第7話 奮起
「瀬川……」
桧山を止めたのは、かつて完全制覇を遂げた瀬川夏彦だった。瀬川は桧山に憧れてMURIGEを始めたと公言しており、溢れる若さと情熱で本当に完全制覇を遂げた。
ファイナルを逃した時、「桧山がもう少しだけ若ければ」と言われている中で突如現れた新星だったため、ニューヒーローとなる瀬川の登場は大いに歓迎された。
そんな瀬川も子供が出来て、いよいよ引退かという時期に差し掛かっている。彼が今回のMURIGEが最後になるだろうとSNSで呟いていた。アイドル並みのイケメンと言われていた顔も、今はいくつかのシワが刻み込まれている。
「桧山さん、あとちょっとで俺らの出番が来る」
「お、おう……」
今しがた逃げようとしていたなどとは口が裂けても言えない。
「知ってるかもしれないけど、俺は今回の大会でMURIGEを引退するつもりだった。まさか、こんな状況になるとは夢にも思っていなかったけどな」
「そうか」
何を言うのが正解なのかも分からず、そっけない言葉が出てくる。後から来た瀬川が先に引退すると聞くと、やはり切ないものがこみ上げてくる。
「俺は桧山さんに憧れてMURIGEを始めた。それで今日になっても変わらない。あなたはずっと俺の憧れだ。完全制覇したって、『一番好きな選手は?』って訊かれたら『桧山正巳に決まってる』って答えるよ」
瀬川は惨状に似合わない笑顔で軽口を叩く。それでも、その目は真剣だった。
「だからさ、桧山さん。俺の最後の挑戦、しっかり見ていてくれよ。正直、あのステージはクリアが困難だ。勝率は絶望的だろう。それでも俺はやる。そこに暗黒の魔城があるからだ」
「瀬川……」
まっすぐな目で言う完全制覇者。いつかは俺もこんな目をしていたのだろうか。年を喰ったせいか、涙腺が緩くなっている。
「当たり前やろ」
溢れ出した涙を拭う。瀬川の肩を抱き寄せる。これが最後の抱擁になるかもしれない。
「お前は俺が認めた最強の男や。空気も読まずに完全制覇を達成して、俺にまた夢を見せてくれや」
「……もちろん」
「それに、俺もまだ死にたくないしな」
ほとんど本音で冗談を飛ばすと、瀬川と一緒に泣きながら大笑いした。瀬川はゼッケン99番。桧山の一つ前だった。
壁の向こうから悲鳴が聞こえる。また誰かがピラニアの餌になった。何回も繰り返されると、慣れていく自分が怖かった。
「そろそろや」
あっという間に時間は過ぎ去り、瀬川と桧山の出番も近付いてくる。恐らくこの日は戦後に残る有数の大事件として語り継がれるに違いない。競技そのものがなくなってしまう可能性すらある。
それでも――
それでも俺は、頂に辿り着きたい。
そんな想いがこみ上げてきた。
「そういや、逃げ損なったな」
思わずひとりごちると「何か言った?」と訊かれたので、「いや、何も」とごまかした。今さら逃げることが出来ない。本気で逃げる気があるのなら泣いている場合ではなかった。
だけど、今はそんなことはどうでもいい。
――今度こそ、あの暗黒の魔城を倒す。
桧山の魂は、これからの闘いへ向けて熱く燃えていた。
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