第8話 ジャンピング・クロコダイル
逃げるはずだったMURIGEのステージ。あたりはすっかり血で染まっている。むせ返るような匂いがするはずだが、鼻がバカになっているのか何も感じない。
98番目の選手がサソリの大群がうごめくプールへ落ちて脱落した。誰かが完全制覇をしてくれればという思いがなかったわけでもないが、どうやら本格的に自分でクリアするしか生き残る道はないようだった。
選択肢は生存か死。中間はない。ファミコン時代のマリオの世界に放り込まれた気分だった。
――残機はあと二つ。俺と瀬川。俺たちが失敗すればゲームオーバーや。
「それじゃあ、行って来るよ」
瀬川が近所にでも出かけるような口調で言う。最後に固く握手を交わすと、自分に憧れて来た男の背中を見送った。
「それではゼッケン99番、かつての完全制覇者でもある瀬川夏彦選手の登場です」
無機質な声でアナウンスが流れると、あちこちから救世主でも現れたかのような歓声が沸く。恐らく事実上のラストチャンスだと思っているのだろう。誰もネタ枠扱いにまで堕ちてしまったかつての強豪に期待などしていない。
――開始を知らせるシグナルが鳴る。
誰もが認める、瀬川夏彦の挑戦が始まった。
瀬川は軽く飛び石を超えると、大回転丸太も危なげなくクリアする。下でピラニアが泳いでいようと全く関係なさそうだった。
変則的なリズムで左右へと触れる鉄製ハンマーも、冷静にその軌道を見ながらかわしていく。よく見れば決してかわせない障害ではない。そう自分で証明しているかのようだった。
トランポリンへと走ると、距離もタイミングも完璧な大ジャンプ。大蛇のトラップにも引っかからず、本物の綱を掴んで壁をよじ登る。
サソリが大量に放り込まれた落とし穴を超えると、桧山の苦手な反り立っている巨大な壁すら難なく超えていく。
「いける、いけるぞ……!」
観客の誰かがひとりごちると、それに勢いづいて応援が大きくなっていく。
瀬川はもう一度ヒーローになる。誰もがそれを確信した。
ゴールは目前だ。後は天井に付いた電球のような突起を掴んで進んでいく、ランプ・グラップルを超えて綱を登るだけ。
制限時間は十分ある。あと少しで、皆がこの地獄から解放される。
ランプ・グラップル手前で、瀬川は後ろを振り返った。遠く離れた桧山と目が合う。瀬川が微笑む。もうすぐでゴールなのに、妙に嫌な予感がした。
「瀬川、油断すんな! まだ何があるか分からんぞ!」
桧山が声を張る。会場に潜む魔物については誰よりもよく知っている。あいつは人を油断させ、その隙に喰いにくる。そんな魔物の気配を、どこかに感じずにはいられなかった。
瀬川がランプ・グラップルに着手する。空中に浮いた電球状の突起を掴んで、スイスイと上空を進んでいく。
まったく危なげなく進み、最後のロープが視界に入った。
ようやく地獄のゲームが終わりを告げる。誰もがそう思った瞬間――
「は?」
桧山ははじめに何が起こったのか理解出来なかった。気付けば大きな黒い塊が、空中でランプを掴んで移動している瀬川へと伸びあがっていた。
「ワニだ……」
「え? 嘘でしょ?」
浮いている桧山に飛びつこうとしているのは、黒光りする肌を持ったクロコダイルだった。
さすがに瀬川も動揺したのか、空中で口だけ動かして声にならない悲鳴を上げている。
「あかんやろ、こんなの……」
桧山の口から、誰へともない抗議が漏れる。
ピラニアの泳ぐ池だけでも十分に無理ゲーなのに、ワニが襲いかかってくるステージなんて狂っている。
ワニはすれすれまでジャンプするので、瀬川はなんとか喰われないように空中に浮いた天板へと体を引き付ける。だが、手首から先の力だけで全身を長い時間支えているのは無理がある。
体をかすめるクロコダイルの鼻先。空中で喰われなくても、このままでは力尽きて落ちてしまう。
「瀬川、飛べ! 遠くから飛んで着地するんや! お前なら出来る!」
桧山が遠くから声を張る。
実際にランプ・グラップルの天板から次のエリアへと繋がる足場までは結構な距離があったが、飛べばギリギリ着地出来ない距離でもない。ここで喰われるよりは、まだ生存出来そうな戦略だった。
瀬川が上を向いたまま「分かったよ」とばかりに頷く。
ワニが飛ぶ。間一髪でかわすと、一瞬の隙が生まれた。
「飛べ!」
瀬川が飛ぶ。台まであと少し。足さえ引っかかれば、あとは強引にでもよじ登れる。
だが――
激しい水柱。さっきよりも大きなクロコダイルが、着地目前の瀬川を空中でとらえた。
「うわああああああ!」
絶叫。その声を発した瀬川は池へと引きずり込まれ、一瞬で姿を消した。
「なんでや!」
クロコダイルは一匹ではなかった。最後に瀬川を咥えたワニはかなりの大きさだった。本物があれほど大きいとは、夢にも思っていなかった。
「瀬川! 逃げろ!」
半狂乱になって叫ぶ桧山。水面にはコポコポと泡が浮かび、遅れて紅い色が広がっていった。
時が止まる。誰もがその場から動くことも出来ず、何が起きたのかを受け止めることが出来なかった。
「なんでや……」
スタート地点で、両膝をついて崩れ落ちる桧山。
瀬川が死んだ。完全制覇も遂げたヒーローが、あっけなく散った。
「なんでや」
あまりにも理不尽過ぎる。
瀬川との思い出が走馬灯のようによぎっていく。自分が第1ステージで散った時も、瀬川は自分のことのように泣いてくれた。完全制覇を遂げた時、家族よりも先に桧山に偉業達成の報告をしに来た。
「俺だって、お前に憧れていたんや。追い抜かれて、その背中を目指して走って来たのに……」
涙が溢れてくる。間もなく自分の番になって、最悪のメンタルでMURIGEに臨むこととなる。MURIGEの9割はメンタルだ。もう勝てる気がしない。
「それでは、最後の挑戦者といきましょうか」
テロリストは淡々と進行を行う。まるで工場のラインでも動かしているかのように。
無理だ。とてもじゃないが、まともな精神状態で臨める状態じゃない。何人ものかけがえのない仲間たちを失った。それらは完全に桧山のキャパシティを超えていた。
全身に絶望の闇が広がっていく。足に力が入らない。
――俺はこのまま、死ぬしかないんか。
そう思った刹那、あちこちから桧山コールが起こる。誰からということでもない。すでにロートルと化した桧山を、心の底から応援している人がいた。
泣きはらした目でそれを眺めていると、桧山を呼ぶ声はどんどん大きくなっていく。
「桧山、頑張れ!」
「桧山さんなら出来るよ~!」
声援の合間に声が飛ぶ。
――俺なんか、とっくに見放されたんやなかったのか。
自虐的な思考とともに、驚きが沸いてくる。よく見ると、悪夢のファイナルステージをやった時と同じ顔ぶれもいる。お互いにシワも増えたが、あの時に熱い声援を送ってくれた人たちに違いない。
少なくとも彼らは、桧山が完全制覇を達成してほしいと本気で願っているようだった。
彼らだけではない。現在の会場には、桧山のことを心から応援してくれる人で溢れている。散々人が死んだのに、信じられない光景だった。
頬を熱いものが伝う。
「これはズルいわ」
思わずひとりごちる。
そうだ、まだMURIGEは終わっていない。
たとえ上手くいかなかったとして、それが何だと言うのだ。あの頂を目指して全力を尽くす。その先に見える光景が栄光か屈辱かなんて問題じゃない。
「そうや。俺はこれがやりたかったんや」
桧山が立ち上がる。それだけで大歓声が起こった。涙はいまだに止まらない。構わない。泣きながらでも完全制覇してやる。
「それでは最後の挑戦者、ゼッケン100番の桧山正巳選手です」
ボイスチェンジャーで変えているはずの声が、少しだけ熱を持ったように感じた。桧山は拳を突き上げて歓声に応える。
最後の挑戦の、シグナルが鳴った。
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