10

 石段は白く画一的に切り詰められ、黒い落ち葉と枯れ枝に覆われている。ネモジンと寿太郎はそこを踏み登る。着実な足取りには木々の緑を仰ぐ余裕すらあった。

 登った先には扉のない門柱があった。その向こうで寺院は下からの印象より背が低く、左右に大きく広がっていた。茅葺きの屋根と木造の壁は見るからに清潔で、落ち葉だらけの石段と違い人の手は掛かっているように見える。だがその人は見当たらない。一切の人気がない。古刹の静けさではなく、真空めいた無音。ネモジンは両手の指を屈伸した。寿太郎は気付かずに進んだ。寺院は開かれた玄関から薄暗い室内が見えていた。


「立派だけど観光向きじゃなさそう。どういう場所?」


 寿太郎は御旅屋の軒先を指さした。筆文字ののたくる看板がある。ネモジンはにっこりと微笑んだ。


「ごめん、字は読めない。来たばっかりだから」

「す、すみません、訳します。

 "私は農場 私は農民 私は穀物を育て粉に挽く

 私は食事を作り 皿に盛る そして自ら食べる"

 ……と記してあります」

「ふうん、ありがたいお話に聞こえるね。宗教施設?」

「反曲点を支援するための拠点です。価値ある旅のための屋敷の意味で、御旅屋おたやと言います」

「あー、さっきのおじさんが言ってた宿か。支援って?」

「食事、衣服、宿泊、持物の管理、外部との取り次ぎ……その他何でもです。僕は入ったこともありませんが」


 二人は玄関を上がり進んだ。足音が固く響き、木の床が高く鳴る。

 屋内は広く、木造に隔てられただけの空気が不思議と冷えていた。床と四方の柱の他に立体物は何もない。物を置く十分な空間が完全に持て余されている。

 ただ御堂の中央に、緋色の絨毯だけが広げられていた。

 今はその上にいくつかの皿がある。

 さらにそこに盛られる料理があった。

 炊かれた白い穀物、赤から茶色のグラデーションが混ざる根菜の焼き物、粘り気のある豆のスープが湯気を立てる。数歩離れていても塩気と香ばしさが二人の鼻を突いた。


「ふーん、歓迎会にしちゃ地味」


 無人の空間に唐突に現れた食膳をネモジンは短く評価した。その気怠い顔を寿太郎は凝視した。


「そこですか? もっと驚くことがあると思いますが」

「別に、魔法でしょ。修理のおじさんが出したお菓子もメイド・イン・ここだろうし、ってことは幻覚でもなく本物なんでしょう」


 ネモジンは絨毯上の虚空を見た。


「もっとお肉とか魚とかないの?」


 言い終えた瞬間に皿が増え、串に刺さった固形物が香ばしい匂いと音を立てた。


「何の肉? まさか曲りとか言わないよね。分からないまま食べるわけないけど」


 ネモジンが言うと串焼きは皿ごと消えた。寿太郎は苦しげに息を吐いた。その声に石段を昇るまでの高揚はなかった。


「──すみません。お気に召さなかったことは分かります」

「確かに召さないけど、内部を知らなかったキミが気にすることじゃない。願いを叶える魔法の絨毯はともかく、誰の顔も見えないのが不気味で嫌なだけだから」


 ネモジンは平静に言い、虚空をじっと睨み続けた。


「そう、支援って言うなら、状況を説明できる人でも出してもらおうかな。この土地の責任者でも、何ならシェフでも良い」


 空間は応えなかった。現れる人はなく、食膳すら増えも減りもしない。ネモジンは舌を打ち鳴らした。その残響に寿太郎だけが怯えた。


「誰も居ないのでは?」

「誰かは居るよ。人間じゃないとしても、いまここに肉体はないとしても、少なくともこちらの要望を判別するセンサーと思考回路はあるわけでしょ。それなら、反応か無反応かだけじゃないコミュニケーションも取れるはず。食料の生産も調理も調達も魔法だったとして、それを使う思考は──」


 ネモジンは口を回しながら腑に落ちない何かを感じた。原因にはすぐに思い当たる。ネモジンは寿太郎を見た。堂に入ってから初めて見た少年の顔は外光の影に覆われていた。


「──ここの生活は魔法で支えられている。農場にも曲りの始末にも労働力は必要なさそうだった。なら少年、反曲点じゃないキミは、この土地で何をしていたの?」


 寿太郎は答えなかった。ネモジンはその返事を聞くことも、反応する表情を見ることもなかった。

 寿太郎は消えた。直前までその肉体があった位置から、いまは暗い玄関と青空が見えた。

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