壱
壱
無境門をくぐった先は異様なほどに静まり返っていた。櫓に掻き分けられた柔らかな水音だけが耳の唯一の頼りである。
月の光を遮り、整列した小さな松明だけが照らす中、底の見えない水路は
彼は終始怯えて言の一つも発さず、ただ首を竦めて、辺りをきょろきょろと窺っていた。中を
焲は貴人の如き威厳のある素振りで、揺れ動く舟を颯爽と降りる。
「ご苦労、感謝する」
笠を取って初めて露わになった彼女の顔に楫取りは胸を打たれ、目を丸くして彼女を見つめた。
低く束ねている朱色の髪は艶やかで、下に伸びるほど色は薄まっていき、グラデーションが綺麗に彼女の影を作り出している。瞳は燃えるような赤色だが、その奥には万物を見据えるような確りとした意志が垣間見え、それでいて雰囲気は優しく穏やかだった。
焲の一言で、楫取りはまるで呪縛が解けたかのように胸の痞を下ろして、緊張の緩まった表情を浮かべながら舟を戻していった。
舟が暗晦の中を進み、消えゆくその最後を見守ってから、焲は軽い溜息を
見栄を張っていたわけではないが、緊張していないというと嘘になる。この緊張というのは悪い方に作用して、それは彼女の心身を着実に蝕んでいったし、彼女もそれは理解していた。
しかし、彼女の立場上、「弱気」は見せれば命取りとなる。
焲は今、非常に大きな権力と財産、そして栄誉をその身に背負っている。その分圧し掛かる重圧は並大抵ではなく、焲自身、そのことには大きく悩んでいるところであった。
——
長槍を握る門番に会釈を交わす。すると扉はすぐさま開かれ、躊躇なく彼女はその扉を抜けていった——。
本殿というのも、さして豪華なものではない。武家邸をぐっと広げたようなもので、風通しの良さと光の届きにくさだけが並みの邸との違いだろう。
広間には蝋燭が等間隔に並べられ、どれもゆらゆらと柔らかな風に揺られている。
その許には様々な風格の人物が皆、畳の上で胡坐を掻いたり、正座をしたりして腰を据えていた。
筋肉質で恰幅の良い
今宵、
「
息の落ち着くその暇もくれず、焲の目前で歌膝を組んで座る女が彼女を揶揄う。一間を置いて、焲は
「私情を理由にするつもりはない。私が悪かった、すまぬ」
「ふふっ——、つまらん奴め」
女は鼻で嗤い、軽侮の念を堂々と露わにした。
無境門を超えられる九つの種族の内、三番目の権威を有する種族「
肌は真珠の如く艶めいていて、染みの一つも見当たらない。白銀の色が纏っている長髪から眉の先にまで伸び、甘美かつ蠱惑的な雰囲気が彼女の背後から滲み出ており、その姿には誰もが一度は魅了されようものだ。
しかし、そんな彼女がひとたび口を開けば、それはすぐに覆される。煽情的な口ぶりに、己の長所である「美」を最大限に活かした、少々危なっかしい妖艶な社交性。
焲もその内の一人と言え、犾と対照的な性格である焲は
「——静粛に」
対面で成される列の先頭で鎮座する、頭の禿げて落ち着いた中年の男が、小さく言を放つ。すると一行は数瞬の間に静寂を作り、次なる彼の指示を待った。
目を瞑り、涅槃の境地にいるかのような落ち着きを払う——
四角四面な人間で口調もかなり堅いのが特徴で、それは御供が暫し訳を挟むほど。常に正装を纏い、髪は一本もない。鬚を少々生やしており、熟考する際にはその鬚をそっと撫でる癖がある。
彼は人部族である為に群を抜いて理性的で知性に溢れ、これまでに数多の功績を残した。無境門を作り乱世をうまく鎮めたのがその代表で、故に彼は今、不動の地位を築き上げている。
「——
低めいた声でそう言うと、続いて皆も口を揃えて乾杯と唱える。
これが談議開幕の挨拶のようなものであり、またこの談議においては、倧の言った口約を守らなければならない。
境無く公平に接し、稟性を使わないこと——。
柔らかな風は不安を煽るように焲の背筋をなぞる。蝋燭の灯りも風に揺られ、不穏な影は左右に靡いた。
焲は誓約の盃を口に含みながら、犾のことを凝視した。バレぬようじっくりと、針を穴に通すように——。
焲は身を引きそうになるほど慄いた。その感覚が初めてで、まるで心底に寄生した「何か」が己の感情を支配するようなものであったからだ。
我に返ってもう一度犾を見た時、彼女は
談議にはその供として、必ず酒が用意される。將進に酒を進め、酔い
今宵はその四夜目にあたり、棟梁たちもようやく互いに慣れてきた、というところである。
「
顔を真っ赤にした武将肌の
竹族は武器商から辺鄙な曲者まで数多く揃い、無境門を超える九つの種族の中でも四番目に漢種を多く抱える一大種族である。政は上手くいっており、外交に関しては中立の立場を取っている。故にこの談議にも緩衝材として呼ばれているようなもので、彼自身の負担というのは少ない。
「遅れたのは私の勝手によるものだ。本当にすまなかった」
焲はバツの悪そうに答えるも、酔っている筹にそれを察する判断力はない。
「真意を申してみよ! だれも怒ってなどおらぬ。そうであろう?
筹は彼と対面して座る娩沢で楚々とした女——蒐に話を振った。
「あまり興味はない」
これに対し、蒐は素っ気ない素振りで、筹の話をさらりと受け流す。あまりの絡まなさに、焲は眉を顰めて蒐を一瞥した。
——律儀な正座で、すらりと伸びる足をちんまりと降り畳んでいる蒐は、新緑のように透明感のある、薄緑色の端麗な髪を揺らしながら、くいっと八塩折の酒を呷る。
「蒐殿にはいつも冷たくあしらわれる……。然れど、あれほどの美人……いつか手にしたいものであるな……」
でろでろに酔う筹は頬肘をつきながら、うっとりとした視線を蒐に向けた。
そちらにずっと気を取られていてくれ、と焲は心の隅でそう願い、安堵の溜息を吐く。
「——きっと、
盃の二口目を口へ持って行ったところで、厭な言の旋律が焲の耳を過った。
得た安堵を数瞬の間に緊張へ変えて、声の主の方へ振り返る。
まただ。
また彼女が、犾が。こちらをじっと覗っている。厭が付くほど集中的で、焲を絶対に逃がすまいとの思念が込められている——。
しかし、焲とて、それほどのことで畏まるような器ではない。平然を取り繕うことなど、権威者として当然のことである。
「灲はまだまだ幼い。十にも満たぬ若さだ。手の掛かることは多々とある」
「ふっ——。まぁ幼ければ、自分が殺される理由も分からんだろう。哀れだな」
「何を、言っておる」
焲には漠然とした想像しかできなかった。犾はそうなることさえも予想していたかのように、満足気な面持を見せつける。
「帥の跡取りというだけで、その幼き
「お主……一体何を考えておる?」
焲は声量を抑え、僅かな猝嗟を囁くようにして犾に近づく。談議は確りと行われているものの、酔いの所為で陣はもう崩れている。焲が犾に接近しようと、誰も気に留めることはない。
犾は暗い微笑を見せたまま、
「今宵も……
「おのれ——」
本格的に酔って盃を振り回す筹が、彼女たちの会話に割り込んでくる。茹蛸のように顔を赤らめ、到底状況を把握しているとは言い難い。
「犾どのぉ! 今宵も〈
犾は焲の刺すような睨みを撫でるように躱し、筹を軽くあしらう。
「すまぬな、筹殿。あいにく奴は今宵、狩りに出掛けておってな——」
——深い、ふかい森林。樹海とまでは言わずとも、月明り一つではなんとも頼りない。それほどに縹渺としていて、そこは暗晦に包まれている。
静寂で、暗闇に先はない。視界は青冷めていて、同じ景色が延々と続く。自然的であっても生命の予感は一つも感じられず、そんな無機質な森林は、踏み入る者を呑み込む罠のように周囲の山々に溶け込んでいた。
どどどっ——どどどっ——と、馬の襲歩が聞こえる。一定したリズムは相当の遠方から。未だ籠った足音は段々と大きく、激しくなり、何れや森の中を高速で駆けていく。草木は高速で走る馬に釣られて風に纏われ、ざさっと大きく揺れた。
駿馬に騎乗するは、巧みに馬を操る中年の武将と、齢十にも満たぬ小柄な幼女。幼女は武将の前に座り、疾走する馬に
対する中年の武将は、声にこそは出さずとも、戦慄とした表情は隠れ切っておらず、馬を操る手綱には焦燥の汗がびっしょりと染みついていた。時折後ろを振り返っては渋った顔をし、「はぁっ!」と意気を入れて馬をより一層速く走らせる。
「
幼女は何気なく彼——
「
息の荒らぐ樔は馬の疲弊など露知らず、
灲は必死になって逃避する樔を不思議に思いながら、彼と彼の操る駿馬に身を任せて、その小さな体躯を揺らし続けた。
少しばかりに走り続けていると、背後が徐々に熱気を帯びてきたことを感じる。樔はそれを感じた刹那、背に冷や汗をだらりと掻いて、遂には馬に無茶をさせてしまう。
三里と走った馬にそれ以上を求めるのは無理だったようで、暗闇の中、餌食を喰らう鷲よりも速く走った馬は、小さな石ころに前足を躓かせて盛大な転倒を果たした。急激に振り払われた灲と樔は慣性に身を投げ出して、遂には崔嵬の獣道に大きく躰を打ち付けた。
土埃がぐわっと立ち、凄まじい衝突音は僅かな余韻を残して暗晦の奥へと波紋し、消えていく。
横たわる灲は朦朧とした意識の中、細めた目つきで辺りを見回す。頭がずきずきして、躰じゅうから打たれたような打撲感を感じる。到底起き上がれそうになく、結局その場でぐったりとのびてしまった。
「…………っ。……さまっ! ——灲様っ!」
次に目を覚ました時、目前には傷だらけの樔が涙で眸を潤わせながら、懸命に灲のことを呼んでいた。
「んんっ——。樔——」
囁くよりも小さな声量で言を零す灲に、樔は安堵の溜息を吐いた。
熱気は先ほどよりも感じやすく、辺りには仄かな
「わぁ……」
しかし、寸陰の間に樔が彼女の肩を掴み、灲は目前の巨漢に集中を削がれた。
「——灲様! 良うございますか。私は此処で来客を迎えねばなりませぬ。灲様は日の出と共に、日の
樔はいそいそと喋りながら、水の入った竹筒を灲に手渡す。唐突として、
樔はごつごつした、角張った太い指で、灲の純白で小さな手を優しく握る。樔の手に皺の数は幾百。目立つ傷もある。対する灲の手に傷は疎か、皺の一つも見つからないほどに綺麗で、美しかった。
そんな彼女の手の甲に、温かな涙がほろりと、一滴。
「あぁ——、灲様はきっと、強いお方になられる。…………貴女様の生涯に、
「どうして、泣いているの……?」
灲は首を傾げる。
「ふふっ。嬉しくて、泣いているのですよ。——灲様。私は先にいきます。どうか、ご無事で」
「どこに行くの?」
樔は言葉に詰まった。灲はこの世の
しかし、きゅっと握り返された温かみを、樔は悔しくも手離すほかなかった。
沈黙は金。
樔は言を放つことなく、重い腰をゆっくりと上げる。
火粉はひらりと舞い続け、樔は
——灲はしばらく呆然としていたが、やがて
しかし、怪我を負った少女ががたいの良い巨漢に追いつけるわけもなく、彼女自身も追いつこうという気はなかった。ただ、彼の行く先を。彼がいったい誰を迎えるのかを……。
原動力は、無意識から成る好奇心からだった。
数瞬の間に影すらも見えなくなったが、彼女は自分の勘を信じて直進する。面をむわっと襲う厭な熱気に逆らって、模糊たる樔の影を追う。
——しばらくの間も置かぬうちに、凄まじい衝突音と爆発にも近い音が灲の耳を襲った。勘は的中していたようで、音源は前方のそう遠くないところからである。
灲は今までに聞いたことのない、恐怖に駆られる音に腰を抜かしたが、それでも這いつくばって彼を追った。
やがて、野太い怒声と共に、炎の高く舞う明かりが灲の幼き顔を照らした。
森が、燃えている。
夢中になっていた灲が正気を取り戻した時、辺りは一面火の海であった。火が、焼けてしまいそうに熱い炎が、彼女の周囲で木々を貪りながらめらめら踊っている。
灲は怖くなった。
周章てて茂みを掻き分け、樔の声のする方へと這い進む。地面の砂が爪の中を抉り、不快で堪らなかった。
でも、そんなことよりも、一目散に樔の胸へと飛び込みたかった。あの熊のように大きく、それでいて快闊で優しかった樔の許へ——。
この世に生を受けて九つの灲が、初めて見た光景。
つい半刻前まで手を繋いでいた勇猛な武者が、一人の女を前にして踊っている。全身に火を纏い、黒焦げになりながら。大きく口を開け、声にならない叫びを上げて、必死に藻掻いている。
周囲の轟々と燃える炎たちと共に、あちらへ、こちらへ。
唐草模様の直垂の破片が、焦げながら宙を舞って地に落ち、それに続いて樔の眼であったであろうものが、ぽとりと淋漓して、粘っこく地面に張り付いた。
それを
文字通りに、消えた——。
灲はその惨憺たる現実に言を失った。声を失った。我を失った。
身震いを起こし、旋毛から足の指の先にまで鳥肌を立てて、慄いた。全身が痺れて、五感を失った。
茫然自失として、ただ目前で起きたことを目視するしかなかった。
瞳孔が開き、眸の焦点が合わず、ふるふると震え続けている。そんな灲に樔を殺した奴の姿は、判然と映らなかった。揺るがぬ影だけがそこに在り、それは到底常人といえるものでなかったことだけは確かである。
灲はもう生きる気力を失って、荒い地に頬を打ち付けた。
言を発す力も失って、僅かに唇を震わせながら、薄れていく景色をぼんやりと見つめる。
やがて瞼が段々と重りを成し、そして遂に灲が目を覚ますことはなかった。
灲、享年九——。
猋焱物語 狄 @dark_blue_nurse
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