
……ああ、そうか。
ずっと疑問に思っていた。どうしてゴン太を殺したあの男が笑っていたのか。どうして平気で命を奪うことができるのか。理解できなかった。
でも、ようやく…………理解してしまった。
人は妄想の中なら何でもできる。
夢うつつの中なら何にだってなれる。
ゴブリンと戦うことだってできるし、存在しない妹を作り出すことだってできる。ーーーー気に入らない命を、笑って殺めることだってできる。ゲームでモブキャラを特に意味もなく殺す感覚で。
現実が見えないから、平気で妄想染みたことができるんだ。だってあの男にとって、この女にとって、妄想が現実で、現実が妄想なのだからっ!
この女は私のような奪われる側の人間じゃなかった。奪う側の人間だったんだ。あの男のように。
「……うしろのしょうめんーーーー」
「あっ、あああああああああっ!!」
私はその場から逃げ出した。
私は走る。
あの女の妄想に、あの女の世界に、飲み込まれないように。
関わってはいけない。
あの女が、どんな妄想を見ているのか、わからないから。
なにが、なにがヒーローだ。この女は主人公なんかじゃない。もっとおぞましい、対極にある何かだ。
◇◇◇
私は廊下を歩く。
同じ廊下を行ったり来たり。
馬鹿みたいだと思った。
「……謝らないと」
私は彼女に酷いことをした。
自分が気に入らないからといって、彼女の意見を尊重しないで自分の考えを押し付けてしまった。自分の考えが正しいと思い込んで、完璧を求めてしまった。
勝手に期待して、勝手に失望して。
私は最低だ。何も成長していない。
これじゃあ昔の私と何も変わらないじゃないか。
ゴン太に完璧を求めていた昔の私と何もーー
ーーーー変わらない。
「……えっ」
遠くの方で金色の髪をした女の子が倒れていた。
冷たい廊下の真ん中で
なんで……なんでなんでなんでなんでなんでッ!
『………………かーごーめーかーごーめー』
私は覚束ない足取りで女の子に近づく。
どうか間違いであって欲しい、そんな思いで近づいて彼女の身体を抱き起こす。
……ああ、ああっ!
間違いない。彼女は……私の大切なっ……。
『………………かーごのなーかのとーりーはー』
私のせいだ。私が置いて行ったから。
私がひとりにしたから。どうして私は彼女をひとりにしてしまったんだ。教室の外が危険なことくらい少し考えればわかったのに。
離れるべきじゃなかった。私は彼女の方を助けるべきだったんだ。なのに私はっ、ゴン太を置いてけぼりにしてしまった!
あ、あれ? ゴン……太?
『…………いーつーいーつーでーやーるー』
私は気づくとゴン太を抱いていた。
金属バットで殴られてボロボロになった愛犬を。
そんな筈はない。
私は廊下にいた筈だ。
廊下にゴン太はいない。
だってゴン太は遠い昔に……。
ふと顔をあげるとそこは昔見た景色だった。
夕暮れ時。いつもの散歩道。
いつもと違う点はふたつ。
門限を破ったせいで赤く染まった空と、異物のように停車している黒い車。
『……よーあーけーのーばーんーにー』
訳がわからなくなって私はゴン太に視線を戻す。
するとそこには、彼女がいた。
虚ろな目をした…………金城さんが。
ああっ、誰がこんなことをっ……!
いや違うっ。誰でもない。私だ。私のせいだ。
私が金城さんを見捨てて逃げ出したからだ。
『つーるとかーめとすーべったー』
ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ゴン太っ、いや、金城さん? ……あれ? なんでっ、こんな筈じゃ……わかんないっ。もうなにもっ、私はどうすれば……良かったの……?
私は腕に抱いているモノを強く抱き締める。
「はっ、あはっ……はっはっ、はっはっハっハッハッハッハッハッ!!」
『うしろのしょうめん
だぁれ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます