ハッピーエンド

・・・あれ?


私はとても暗い部屋の冷たい椅子に座っていた。


ここはどこだろうか。


目の前には、4台のブラウン管テレビが、2台ごとに積まれており、その一番上にはやや幅の広い液晶モニターが異様な眩しさで光を放っていて、目がチカチカする。


よくよく目を凝らして、周辺を確認すると、注射器がそこら中に散らばっていた。


そして、だらんと垂れ下がった今の私の右手にも空の注射器が一本握られている。


私はとりあえず辺りを見回すために立ち上がろうとするも、なぜか体に力が入らなかった。


そこで仕方なく、モニターには何が映っているのだろうと、目を細くしてその画面を見やると、そこには質素なベッドに横になる一人の中年な女性が映っていた。


その人物は衰弱しているのか微動だにしない。


周囲の状況からして、家ではなく、あそこは劣悪な医療施設なのだろう。お世辞にもあまりきれいな状態とは言えない。


誰なのだろうか。


私は慎重に、そのベッドの頭にあるネームプレートに焦点を移す。


すると―


私の母と同じ名前が書いてあった。


あれ?


その瞬間(とき)、私の眠っていた脳が急速に脈動を始め、様々な記憶が濁流のように流れ込み、その勢いの中で溺れそうになりながらも現在の状況をようやく把握するに至ったのであった。


・・・


私の日々はいつも幸福で楽しかった。


家族でみんな仲良しだった。


優しい父に母、仲良しな弟に恵まれた。


みんなで外に遊びに行ったり、近所のファミレスで美味しいご飯を食べた。


学校生活も楽しかった。


友達とはいろいろお喋りしたり、勉強をしたり、食事をしたり。


バイト先のみんなは優しくて、いつも頼りにされていた。


誕生日は家族で豪華に祝っていた。


けれど・・・


ある日、父は母と喧嘩し、家を出て行った。


ある日、友達からのメッセージは途絶えた。


ある日、弟は上京して家を出て行った。


ある日、勤めていたスーパーが閉店した。


ある日、母は病気になり、病院へ運ばれて幾日か経ったのち、別の医療施設へと送られた。


・・・


ねぇ、どうして。


どうして、みんな変わっていってしまうの。


どうして、幸せな時間は遠のくばかりなの。


どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして・・・


私も少しだけ変わったよ。


でも、できるだけ幸せな時間は大切にしたかった。


だから、高校を卒業したら人手不足で困っていたアルバイト先の職場をパートとして働くようにした。


優しい人たちが苦しい表情を見せるのが嫌で一生懸命に働くようにした。そうしたら、「助かる。」って言ってくれて嬉しかったし、報われたような気がした。


私は今の時間が大好きだった。ずっと続いてくれればいいのにって。


みんなも笑顔で、きっとその時間が幸せなはずだよね。


私はそのためになら、変わることはできるだけ避けるようにしてきた。


変わってしまったら、もうその時間はやって来ないのだから。


なのに・・・


私の周りの環境はどんどん壊れていった。何もかもが崩れていった。


何を間違ったのだろう、どうして離れていってしまうの。


私はただ、みんなと変わらない幸せな時間を過ごしたかっただけなのに...


私は低い給料しかもらっていなくて、母親にあまり援助をしてやれないでいる。


一番私を幸せにしてくれた母を、私は・・・


そういえば、ここのことも段々と思い出してきた。


今のように家で悩んでいたところ、外から陽気なメキシコ風のメロディーがジャンジャンと大きなボリュームで鳴り響いてきた。そこで私はその騒音の正体を確かめ苦情を言うために外を出ると音の向かってくる方角を頼りに歩を進めた。


すると、家の近くにあった広い空き地に『幸せの館』なるサーカス会場ができていることに気づき、どうもそこが音源らしかった。


その会場には、紫と白のストライプ柄のテントがたくさんあって、大きい立て看板に、『幸せの館へようこそ!』と書かれていた。


辺りには人がおらず、私は責任者がテントの中にいるのかと思って、中央のテントへ入っていった。


そのテントの中には、大きな等身大の鏡が中央に据えてあり、そのすぐ右には、『この鏡の前でしばらく立っているとスタッフがあなたを迎え入れます。』と書かれた小さな立て看板があった。


テント内は、なんだか甘くて癒されるようないい香りがした。


私はその案内通りの場所に立っていると、ピエロの格好をした人物が迎えてくれて、「幸せの館へようこそおいで下さいました。さぁ、まずはあちらのお部屋へご案内いたします。」と強引に案内しだしたので、「いや、私はこの近所に住む者で、あなた方の会場から今も聞こえる、このけたたましい音をどうにか止めてもらえないかと思ってここに来たのです。」と苦情を言うと、「あぁ、すみませんでした。では音量を小さくしますね。」と言って、そのピエロは左手に持っていた小型のリモコンで、会場の音を小さくした。


そうして私が帰ろうとすると、「あぁちょっと待ってください。ここまで来られたのなら、ぜひ寄っていきませんか。私はきっとあなたを幸せにしますよ。」と言うので、私は初めその誘いを怪しんでいたが、その時の気分が影響していたこともあって、どんなものかと少し気になったので、その申し出を受けてみることにした。


「さぁそれじゃあ、ご案内しましょう。」


そういって通されたのが、まさにこの部屋だった。


この部屋に着くなりピエロは、「まずは、この椅子へ着けますか。」と言うので私がそこへ座って、「何が始まるんですか?」と尋ねると、「まぁまぁ、そう慌てないでください。今からあなたを幸せにするためのサプライズが用意されていますので、少しの間だけ目隠しをしてもらっても構いませんか?」と答えるので、「それはいいですけど・・・」と少し不安げになりながら彼の言うままにした。


そしてピエロは「あなたの左腕を椅子のひじ掛けに乗せてもらえますか?」と注文してきたので、「ずいぶん手の込んだ仕掛けを準備されているのですね。」と皮肉交じりに返しながら言われた通りにすると、「そう怒らないでください。幸せはそうすぐ手に入るものではありませんから。あなたもそう思うでしょう?」と言いつつ、手のひらが上に来るようピエロは私の左腕を返すと、「よし、これで体勢の準備は整いました!あとはもう三秒ほどで体験をお見せしますので、お待ちください。」と大きな声を出すのと同じくらいに、私の左腕に少しチクっとした違和感を覚えた。


私はこれと同じ体験したことがあるような・・・そう、注射だ!


そう思い立つや否や、その左腕を振り解こうと意識した。


しかし・・どうにも力が入らない。全身が脱力している。


そして私は抗うことを許されず、ピエロのされるがままに注射を受けたのであった。


・・・


私は現在に至るまでの事態を認識したが、気分は悪くなるばかりだった。


あぁ、目の前に転がっている空になった注射器の数は一体いくつあるのだろう。


何十、何百、いや何千かもしれない。


そういえば、ひざ元には新品の注射が一本置いてある。


ふと私は思い出す。


私は一体、これらを何回『自分で』打ってきたのだろう。


辛うじて動く右手がその感触を覚えている。


もはや口で何を発することもできず、体はダルけた有様だ。


ブラウン管に映っている映像が視界に入る。


そこには、私が今まで体験していた楽しい思い出の数々がセピア調に投影されていた。


私がずっと求めている、幸せな時間が流れている。


あぁ、あの中で過ごしたい。


家族とともに過ごした日々、友達との他愛もない日常、優しい職場の人たちに頼りにされて、誕生日には祝いのケーキで盛り上がって・・・


私は垂れ下がっていた右手が握っていた注射を床に落として、その腕をゆっくりと持ち上げると新しい注射器を掴む。


それで私は左腕に針を刺して、中の薬品を体内に注入しようと―


その行為に至る直前、あの一番上にある眩いモニターの光が鋭く瞳孔に入ったかと思えば、その決断を揺るがした。


そうだ、みなが去ってしまった後でさえ一緒にいてくれた母に会いに行かなくてはならない。


あまり稼ぎのいい仕事ではなかっただろうに、私をご飯に誘ってくれたり、誕生日を祝ってくれて、とても嬉しかった。


また一緒にあの花畑へも行きたいよ。


それなのに、私は誘惑に負けようとしている。


ダメだよね、そう分かってる。


私を一番幸せにしてくれた人を裏切るなんてできない。



けど・・・・



そう、あと一回だけ。


自分に甘えているのは分かっている、でも、私弱くって・・


薬品を押し出すプランジャーをじっくりと自分の方向へ押していく。


誰か私を止めて、お願い、ここから連れ出してほしい。


誰か、誰か、誰か、いませんか。もう私一人では止められないの。


もう八割ほど体内に注入されてしまっている。


私はみんなが変わってほしくなかった。


ずっと一緒にいたかった。


でも、時間はとても残酷で、幸せな時間のまま止まることはなかった。


物語のように、キリよくハッピーエンドで終わってほしかった。


なのに時間は進むばかりで・・・


お母さんから幸せをもらっているばかりで、私からは全然何もプレゼントできなかったよね、ごめん。


この夢の時間が終わったら、きっと会いに行くよ。


そう、きっと、きっと、きっと―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸福の注射 @Mushoku_1231

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画