猋焱物語

؜狄

叙幕


 叙幕


 流るる大川。夜桜がひらり、はらりと舞い、水面は一面桃色に満ちた。

 微風が靡き、桜の花弁は波と共に踊る。穏やかで、月光も微笑んでいた。


 大川の中を揺蕩う舟が一葉、桜の波を掻き分けながら進む。ゆらりゆらりと、雲水の如く。一重にも二重にも立つ波が水面に波紋を描き、舟は微風に逆らって航行していた。

 舟には二人。紅色の牡丹が華麗に咲き誇った着物を纏う女と、色褪せた麻衣あさぎぬを一枚だけ羽織る貧相な楫取かんどりの男。

 男はを携え、舟を揺れぬように進める。それは不快になられぬようにと、すべて同乗する女の為であった。

 笠に桜が溜まり、男はそれを除けておもてをすっと上げる。視線の先には、水上に仁王が如く大々と聳える大門おおもん。煹灯の僅かな明りに灯されるそれに思わず息を呑んで、彼はことを零した。

「ここが無境門むきょうもん、ですか……」

 これに対し、女——ユィはとやかくいうこともなければ、顔を上げることもしなかった。ただ佇んで、舟底に溜まる桜を見て惚けるだけである。

「お主は、初めてか」

「ええ。この荘厳、一度見つれば忘れることはありませぬゆえ

 それを耳にした焲は、峻険な眼差しを男に向けた。決して怒りをぶつけるようなものではなかったが、ある程度警戒を促すものではあった。彼女のそれに危険な雰囲気はすぐ伝わり、男はもう一度息を呑む。

「よいか。あの門より先は読んで字の如く、無境・・である。多種の漢種が境無く接さなければならない。種族の恨みは決して、見せてはならんのだ」

 淡々と、慣れたように焲は言う。しかし、言の意はそう軽いものではなかった。「無境」であって「種族の恨み」を容認しないのであれば、それはすなわち無法地帯を意味するに等しい。

 大門を前にしたちっぽけな男は暫し考えて、鳥肌を立たせた。たとえそれが「彼女を門中に送り届けるだけ」という依頼であったとしても、その門の中に入るという行為自体が、侵してはいけない領域に入ってしまうような感覚がしたからだ。

 対して、焲は依然として沈着とした様子であって、これから通る恐怖に覚悟の意があるといえた。


 時は夐久けんきゅう六年——。

 楫取かんどりの男は今日こんにち、初めてこの門をくぐる。

 底知れぬ恐怖は目前の壮大さに煽られて過剰し、身震いは手を伝って舟を僅かに揺らす。

 焲は微弱な揺れをも見逃さず、楫取りを「按ずるな」と宥めた。端麗な彼女の口許くちもとに浮かべられる仄かな微笑は、不安な彼を嘲笑うようにも、安心を与えるようにも見える。目許は笠に隠れて判然はっきりと見えなかったが、恐らく本当は笑っていない。

 ——彼は雑念を置き、覚悟の大きな一息を吐いて、ぐっとを握り締めた。


 大川水上に聳える無境門の扉が、怪物の唸りのような音を上げて開く。高さは程知れず、見上げれば気が遠くなりそうになる。開いた門は大きな波を起こし、うねりが列を成して、それは入っていく舟を呑み込むようにも見えた。

 淑女を乗せた小さな舟は、大波に身を捩らせながらも、無事にその門をくぐり抜ける。

 暗晦の渦に消えゆく小さな舟は、月光を背に、いつしかその影をも仄かで遠いものになっていった。

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