猋焱物語
狄
叙幕
叙幕
流るる大川。夜桜がひらり、はらりと舞い、水面は一面桃色に満ちた。
微風が靡き、桜の花弁は波と共に踊る。穏やかで、月光も微笑んでいた。
大川の中を揺蕩う舟が一葉、桜の波を掻き分けながら進む。ゆらりゆらりと、雲水の如く。一重にも二重にも立つ波が水面に波紋を描き、舟は微風に逆らって航行していた。
舟には二人。紅色の牡丹が華麗に咲き誇った着物を纏う女と、色褪せた
男は
笠に桜が溜まり、男はそれを除けて
「ここが
これに対し、女——
「お主は、初めてか」
「ええ。この荘厳、一度見つれば忘れることはありませぬ
それを耳にした焲は、峻険な眼差しを男に向けた。決して怒りをぶつけるようなものではなかったが、ある程度警戒を促すものではあった。彼女のそれに危険な雰囲気はすぐ伝わり、男はもう一度息を呑む。
「よいか。あの門より先は読んで字の如く、
淡々と、慣れたように焲は言う。しかし、言の意はそう軽いものではなかった。「無境」であって「種族の恨み」を容認しないのであれば、それは
大門を前にしたちっぽけな男は暫し考えて、鳥肌を立たせた。たとえそれが「彼女を門中に送り届けるだけ」という依頼であったとしても、その門の中に入るという行為自体が、侵してはいけない領域に入ってしまうような感覚がしたからだ。
対して、焲は依然として沈着とした様子であって、これから通る恐怖に覚悟の意があるといえた。
時は
底知れぬ恐怖は目前の壮大さに煽られて過剰し、身震いは手を伝って舟を僅かに揺らす。
焲は微弱な揺れをも見逃さず、楫取りを「按ずるな」と宥めた。端麗な彼女の
——彼は雑念を置き、覚悟の大きな一息を吐いて、ぐっと
大川水上に聳える無境門の扉が、怪物の唸りのような音を上げて開く。高さは程知れず、見上げれば気が遠くなりそうになる。開いた門は大きな波を起こし、うねりが列を成して、それは入っていく舟を呑み込むようにも見えた。
淑女を乗せた小さな舟は、大波に身を捩らせながらも、無事にその門をくぐり抜ける。
暗晦の渦に消えゆく小さな舟は、月光を背に、いつしかその影をも仄かで遠いものになっていった。
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