第9話 頂へ

 スタートのシグナルが鳴る。


 桧山の目つきが変わった。それは昨今見せた負けを受け入れている人間のものではない。


 飛び石――一度はここでリタイアしたこともあるエリア。まったく問題にせず、忍者のように飛び移る。


 そして続く大回転丸太。ここでも回転に耐えきれずに何度も落ちた。だが、今回はまったく危なげなく回転する力に耐え抜いている。


 振り子状に揺れる鉄製のハンマー。ミスター金山マッスルの散った変則リズムも、まるでボクサーのステップのように華麗にかわした。


「あれ、本当に桧山か?」


 観客の誰かがひとりごちる。無理もない。かつての過去の輝きを失った桧山は、昨今で画にかいたようなロートルオーラを出していた。それがまったく感じられない。別人のように見えても仕方がないだろう。


 トランポリンを勢いよく踏んで、間違えてロープではない大蛇の方へ飛びそうになる。観客が悲鳴を上げる中、途中で気付いて飛ぶ直前に反対側へと跳ぶ方向を修正する。公式サイトに事件簿の形で珍プレーを特集されてきた人間の動きとは思えない。


 ここで桧山にとって鬼門が出てきた。


 反り立っている巨大な壁――たわんだ形で湾曲した壁は、数々の挑戦者を退けてきた。桧山もこの壁のせいで何回も時間切れになっている。


 ――もう、余計なことはしない。勢いをつけて走って、飛ぶ角度を瞬時に計算するだけや。


 ゾーン状態の桧山はシンプルな思考になっていた。かつては余計なことを色々と考えて策士策に溺れるといった場面が見られたが、今回の桧山は違う。シンプルに坂を駆け上がり、一発で反り立っている巨大な壁を乗り越える。


 会場に響く大歓声。だが、次こそは本当の鬼門だった。


 ランプ・グラップル――ここでは電球の形をした突起物を掴んで移動しないといけない。落ちれば下で泳いでいるクロコダイルの餌になる。そして、そのクロコダイルは積極的に空中までジャンプしてくる。


 まさに無理ゲー。だが、泣き言を言っている場合でもない。


 もう時間がない。これを超えて、時間制限内に長いロープを登り切らないと完全制覇とはならない。


「瀬川、見てろよ」


 やり方はさっき瀬川が見せてくれた。後はそれを真似すればいいだけ。下ではワニがウヨウヨと泳いでいる。見ないことにした。


 電球型の突起物を掴む。油断すると滑りそうだ。思ったよりもスベスベとした手触りだった。


 下から飛んでくるクロコダイルを警戒して、極力体を天板に近付ける。ワニが飛ぶ。つま先に猛獣の鼻が当たる。冷汗が出て、恐怖で胃が小さくなる。だけど、恐れている場合ではない。もたつけば制限時間がなくなり、焦りは手元の狂いを生む。波風しか立ちそうにない感情を、静かな湖の水面のように静謐に保つ。


 あと少しでランプ・グラップルが終わるところで、例の特大クロコダイルが飛んできた。特撮映像顔負けのサイズ。体を天板へくっつけて、虫が張り付くような体勢でかわす。


 背中にクロコダイルの頭部が当たった。あいつはここまで跳ぶことが出来る。恐ろしいワニだった。


 巨大ワニが池で大きなしぶきを上げている間に、桧山は対岸へと飛び移った。会場から大歓声が上がる。瀬川夏彦ですら到達出来なかったエリアに、ロートルと化したはずの桧山が辿り着いた。それは十分に驚愕出来る真実だった。


「あと少しや」


 自分を鼓舞するように呟く。残っているのはクソ長いロープを登るだけ。通常はハーネスを付けるが、テロリストが魔改造したMURIGEでそのような配慮があるはずがない。


 桧山は何もつけず、数十メートルある綱を登りはじめた。上の方でうっかり転落しようものなら、文字通りの死が待っている。


 それでも、不思議と怖さはなかった。死ぬかもしれない恐怖よりも、またいただきへと登り切るチャンスが出てきたことの方がよほど気にすべきことだった。


 ――待ってろよ。


 心の中でひとりごちる。歯を食いしばり、足も使って巧みにロープを登っていく。


 あちこちから桧山コールが起こる。もう何年も前に見た光景。


 もうあの時の筋力は戻らない。動体視力も悪くなり、走り込みをすれば膝も痛くなる。パソコンで作業すれば目もかすむようになった。


 健康に良いからと寝る前に水を飲むと、トイレへ行きたくなって寝不足になる。時間の経過とともに、理不尽なことばかりが起こる。


 自分のやりたいことを貫いていても、それも周囲の許容範囲を超えれば白い目で見られる。誰よりも頑張って生きているのに、奇人変人のように扱われる。動画サイトではネタ扱いされ、公式からも事件簿と銘打った珍プレー集を作られる。


 振り返ると屈辱的なことばかりで、舐められる辛酸をすべて舐めてきたと言っても過言ではない。それでも――


 ――それでも、俺はあのいただきにある光景が見てみたい。


 自分を突き動かす理由はただそれだけだった。


 鳴りやまない桧山コール。「これさえクリア出来れば」と、建設現場からクレーンまで借りて来て繰り返した綱登りの練習。それが何年も後になって活きていた。


 まるで駆け上がるかのように綱を登る桧山。俺は、絶対に諦めない。


 カウントダウンの音が会場に響く。残り時間が少ない。だけど、あと何秒かるのかを気にしている余裕もない。電光掲示板は見ずに、綱をひたすら登っていく。


 天板の丸い穴。そこから先には星空が広がっている。いつかに見たのと同じ景色。時が止まったようだった。


 ロープを登り切ると、分厚い赤いボタンを叩く。


 その瞬間、完全制覇達成を意味するスモークが勢いよく飛び出した。


「わ、やた……」


 自分でも偉業達成が信じられず、桧山は思わず素に戻る。


 文字通りに命を懸けたMURIGEが終わった。それも、まさかの桧山が優勝するという形で。


 下の方で小さく見える観客たちは、暗黒の魔城最上階から見ても大騒ぎだった。それそうだろう。誰だってこんな極限状態で完全制覇が達成されたらそんなリアクション委なるに違いない。


 だが――


「この景色、ヨメや子供にも見せたかったな」


 遠くに見える街明かりを見て、桧山は思わずひとりごちた。


 桧山の挑戦に付き合い切れず離れていった家族たち。彼らは今、どうしているのだろうか。時々労うメッセージが来るが、それ以上のことについてはよく知らない。


 桧山の心は、手放しで偉業達成を喜べる状態になかった。それがいつからなのかは分からない。とっくに飛ぶ力を無くして、惰力だけで滑走路を走り続けていたようなものなのだから。

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