壱


 無境門をくぐった先は異様なほどに静まり返っていた。櫓に掻き分けられた柔らかな水音だけが耳の唯一の頼りである。

 月の光を遮り、整列した小さな松明だけが照らす中、底の見えない水路は楫取かんどりの恐怖心を身の毛をよだたせるほどに煽った。

 彼は終始怯えて言の一つも発さず、ただ首を竦めて、辺りをきょろきょろと窺っていた。中を流離さすらう風はひんやりとしていて、麻衣あさぎぬだけでは身震いをしてしまう。舵はゆっくりと取られ、大きな音を立てないように進んでいった。

 越境・・をしてから舟は、五分ほどの時をかけて、僅かな明りを頼りに波止場に辿り着いた。その間、ユィと楫取りの間に会話は一つもなかった。厳密には、楫取りがおののきすぎて会話どころではなかったのだ。

 焲は貴人の如き威厳のある素振りで、揺れ動く舟を颯爽と降りる。

「ご苦労、感謝する」

 笠を取って初めて露わになった彼女の顔に楫取りは胸を打たれ、目を丸くして彼女を見つめた。

 低く束ねている朱色の髪は艶やかで、下に伸びるほど色は薄まっていき、グラデーションが綺麗に彼女の影を作り出している。瞳は燃えるような赤色だが、その奥には万物を見据えるような確りとした意志が垣間見え、それでいて雰囲気は優しく穏やかだった。所謂いわゆる、美人である。

 焲の一言で、楫取りはまるで呪縛が解けたかのように胸の痞を下ろして、緊張の緩まった表情を浮かべながら舟を戻していった。

 舟が暗晦の中を進み、消えゆくその最後を見守ってから、焲は軽い溜息をいた。

 見栄を張っていたわけではないが、緊張していないというと嘘になる。この緊張というのは悪い方に作用して、それは彼女の心身を着実に蝕んでいったし、彼女もそれは理解していた。

 しかし、彼女の立場上、「弱気」は見せれば命取りとなる。四方八方よもやもに蔓延る魑魅魍魎の輩が、彼女と、彼女の率いる種族を滅ぼそうと目論見を企てるのだ。

 焲は今、非常に大きな権力と財産、そして栄誉をその身に背負っている。その分圧し掛かる重圧は並大抵ではなく、焲自身、そのことには大きく悩んでいるところであった。

 ——いた息をぐっと吸い込んで、覚悟の胸を張る。人相も目付きもがらりと変容し、それはまるで四方八方の輩を薙ぎ払うような鋭利なものになった。

 長槍を握る門番に会釈を交わす。すると扉はすぐさま開かれ、躊躇なく彼女はその扉を抜けていった——。


 本殿というのも、さして豪華なものではない。武家邸をぐっと広げたようなもので、風通しの良さと光の届きにくさだけが並みの邸との違いだろう。

 広間には蝋燭が等間隔に並べられ、どれもゆらゆらと柔らかな風に揺られている。

 その許には様々な風格の人物が皆、畳の上で胡坐を掻いたり、正座をしたりして腰を据えていた。

 筋肉質で恰幅の良い益荒男ますらおから、淑やかで凛とした手弱女たおやめ。僧侶のような恰好の威厳ある男から、肚の見えない奇怪な女まで。誰も役被りすることのない、異質で、摩訶不思議な空間であった。

 今宵、ユィは私情の為に談議に遅れてやってきた。彼女を除いて、その広間には八人の棟梁とうりょうとそれに付き従う御供が数人おり、彼らは焲の遅れた入場を様々な形で迎えた。焲は謝ったり、心配に感謝の意を伝えたりして、己の座るべき場所へ趣き、そっと腰を下ろす。

そちの所為で、今宵の談議は四刻も遅れておる。なァ? 焲殿」

 息の落ち着くその暇もくれず、焲の目前で歌膝を組んで座る女が彼女を揶揄う。一間を置いて、焲は其奴そいつに目もくれず、ぞんざいに謝った。

「私情を理由にするつもりはない。私が悪かった、すまぬ」

「ふふっ——、つまらん奴め」

 女は鼻で嗤い、軽侮の念を堂々と露わにした。


 ユィン——。

 無境門を超えられる九つの種族の内、三番目の権威を有する種族「犬部けんぶ」の棟梁であり、齢二十を超える女である。

 肌は真珠の如く艶めいていて、染みの一つも見当たらない。白銀の色が纏っている長髪から眉の先にまで伸び、甘美かつ蠱惑的な雰囲気が彼女の背後から滲み出ており、その姿には誰もが一度は魅了されようものだ。

 しかし、そんな彼女がひとたび口を開けば、それはすぐに覆される。煽情的な口ぶりに、己の長所である「美」を最大限に活かした、少々危なっかしい妖艶な社交性。まつりごとになれば棘のある言い方も辞さず、それが故に彼女をよく思わない者も数知れず。

 焲もその内の一人と言え、犾と対照的な性格である焲はいやとは言わずとも、彼女との交流に多少の難を感じていた。一筋縄ではいかない犾の存在が、彼女の責務に重荷を成している。

「——静粛に」

 対面で成される列の先頭で鎮座する、頭の禿げて落ち着いた中年の男が、小さく言を放つ。すると一行は数瞬の間に静寂を作り、次なる彼の指示を待った。

 目を瞑り、涅槃の境地にいるかのような落ち着きを払う——結跏趺坐けっかふざを組むその男は、人部族のゾン。無境門で行われる談議——即ち九つある漢種の中で最も権威のある種族の長であり、無境門で執り行われる政の最終決定権を有している重要な人物である。

 四角四面な人間で口調もかなり堅いのが特徴で、それは御供が暫し訳を挟むほど。常に正装を纏い、髪は一本もない。鬚を少々生やしており、熟考する際にはその鬚をそっと撫でる癖がある。

 彼は人部族である為に群を抜いて理性的で知性に溢れ、これまでに数多の功績を残した。無境門を作り乱世をうまく鎮めたのがその代表で、故に彼は今、不動の地位を築き上げている。

「——我們がもんは本殿にて種の隔壁を超越し、如何なる利己的な私情、また稟性ひんせい展開の一切を禁ずる。建設的で有意義な談議を行うよう。乾杯」

 低めいた声でそう言うと、続いて皆も口を揃えて乾杯と唱える。

 これが談議開幕の挨拶のようなものであり、またこの談議においては、倧の言った口約を守らなければならない。

 境無く公平に接し、稟性を使わないこと——。

 柔らかな風は不安を煽るように焲の背筋をなぞる。蝋燭の灯りも風に揺られ、不穏な影は左右に靡いた。

 焲は誓約の盃を口に含みながら、犾のことを凝視した。バレぬようじっくりと、針を穴に通すように——。

 れど、焲が小さな盃の酒を飲み干す前に、犾が彼女の視線を掴んだ。焲は思わず驚く。気配は消していたというのに。犾は焲の僅かに驚いた顔を察知し、それから目をぐっと細めて、口角をニヤっと上げて見せた。恐ろしいほど欲情に訴えかけ、己の底にある本能を擽られる感覚。

 焲は身を引きそうになるほど慄いた。その感覚が初めてで、まるで心底に寄生した「何か」が己の感情を支配するようなものであったからだ。

 我に返ってもう一度犾を見た時、彼女は外方そっぽを向いてまるで何もなかったかのように談笑をしていた。焲は我知らず、口を紡いだ。


 談議にはその供として、必ず酒が用意される。將進に酒を進め、酔いあやかってまつりごとについての談議を嘘偽りなく行うのだ。

 今宵はその四夜目にあたり、棟梁たちもようやく互いに慣れてきた、というところである。

ユィ殿! 今宵は何故遅れてこられたのか!」

 顔を真っ赤にした武将肌のチュウが、笑いながら焲に訊ねる。彼は竹族ちくぞくの長にして、頼りになる偉丈夫な男だが、酔いが回ると少し厄介な面を見せる。

 竹族は武器商から辺鄙な曲者まで数多く揃い、無境門を超える九つの種族の中でも四番目に漢種を多く抱える一大種族である。政は上手くいっており、外交に関しては中立の立場を取っている。故にこの談議にも緩衝材として呼ばれているようなもので、彼自身の負担というのは少ない。

「遅れたのは私の勝手によるものだ。本当にすまなかった」

 焲はバツの悪そうに答えるも、酔っている筹にそれを察する判断力はない。

「真意を申してみよ! だれも怒ってなどおらぬ。そうであろう? ソウ殿」

 筹は彼と対面して座る娩沢で楚々とした女——蒐に話を振った。

「あまり興味はない」

 これに対し、蒐は素っ気ない素振りで、筹の話をさらりと受け流す。あまりの絡まなさに、焲は眉を顰めて蒐を一瞥した。

 ——律儀な正座で、すらりと伸びる足をちんまりと降り畳んでいる蒐は、新緑のように透明感のある、薄緑色の端麗な髪を揺らしながら、くいっと八塩折の酒を呷る。

「蒐殿にはいつも冷たくあしらわれる……。然れど、あれほどの美人……いつか手にしたいものであるな……」

 でろでろに酔う筹は頬肘をつきながら、うっとりとした視線を蒐に向けた。

 そちらにずっと気を取られていてくれ、と焲は心の隅でそう願い、安堵の溜息を吐く。

「——きっと、シャオのことだろう……?」

 盃の二口目を口へ持って行ったところで、厭な言の旋律が焲の耳を過った。

 得た安堵を数瞬の間に緊張へ変えて、声の主の方へ振り返る。

 まただ。

 また彼女が、犾が。こちらをじっと覗っている。厭が付くほど集中的で、焲を絶対に逃がすまいとの思念が込められている——。

 しかし、焲とて、それほどのことで畏まるような器ではない。平然を取り繕うことなど、権威者として当然のことである。

「灲はまだまだ幼い。十にも満たぬ若さだ。手の掛かることは多々とある」

「ふっ——。まぁ幼ければ、自分が殺される理由も分からんだろう。哀れだな」

 ユィは怪訝な表情を浮かべ、首を傾げながらユィンを睨んだ。瞼を細めて見せる眼光は、犾に嫌疑の意を向けている。

「何を、言っておる」

 焲には漠然とした想像しかできなかった。犾はそうなることさえも予想していたかのように、満足気な面持を見せつける。

「帥の跡取りというだけで、その幼きめいを終えるなぞ、いとも哀れだと言っておる」

「お主……一体何を考えておる?」

 焲は声量を抑え、僅かな猝嗟を囁くようにして犾に近づく。談議は確りと行われているものの、酔いの所為で陣はもう崩れている。焲が犾に接近しようと、誰も気に留めることはない。

 犾は暗い微笑を見せたまま、にじり寄る焲を見下ろした。微弱な影は犾の端麗な純白の肌に陰影を付け足し、立体的なおもては厭が付くほどあでやかで恐ろしかった。鼻筋を境にくっきりと影が生まれ、舐めるように見る彼女の眸に、暖色の蝋燭がゆらゆら蠢いている。

「今宵も……わしの重用は此処に居らぬ。はて、夜伽でもしておるのか……。それとも、火を吹いておるのか——」

「おのれ——」

 本格的に酔って盃を振り回す筹が、彼女たちの会話に割り込んでくる。茹蛸のように顔を赤らめ、到底状況を把握しているとは言い難い。

「犾どのぉ! 今宵も〈菖蒲之匈あやめのきょう〉は居らぬのか! 其方そなた自慢の側近、此処へ一度も顔を出さぬではないか!」

 犾は焲の刺すような睨みを撫でるように躱し、筹を軽くあしらう。

「すまぬな、筹殿。あいにく奴は今宵、狩りに出掛けておってな——」


 ——深い、ふかい森林。樹海とまでは言わずとも、月明り一つではなんとも頼りない。それほどに縹渺としていて、そこは暗晦に包まれている。

 静寂で、暗闇に先はない。視界は青冷めていて、同じ景色が延々と続く。自然的であっても生命の予感は一つも感じられず、そんな無機質な森林は、踏み入る者を呑み込む罠のように周囲の山々に溶け込んでいた。

 どどどっ——どどどっ——と、馬の襲歩が聞こえる。一定したリズムは相当の遠方から。未だ籠った足音は段々と大きく、激しくなり、何れや森の中を高速で駆けていく。草木は高速で走る馬に釣られて風に纏われ、ざさっと大きく揺れた。

 駿馬に騎乗するは、巧みに馬を操る中年の武将と、齢十にも満たぬ小柄な幼女。幼女は武将の前に座り、疾走する馬にからだを大きく揺らしながら、森の中を駆っている。その面持は純粋で、何故夜中に連れ出され、馬に駆られているのかも分かっていない。

 対する中年の武将は、声にこそは出さずとも、戦慄とした表情は隠れ切っておらず、馬を操る手綱には焦燥の汗がびっしょりと染みついていた。時折後ろを振り返っては渋った顔をし、「はぁっ!」と意気を入れて馬をより一層速く走らせる。

ソウ、私たちは……どこへ?」

 幼女は何気なく彼——ソウに訊ねる。彼は前やら後ろやらと忙しく首を振りながら、面と向かう暇もなく、しかし極めて優しく答えた。

シャオ様。私たちはこの森を抜け、我々の親戚の許まで走りに行きます。暫し長くなりますが、どうかご容赦ください」

 息の荒らぐ樔は馬の疲弊など露知らず、只管ひたすらに走ることだけを考えている。否、「逃げる」といった方が精確かもしれない。

 灲は必死になって逃避する樔を不思議に思いながら、彼と彼の操る駿馬に身を任せて、その小さな体躯を揺らし続けた。

 少しばかりに走り続けていると、背後が徐々に熱気を帯びてきたことを感じる。樔はそれを感じた刹那、背に冷や汗をだらりと掻いて、遂には馬に無茶をさせてしまう。

 三里と走った馬にそれ以上を求めるのは無理だったようで、暗闇の中、餌食を喰らう鷲よりも速く走った馬は、小さな石ころに前足を躓かせて盛大な転倒を果たした。急激に振り払われた灲と樔は慣性に身を投げ出して、遂には崔嵬の獣道に大きく躰を打ち付けた。

 土埃がぐわっと立ち、凄まじい衝突音は僅かな余韻を残して暗晦の奥へと波紋し、消えていく。

 横たわる灲は朦朧とした意識の中、細めた目つきで辺りを見回す。頭がずきずきして、躰じゅうから打たれたような打撲感を感じる。到底起き上がれそうになく、結局その場でぐったりとのびてしまった。

「…………っ。……さまっ! ——灲様っ!」

 次に目を覚ました時、目前には傷だらけの樔が涙で眸を潤わせながら、懸命に灲のことを呼んでいた。

「んんっ——。樔——」

 囁くよりも小さな声量で言を零す灲に、樔は安堵の溜息を吐いた。

 熱気は先ほどよりも感じやすく、辺りには仄かな火粉ひのこがちらちらと舞っている。周囲の闇黒さも相俟ってか、紅色の発光は情緒的な雰囲気を醸し出し、灲の心中を夢中にさせた。

「わぁ……」

 しかし、寸陰の間に樔が彼女の肩を掴み、灲は目前の巨漢に集中を削がれた。

「——灲様! 良うございますか。私は此処で来客を迎えねばなりませぬ。灲様は日の出と共に、日のづる方とは逆の方へ走ってください。決して、止まってはなりませぬぞ」

 樔はいそいそと喋りながら、水の入った竹筒を灲に手渡す。唐突として、いとまもなく進む事に幼い灲はついていけず、ただやんわりとした相槌を打つことしかできない。

 樔はごつごつした、角張った太い指で、灲の純白で小さな手を優しく握る。樔の手に皺の数は幾百。目立つ傷もある。対する灲の手に傷は疎か、皺の一つも見つからないほどに綺麗で、美しかった。

 そんな彼女の手の甲に、温かな涙がほろりと、一滴。

「あぁ——、灲様はきっと、強いお方になられる。…………貴女様の生涯に、わたくしがほんの僅かしか居られないことが、誠に残念でなりません……」

「どうして、泣いているの……?」

 灲は首を傾げる。

「ふふっ。嬉しくて、泣いているのですよ。——灲様。私は先にいきます。どうか、ご無事で」

「どこに行くの?」

 樔は言葉に詰まった。灲はこの世のことわりをも見抜けそうな純粋な眼差しを、彼に向けている。

 しかし、きゅっと握り返された温かみを、樔は悔しくも手離すほかなかった。

 沈黙は金。

 樔は言を放つことなく、重い腰をゆっくりと上げる。

 火粉はひらりと舞い続け、樔は直垂ひたたれの袖を靡かせながらそれを掃う。そうして、彼は熱に呑まれるように暗い森へと消えていった。

 ——灲はしばらく呆然としていたが、やがておもむろに立ち上がった。正直、何故だかは分からない。彼女は立って、逃げるべき方向とは真逆の方へと歩み出した。彼の背を追うように。

 しかし、怪我を負った少女ががたいの良い巨漢に追いつけるわけもなく、彼女自身も追いつこうという気はなかった。ただ、彼の行く先を。彼がいったい誰を迎えるのかを……。

 原動力は、無意識から成る好奇心からだった。

 数瞬の間に影すらも見えなくなったが、彼女は自分の勘を信じて直進する。面をむわっと襲う厭な熱気に逆らって、模糊たる樔の影を追う。

 ——しばらくの間も置かぬうちに、凄まじい衝突音と爆発にも近い音が灲の耳を襲った。勘は的中していたようで、音源は前方のそう遠くないところからである。

 灲は今までに聞いたことのない、恐怖に駆られる音に腰を抜かしたが、それでも這いつくばって彼を追った。

 やがて、野太い怒声と共に、炎の高く舞う明かりが灲の幼き顔を照らした。

 森が、燃えている。

 夢中になっていた灲が正気を取り戻した時、辺りは一面火の海であった。火が、焼けてしまいそうに熱い炎が、彼女の周囲で木々を貪りながらめらめら踊っている。

 灲は怖くなった。

 周章てて茂みを掻き分け、樔の声のする方へと這い進む。地面の砂が爪の中を抉り、不快で堪らなかった。

 でも、そんなことよりも、一目散に樔の胸へと飛び込みたかった。あの熊のように大きく、それでいて快闊で優しかった樔の許へ——。


 この世に生を受けて九つの灲が、初めて見た光景。

 つい半刻前まで手を繋いでいた勇猛な武者が、一人の女を前にして踊っている。全身に火を纏い、黒焦げになりながら。大きく口を開け、声にならない叫びを上げて、必死に藻掻いている。

 周囲の轟々と燃える炎たちと共に、あちらへ、こちらへ。

 唐草模様の直垂の破片が、焦げながら宙を舞って地に落ち、それに続いて樔の眼であったであろうものが、ぽとりと淋漓して、粘っこく地面に張り付いた。

 それを草履ぞうりで踏みつける樔は、立はだかる女へ縋ろうと近づくも膝を崩し、やがて身は焦げになり、そして、消えた。

 文字通りに、消えた——。

 灲はその惨憺たる現実に言を失った。声を失った。我を失った。

 身震いを起こし、旋毛から足の指の先にまで鳥肌を立てて、慄いた。全身が痺れて、五感を失った。

 茫然自失として、ただ目前で起きたことを目視するしかなかった。

 瞳孔が開き、眸の焦点が合わず、ふるふると震え続けている。そんな灲に樔を殺した奴の姿は、判然と映らなかった。揺るがぬ影だけがそこに在り、それは到底常人といえるものでなかったことだけは確かである。

 灲はもう生きる気力を失って、荒い地に頬を打ち付けた。

 言を発す力も失って、僅かに唇を震わせながら、薄れていく景色をぼんやりと見つめる。

 やがて瞼が段々と重りを成し、そして遂に灲が目を覚ますことはなかった。


 灲、享年九——。

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猋焱物語 ؜狄 @dark_blue_nurse

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